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タントラへの道 ユーモアのセンス Q&A

▼ Q&A


Q―――善い行いや正しい行いについて、私が聞いた講義のほとんどが次のように言っています。
まずはじめに徳を積み、善につき、そして悪を捨てよ、そうすれば後で〈善への固執〉を捨てることが容易になる。このアプローチについてどう思われますか?


A―――ユーモアのセンスという支店からながめると、〈捨てる〉という考えそのものがあまりにも文字通りで単純に思われる。

善であろうとしてすべてを捨てようとすることは、皮肉なことに捨てることではまったくないのだ。
それはより多くのものを身につけることだ。
おかしなことだがそれは事実だ。

ある人は自分が選んでいる大きな荷物を放り出すことができると思うだろう。
しかし彼にとっては実際に放り出した荷物よりも、荷物がないこと、捨てたということの方がその何百倍も重い意味をもつのだ。

何かを捨て去ることはやさしい。
しかし、捨てることに伴って、徳行という非常に重大な副産物生み出すことにもなりかねない。

人に会うたびにあなたは心の中で思ったり、実際口にすることさえあるだろう。
「これとあれを捨てたんです」と。

〈捨てた〉ことがだんだん重くなってくる。
まるで黴菌を袋に入れて背負っているようなものだ。
ついにはまるで大きなカビを運んでいるようになるかもしれない。
カビはそのスピードをぐんぐん増して増殖している。
ある時点に来ると、あなたはそれほど多くのものをすてたことにまったくがまんができなくなってしまう。


 それと同じように、もし瞑想を深刻なこと、重大なできごととしてとらえるならば、それは次第に厄介な重苦しいことになり、それは食べものの食べすぎに似ている。

いまにも腹痛を起こしそうになってやっと気づく。
「こんなことなら空腹のままのほうがよかった。少なくともいまより身軽だった。こんなにつめこんでしまっていまにも病気になりそうだ。いっそ何も食べなければよかったのだ」と。

私たちは精神性をそれほど深刻にとらえてはならない。
それは自分を打ち負かすことであって、〈捨てる〉ことの本当の意味とは正反対のことだ。



Q―――すると悲壮感というものは、悟った人ならすでに克服しているべきものでしょうか?


A―――悲壮感を捨てるためには必ずしも悟っている必要はない。
緊張の度が高まる一方の状態や、悲壮感に巻きこまれてしまっているとき、あなたは突然その状況の中にもユーモアを見はじめるかもしれない。
音楽で音が次第に高まって絶頂に達し、急に音が止むと、その静寂もまた音楽の一部として聞こえるのと同じだ。

それは何も特別な経験ではなく、日常的なありふれた経験だ。
だからこそそれはあらゆる体験の中でも最もあたりまえなものなのだ。

なぜなら私たちはそれに何の価値判断も加えないからだ。
そのような経験があったとも言いがたいほど単純なことなのだ。

もちろんここで例のひねくれたエゴを登場させれば、そのまま論理を延長し、あったかなかったかもわからないような経験だからこそ、それほどあたりまえなことだからこそ、それはあらゆる体験の中で最も価値あるものだと言うこともできるだろう。

これは自分が関わっていることがたいしたことなのだと証明しようとする観念的なやりかたにすぎない。
それは少しも重要なことなのではない。



Q―――ユーモアのセンスは、何かの形で突然の閃きである悟りとつながっているのでしょうか?


A―――たしかに。
大笑いしながら死んだ男の話がある。
純朴なその村人はあるとき、師にアミターバ(阿弥陀仏)の色をたずねた。それは伝統的な仏画ではつねに赤く彩色されている。

しかし何を聞き間違えたのか、男は師がアミターバ色は火の灰の色だと答えたものと思い込んでいた。
これは男の瞑想の修行全体に影響した。
なぜなら、アミターバを資格化する修行をするたびに彼は灰色のアミターバを心に描いたからだ。


 ついに男の臨終のときが来た。
師の床にあった男はもう一度確かめてみようと考え、別の師にアミターバの色をたずねた。

その師がアミターバの色は赤だと答えると、男は大笑いしはじめた。
「アミターバは灰色だとばかり思っていたのに、師は今になってそれが赤だと言われるのですか?」

男は笑い転げながら死んだ。
つまりある種のばかげたまじめさは、放り出してしまわなければならないということだ。


 笑いを爆発させることで覚醒の状態を本当に知ることができた人の例はたくさんある。

笑いとは二極的な状況の対比にアイロニーを見ることだ。

例えばあるところに行者がいた。彼は何マイルか離れた村に信者をもっていた。
この信者は行者に食べ物や他の必要品を布施し、彼の修行を支えていた。行者にそれらの品物を届けるのは普通信者の妻や息子や娘だった。

ところがある日のこと、信者がみずから行者に会いに来るという。

 「信者によい印象を与えなければいかん。祭壇を掃除して小道具は全部ピカピカに磨きあげ、部屋もこざっぱりと整頓しなければ・・・・・・」と行者は考えた。
彼はすべてを磨きたて、置き換えて、見違えるようになった祭壇に新しい水をはった聖椀を並べ、バターランプをあかあかとともした。

それからその前に坐って満足げに部屋の中を見渡した。
何もかも小ざっぱりしているが、なんとなく現実感がない。
見れば祭壇さえも同じようにリアルでないのだ。

突然彼は自分が自分を騙そうとしていることに気づいて愕然とした。
そこで台所に行ってひとつかみの灰を持ってきた彼は、それを祭壇にまき散らし、部屋中を汚してしまった。

そのときやって来た信者は、行者の部屋の自然な様子、小ぎれいでないことにかえって非常に心を動かされた。
行者はもうがまんができなかった。

彼は爆笑しながら言った。
「いやはや自分も部屋も小ぎれいにしようとしてみたが、おそらくあんたに見せるにはこのほうがいいと思ったんじゃ。」


 そして行者も信者もともに大笑いになった。
それは二人にとって偉大な覚醒の瞬間であった。



Q―――毎回の講義であなたはわたしたちがすでに罠にはまり、網にかかっていて逃げられそうもない状況について語られます。そのときあなたは逃げ出す道があることを暗に意味しておられるのでしょうか?


A―――要するに、もし逃げ道について話しているのだとしたら、それは幻想の世界で、逃避の夢、救済、悟りを語っていることになる。

私たちは現実的でなければならない。
いまここにあるものつまり私たちのノイローゼ的な心をまず調べなければならない。

一度自分の中にある否定的な側面をすっかり知ってしまえば、自然に〈逃げ道〉はわかってくる。
しかし、ゴールに達することのすばらしさや悦びを語ることは、極端に初心でロマンティックだ。
このようなアプローチはそれ自体が妨げになる。


 私たちは実際的であるべきだ。病気になったら医者に行くのと同じことだ。
医者が治療をしようとするなら、患者のどこが悪いのかをまず知る必要がある。
どこが正常であるかは問題ではない。
それは治療とは関係のないことだ。
あなたのどこが悪いのかを医者に話すことが、病気から回復する逃げ道なのだ。

仏陀が四つの貴い真理(四諦)を最初の教えとして説いた理由はそこにある。
私たちは苦しみ、苦痛=ドゥッカを悟ることから始めるべきだ。
ドゥッカを悟ったときに人は苦しみの源をつきとめ、そこから脱け出す道を見つけて解放に達することができる。

仏陀は悟りの体験の美しさを説くことから始めたのではなかった。



Q―――価値づけや判断のありきたりのパターンに従って考えたことなのですが、あなたが後の講義で述べられた私たちが犯している誤りや妨げは、先の講義で述べられたそれに比べればなんとなく進んだもののような気がするのですがどうなのでしょう?


A―――たしかにそのとうり。
菩薩の場合のようにすでに道に一歩を踏み出した後でも、一度目覚めた状態を体験すると、その体験を分析しようとする傾向が生まれないとは言えない。

自分を見つめ分析し、そして評価することにとらわれて、最後にヴァジラ・サマーディ(金剛喩定)と呼ばれる鋭い一撃が起こるまでそれは続く。

これは瞑想による最終的なサマーディ(三昧)の状態だ。
このサマーディを「ヴァジラ(ダイヤモンド)のような」と呼ぶ理由は、それがいかなるナンセンスも許さず、私たちが演じているあらゆるゲームのまっただ中を切り裂いてしまうからだ。

仏陀の生涯の物語の中に非常に微妙なマーラ(悪魔)の誘惑の話がある。
最初の誘惑は肉体がむしばまれる恐怖をいだくことだ。

そして最後の誘惑はマーラの娘たちによる誘惑だ。
この誘惑、つまり精神の物質主義の誘惑は非常に強力なものだ。

なぜならそれは(自分)が何かを成し遂げたのだと思いこませるからだ。

自分は何かを成し遂げた、やり遂げた、と考えるとき、私たちはマーラの娘たちの誘惑に乗ってしまった、つまり精神の物質主義にまどわされているのだといえる。

タントラへの道 ユーモアのセンス

Sense of humor


この「ユーモアのセンス」というテーマを、ユーモアのセンスではないものは何かという点から、考察してみるとおもしろいだろう。

ユーモアのセンスに欠けることは、ものごとを〈厳しい事実〉としてとらえる態度からくるように思える。
その人にとってはあらゆるものごとが厳粛で裏表がなく、たとえて言えば生ける屍のようなものだ。

彼は苦しみに生き、その表情はたえず苦痛を表わしている。彼は〈現実〉(リアリティ)というような厳しい事実を体験して真剣にそれをとらえ、ついに生ける屍になるところまで行ってしまった。

この生ける屍のかたくなさはユーモアのセンスとは正反対のものだ。

誰かがあなたの背後に立って鋭い剣をつきつけてでもいるようだ。瞑想中には、背を伸ばしてまっすぐに坐り、ただしくやらなければたちまち背後から打たれるのではないだろうか。
あるいは正しく正直に真っ向から人生に対処していなかったら、たちまち誰かに叩かれそうだ。

これは自意識が必要以上に自分を見張り、観察している状態だ。
自分のすることなすことすべてが見張られ、検べられる。

ところで実際に見張っているのはビッグ・ブラザーではない。
それはビッグ・ミー(自分)なのだ。

自分の中のもうひとりの自分が背後で自分を見張り、自分の失敗を見つけたらすぐに打とうと待ちかまえている。
このようなアプローチには悦びがない。
ユーモアのセンスがまったくない。


 このようなまじめさは精神の物質主義の問題にも関連している。

 「自分は瞑想修行の特定の系統に属していてその教会と団体の一員だ。そして宗教的な誓いを立てた以上、善良で誠実で教会にお参りすることを欠かさないような人間にならなければならない。自分は教会の基準、規則そして規制に従わなければならない。もし自分の義務を果たさなければ、その罪を咎められ縮小人間にされてしまうだろう。」


 そこには厳粛さと死の脅威がある。
―――ここで言う死とは、これからおこるはずのあらゆる創造的なプロセスの死のことだ。
この態度には限界とかたくなさが感じられる。
動き回ることのできる空間がまったくない。


「では優れた宗教の口伝や教義についてはどうなのだろう? それらは戒律や規則・規制について説いている。それらとユーモアのセンスをどのように調和させたらよいのだろう?」という疑問が出てくるかもしれない。
ここでその疑問を正確に考察してみよう。


 そもそも、規制や戒律そして徳行を修行することは〈善〉を〈悪〉に対立させる単純な価値判断に基づいているのだろうか?

 偉大なる精神的な教えは、自分たちが光明の側、善の側にあるという理由から、悪と戦うことを本当に提唱しているのだろうか?

 それらの教えは私たちがもうひとつの〈好ましくない〉側面、悪と暗黒の側面と戦うことを説いているのだろうか?

 それは大きな疑問だ。
聖なる教えというものが本当の智慧を伝えているならば、いかなる戦いもありえないはずだ。

私たちが戦うことに巻き込まれて自分を防御し、相手を攻撃しようとしているかぎり、その行為は聖なるものとは言えない。

それこそ世俗的で二元対立的な状況だ。私たちには、偉大なる教えとは、善につこうとして、悪と戦うという単純なものとは思えない。

それではまるでハエリウッド西部劇のアプローチだ。
結末は見る前から確実に分かっている。〈善玉〉は絶対に殺られず、最後には必ず〈悪玉〉がやっつけられるのだ。

明らかにこのアプローチは単純で愚かすぎる。
しかし私たちが〈精神的〉な戦い、〈精神的〉な達成と言いながら作り上げているのはまさにこのような状況なのだ。


 私はユーモアのセンスが乱暴に解き放たれるべきだと言っているわけではない。
ただものごとを単純な戦いやあがきや二元性以上のものとして見るべきだと言っているのだ。

精神の道を戦場と見なすならば、私たちは弱々しくて頼りない存在に過ぎない。
そうすれば道における私たちの進歩を測る基準はどれほどの領域を征服したか、自分や他人の欠陥をどれだけ克服したか、どれほどの否定的な要素を取り除いたかというようなことにかかってくるだろう。

あなたが取り除いた暗黒の分だけあなたは光を生み出すことができるというわけだ。
それは非常に弱い光だ。
そのような光を解脱や自由、あるいはムクティやニルヴァーナと呼ぶことはできない。

それは何か他のものを打ち負かすことによって得た解放だ。
それはあくまでも相対的なものだ。

私は〈ユーモアのセンス〉を何かもったいぶったものにしようとしているのではない。
他の人もどうかそのようにとらないことを願う。

しかし屍によって代表されるかたくなさを本当に理解するためには、ユーモアのセンスをまじめに受け取る危険性は避けられないだろう。

ユーモアのセンスとは、状況の両極をありのままに見ることだ。
空中から見おろすような視野をもって、そこにある善と悪の両方を見とおすことだ。
そうすれば、地上のちっぽけな人間たちが殺し合い、愛し合い、あるいはちっぽけな人間としてただ在ることが、些細なできごとに過ぎないことがわかる。

そして、その戦いや愛が大変なできごとであるかのようにふるまう人々が作り出す喧騒の浅はかさが見えてくる。
私たちが、「自分は心から何かを探求しているのだ、本当に自分の欠陥と戦おうとしているのだ」とか、「自分は根っからの善人になろうとしているのだ」と、何か測り知れない、意味深い、強力なものを築きあげようと必死になればなるほど、その意図のまじめさは失われ、ただの張子の虎と化してしまう。
それは実に皮肉なことだ。


 ユーモアのセンスは、あらゆるものに充満する喜びから生まれるように思われる。
その悦びは〈これ〉と〈あれ〉との間の戦いに巻きこまれていない。

したがって、完全に開かれた状況に広がってゆく余裕をもっている。
その悦びは、すべてを含む場、開かれた場を見たり感じたりすることのできる広がりのある状態へ発展してゆく。

その開かれた状態には限界もなく、強いられたしかめつらさもない。

人生を〈深刻なビジネス〉として扱ったり、人生のあらゆるものごとが重大事であるかのように、しかめつらさを押しつけることの度が過ぎると、それはむしろ滑稽になってしまう。
なぜそれほどの重大事なのだろうか?


 百パーセントあるいは二百パーセント完全な姿勢で瞑想しようとする人がいるかもしれない。
たいしたことだ。
滑稽なことだ。

また一方ではユーモアのセンスを育てようとして、ものごとをすべて茶化したり、あるいはユーモアを見いだそうとしてあらゆる隅々やすきまを探しまわる人がいるかもしれない。

するとそのこと自体が深刻なゲームになる。

これも滑稽だ。

歯をくいしばり、舌をかむほど張りつめて、肉体的な緊張の極に達すると、突然、誰かにくすぐられるような感じになる。
緊張が過ぎたからだ。
そうまで極端に走ることは愚かなことだ。
その極端な緊張そのものが、自然にユーモアになる。

チベットにこんな話がある。
ある僧がサンサーラ(輪廻)の混乱に満ちた生活を捨て、あらゆる時間を瞑想に費やすために洞窟に住むことにした。

それまで彼はたえまなく苦しみや痛みについて考えつづけた。
彼はラングルのゴナクパ、つまりラングルの黒い顔と呼ばれた。彼が人生のあらゆるものごとw苦痛と見なし、けっして笑わないところからこの名前がつけられた。
何年もの間、彼はその洞窟で厳しい修行を続けた。

ある日彼がふと祭壇を見ると、誰かが献物として置いていったらしい、大きなトルコ石のかたまりが目にはいった。
それをながめていると、やがて鼠が一匹忍びこんできて、そのトルコ石を曳いてゆこうとしはじめた。

しかしトルコ石はびくとも動かない。
するとネズミは、穴に戻ってもう一匹のネズミを呼んできた。
二匹で曳いても大きなトルコ石はびくともしない。
すると二匹はいっしょに鳴きわめいてもう八匹のネズミを呼び出し、とうとうそのトルコ石を穴に持ち運ぶことに成功した。

それを見ていたラングルのゴナクパは、生まれてはじめて相好をくずして大笑いしはじめた。

それは突然の悟りの閃きであり、彼にとっては開くことへの最初のきっかけとなった。

つまりユーモアのセンスとは、ただ冗談や駄洒落をとばしたり、わざと滑稽を装おうとすることではないのだ。
それは、けっして他を容認しようとしない極端さに伴うアイロニーを見てとることにつながっている。
そうすればその極端さを深刻にとらえたり、希望と恐れのゲームをしかつめらしく演じることはなくなるはずだ。

だからこそ精神的な道を体験することは深い意味をもつ。

瞑想の実践はあらゆる体験の中で最もあたりまえのことだ。

私たちがそれに価値判断を加えないからこそ、それはあたりまえなのだ。

価値判断を加えることなく開かれるという、その意味性をもたぬ状態にひとたび溶け込んでしまえば、自分のまわりに起こっているあらゆるゲームを見とおすことができる。

厳格に精神的な重々しさを保ち、善人であろうと努力している人に対して誰かが彼の気持ちを傷つけるようなことをしたならば、彼はそれを深刻に受けとり、けんかさえ始めかねない。

あなたがあるがままであることの根本的な単純さに身をゆだねているならば、そのような厳格さや、ものごとをすべて大げさにとらえようとする人々の態度に、ユーモアを見はじめるだろう。

タントラへの道 開かれた道 Q&A

Q―――菩薩であることは人を助けることを意味し、人はそれぞれ特定の要素を持っているのではないかと思うのです。

ということは、菩薩が特定の行為を要求されていることだと思うのです。
しかし、完全に開かれていることと特定の行為をすることとは、どのように調和するのでしょうか?


A―――開かれていることとは、無責任で魂の抜け殻になることではない。
それはそれぞれの状況の中で、求められている行為が何であろうとそれをすることができる自由さのことだ。

あなたは状況から何かを得ることを臨んではいない。
だから状況に本当に適ったやりかたで自由に行動することができる。

また同時に人々があなたから何かを求めているとすれば、それは彼らの問題だ。
あなたは彼らの機嫌をとろうとする必要はない。
開くことは〈あるがまま〉でいることだ。
あなたが気持ちよくあるがままの自分でいることができれば、開かれたコミュニケーションのできる環境はひとりでに生まれてくる。

先に話した月と水の入った器の関係と同じことだ。
そこに器があれば、それは必ずあなたの〈月のような本質〉を映し出す。
器がなければ影は映らない。
器が半分欠けていれば半分欠けた月が映る。
それは器次第だ。

月であるあなたはただそこに在る。
開いている。
器がその影を映すこともあれば映さないこともある。
あなたはそれを気にかけもせず気にかけないこともない。
あなたはただそこに在る。

状況は自然に展開する。
自分を特定の役割や特定の環境に押し込める必要はない。
私たちの多くが長い間それをやろうとしてきたと思う。

自分で自分の限界を作り、狭く限られた一連の環境に自分を押しこめてきた。
そしてひとつのところに注意を集中することに大変なエネルギーを使っているので、自分がそれ以外の大きな領域を見すごしていることに気づくと驚いてしまうのだ。



Q―――慈悲をもって行動し、同時に必要なやるべきことをきちんとすることはできるのでしょうか?


A―――あなたの中にスピードと攻撃性がなければ、その中で動きまわりのものごとをかたづける空間が生まれる。
そして必要なやるべき事がより明確に見えるようになる。
あなたはもっと有能になり、あなたの仕事はより正確になる。



Q―――リンポチェ、あなたはたしかに開かれた道と内に向かう道とを区別されたと思うのですが、内向と外向との違いが何であるのかくわしく説明してください。


A―――あなたが使っている〈内向的〉という言葉はつねに自分自身をふりかえり、自分がじゅうぶんに価値があり、働きがあり、体裁の良い人間であるかどうかを考えるという意味でのあがきを指しているように思われる。
こうしたアプローチには度の過ぎた〈自分との取り組み〉、つまり度の過ぎた内向的な心の集中が見られる。

それに対して開かれた道は真にあるがままと取り組むことであり、何かがうまくいかないのではないかとか、ものごとが失敗に終わるのではないかというパラノイアを一切捨てることだ。
私たちは純粋にあるがままの生に対処するのだ。



Q―――暖かみのある態度はどこから生まれるのでしょうか?


A―――攻撃性の不在から生まれる。


Q―――しかしそれはゴールなのでしょう?


A―――同時に道でもあり橋でもある。
橋の上には誰も住まない。
それは渡ってゆくものだ。

瞑想の経験では攻撃性の不在らしい状態が自然に起こってくるのが感じられる。
それがダルマの定義だ。
ダルマは〈激情を離れること〉あるいは〈激情のないことと〉定義されているが、激情のないこととは攻撃性の不在を意味する。

もしあなたが激情をもつならば、自分の欲望をすばやく満足させるものを得たいと望む。
自分を満足させようとする欲望がなければ、攻撃性もスピードも生まれてこない。

そこでもしあなたが瞑想の実践の単純さを本当に自分のものにすることができるならば、攻撃性はひとりでになくなるものだ。
達成しようとするあせりがなければ、リラックスすることができる。
そしてリラックスする余裕ができれば、あなたは自分自身と友達になることができる。

そうすれば思考であれ感情であれ、あなたの心に起こるあらゆることが、たえまなく自分自身と友達になるための行為を強調するようになる。

異なった表現を用いるならば、慈悲とは瞑想修行が含んでいる大地のような性質であり、素朴で堅固な雰囲気なのだ。
慈悲の持つ暖かみが伝えるのは、急ぐことなくそれぞれの状況とあるがままに関わるというメッセージだ。

アメリカインディアンの〈坐る雄牛〉という名前はこの形容にぴったりだ。
〈坐る雄牛〉は非常に確かで実質的な内用をもっている。
あなたは本当に確実に在り、安らいでいる。



Q―――あなたは慈悲とは育ってゆくものであり、それを養う必要はないという意味のことを言われたように思われますが―――。


A―――それはそれ自身で発展し、育ち、そして発行する。
それはなんらの努力も必要としない。



Q―――それは死ぬことがあるでしょうか?


A―――死ぬことはないように思われる。
シャーンティデーヴァが言ったように、慈悲を含まないあらゆる行為は枯れ木を植えるようなものであり、慈悲に結びついたあらゆる行為は、生きた木を植えるのに似ている。

それは終わることなく育ちつづけて枯れることがない。
一見枯れたように見えても、必ず後に種が残り、そこからまた新しい木が生えてくる。
慈悲とは生きているものだ。
それは絶えることなく育っていく。



Q―――誰かと関係をもちはじめたときには、ある種の暖かみが生まれます。
しかしなぜかそのエネルギーが私たちを呑みこみ、とりこにしてしまい、身動きする余裕も空間も感じられなくなってしまうのです。


A―――もしその暖かみに、裏がなく、時運の安全保障のためというのでないならば、それはそれ自体を支えるものであり、根本的に健康なものだ。
ヨーグルトを作るとき、必要以上に温度を上げたり培養菌を入れると、うまくできない。
正しい温度を保ち、後は放っておきさえすれば、おいしいヨーグルトができるのだ。



Q―――どうしたら放っておくべきときが来たことがわかるのでしょう?


A―――たえまなく自分を管理しようとすることはない。
自分に対するコントロールを維持しようとするよりも、それを捨てるべきだ。
自分自身を調べようとするよりも、それを信じるべきだ。
自分を調べようとすればするほど、状況の自然なたわむれや展開を阻む可能性が大きくなる。
たとえ自分のしていることが危なっかしく感じられ、何もかもが破綻し、ゆがめられてしまいそうな兆しが見えたとしても、あなたがそれについて心配することはない。



Q―――心配せざるをえないような状況を、誰かが作り出したらどうしますか?


A―――心配することは何の役にも立たない。
それは事態を悪化させるだけだ。



Q―――ここで話し合われているプロセスには、ある種の大胆さが要求されているように思われるのですが―――。


A―――確かにそのとおりだ。その大胆さとは肯定的な考え方であり、豊かな精神性のことだ。


Q―――必要な暴力をふるうことが究極的には相手のためになると感じられたらどうしますか?


A―――やりなさい。


Q―――しかし私たちが本当の慈悲と智慧をまだもっていないとしたら?


A―――自分の智慧を疑ったり心配することはない。
求められることをただやればよいのだ。
あなたが直面している状況そのものの中に智慧と見なされてもよいほどの深みがあるのだ。

あなたはそれ以上情報の二次的な源を必要としない。
自分の行為の補強主指針も必要としない。
状況が自然にあなたの行為を補強してくれる。

もし荒々しいやりかたでものごとを処理しなければならないときは、状況があなたのそのような反応を求めているのだから、あなたはただそうする他はない。
それは荒々しさを押し付けることではない。
あなたはただ状況の道具として働くのだ。



Q―――慈悲を感じないときは、橋のために何をしたらよいのでしょう?


A―――慈悲を感じなくてもよいのだ。
情熱的な慈悲と本当の慈悲の違いはそこにある。
慈悲を必ずしも感じるとはかぎらない。
あなた自身が慈悲そのものなのだ。
もし開いているならば、あなたには甘えが一切ない。
したがってそこに慈悲が生まれてくるのがふつうだ。



Q―――慈悲の橋はつねに維持されていなければならないのでしょうか?


A―――私はそうは思わない。
それは、維持されることよりもむしろ認められることを必要とする。
そこに橋があることを認めること。
それが豊かな精神性だ。



Q―――もし誰かを恐れていて、おそらくそれ相応の理由があるときはどうしたらよいのでしょう?私の場合、それは慈悲を破壊してしまいます。


Q―――慈悲とは、人の助けや世話を必要とする人々を見くだす心ではない。

それはあらゆることに通じる基本的で有機的な思考、肯定的な思考のことだ。

人を恐れることは、本来あるがままの自分の姿についての半信半疑の気持ちを生み出す。
だからこそあなたはその状況や人を恐れるのだ。

恐れは半信半疑の状態から生まれる。
自分がその恐ろしい状況をどのように扱うべきか知っていれば恐れはなくなる。

恐れは狼狽と半信半疑の当惑から生まれる。
そして半信半疑は、自分を脅かしているその不可解な問題にぶつかってゆくには自分はあまりにも頼りないという感覚、つまり自分自身に対する不信感につながっている。

もしあなたが慈悲をもって自分自身と関わっているならば、何の恐れももたないはずだ。
なぜならあなたには自分のしていることがよくわかっているはずだからだ。

自分のしていることがはっきりわかっているならば、あなたの投影もまた整然としたものにあまり、ある意味で前もってそれを予想することができるようになる。
そうすればプラジュニャーつまりそれぞれの状況にどのように関わってゆくかという知恵が発達してゆく。



Q―――いま言われた投影とは何を意味するのでしょう?


A―――投影とは鏡に映るあなた自身の姿だ。
もし自分自身に対して半信半疑であれば世界はそれを繁栄し不確かさがあなたに返ってくる。
その反応があなたにつきまとい、あなたを脅かす。
あなたの不確かさがあなたにつきまとう。
しかしそれはただ鏡に映った影にすぎない。



Q―――自分に対して慈悲をもっていれば、自分のしていることがよくわかるというのはどういう意味なのでしょう?


A―――瞑想のこれら二つの相はいつも同時に現われる。
自分自身に対して自己を開き、自分自身に対して肯定的な態度をもっているならば、自分のしていることがはっきりわかる。
そのときあなた自身にとって自分が神秘な存在ではなくなるからだ。

これがジュニャーナ= ※2 智慧、自然に在る意識的な智慧、だ。

あなたは自分が自然に存在することを知る。自分のありのままの姿を知る。
だから同時に自分自身を信頼することもできるのだ。



Q―――もし本当に自分自身と友達になろうとするならば、誤りを犯すことをつねに恐れるようなことはなくなるのでしょうか?


A―――そのとおり。

智慧に当たるチベット語はイェシェで、それは〈根源的な知性〉を意味する。

あなたはすべてが始まる最初からあなた自身である。

それは〈自分自身に対する始まりのない信頼〉とでも呼ぶことができるだろう。
始まりを見いだす必要はまったくない。

それはもともとある状態なのだから、論理的に始まりを見いだそうとすることは意味がない。
それはすでにある。
それは始まりをもたない。

タントラへの道 開かれた道4

開かれた道=大乗への鍵としての慈悲があってこそ、菩薩の超越的な行為は可能になる。

菩薩の道は寛容(布施)と開放―――与えることと開くこと、という帰依のプロセスから始まる。

開くことは人に何かを与えることではなく、自分の要求と要求のもとになっている様々な基準を捨てることだ。

これが本当の意味でのダーナ・パーラミター=布施の波羅蜜だ。
それは自分の場を守る必要はないという事実を信頼することを学び、自分は根源的に豊かさをもっているがゆえに自己を開くことができるという自信を培うことだ。

これが開かれた道だ。

ものごとを〈要求する〉心理的な傾向を破棄したときに、はじめて私たちが本来もっている健全さが現れてくる。

それが菩薩の次の行為であるシーラ・パーラミター=徳行あるいは持戒の波羅蜜へと私たちを導く。


 自己を開いたとき、そして、「自分がこれをしている。自分があれをしている」という基準や自分自身に対する考慮をすべて放棄したとき、エゴを維持したりものごとを集めることに関連した他のさまざまな状況は何の意味ももたなくなる。

これが完全な徳行であり、私たちの開かれた状態、勇気ある状態をより確固としたものにする力となる。

完全に開かれているあなたには、自分や人々を傷つける恐れがない。
あなたは状況に飽きることもない。

それはクサーンティ・パーラミター=忍耐(忍辱・にんにく)につながってゆく。
そして忍耐がエネルギー=ヴィリヤ―――すなわち本質的な悦びへと私たちを導く。

関わり合うことの測り知れない悦び、それはエネルギーであり、開かれた瞑想の広大なヴィジョン―――ディヤーナ(禅定)の体験つまり開放をもたらす。

そのとき、あなたはすでに生のダンスやドラマに深く関わっているがゆえに、外的な状況を自分と切り離されたものとは見なさない。

そしてあなたはさらに開かれる。
あらゆるものごとを拒むこともなければ受け入れることもない。
それぞれの状況にただ調和してゆくのだ。
敵を打ち負かそうとすることもゴールに達しようとすることもなく、どのような戦いも経験しない。
集めることにも与えることにも巻き込まれない。
希望も恐れもまったくない。

これがプラジュナー=超越的な知恵が発達したときの状態だ。
それは状況をありのままに見ることのできる能力だ。


 このように開かれた道の主要なテーマは、エゴの基本的な戦いを放棄しはじめなければならないということだ。
慈悲と愛の本当の意味は、完全に開かれていること、自分自身を絶対に信頼することなのだ。

愛や平和や穏やかさについて世界中で実に多くのことが語られてきた。

しかしどのように愛を実現するのか?
キリストは言った、「汝の隣人を愛せよ」と。

しかしどのように愛するのか?
自分の愛をどのように全人類、全世界に向かって放出したらよいのだろう?

 「愛はかくべからざればなり。それこそが真実なり。」
 「汝愛さざれば罪をなすなり。あくなり。汝人類に害をもたらすなり。」
「汝愛すれば道の上にあり。正しき進路にあり。」

 しかしどのように?

愛について非常にロマンティックな考えをもつ人は多い。
実際は愛という言葉に陶酔しているのだ。

しかしやがてギャップが起こり、愛によって高揚できない時期がやって来る。
何か恥かしい私的なできごとが起こる。

私たちはそれを隠そうとする。それは〈私的な〉恥かしいこと。
私たちの神聖さには属さないことだ。それについて考えるのはよそう。
それよりももうひとつ別の愛に点火して爆発させよう―――こうして次々にそれは続けられる。
自分の中にある自分が拒絶したい部分は無視して、高潔で愛にあふれ、心優しくあろうと試みるのだ。


 私は、愛は美とロマンティックで喜びだけの体験ではないと思う。
といったら失望する人も居るだろう。

愛はこの世の美に結びついていとどうじに醜さ、憎しみそして怒りとも結びついている。
それは天国の再現ではない。
愛や慈悲そして開かれた道は〈あるがまま〉に結びついている。

愛―――普遍的な愛とでも宇宙的な愛とでも、どう呼ぼうとかまわないが―――を培うためには、明も暗も、善と悪もすべてを含めた生の状況をあるがままに受け入れなければならない。
生に対して自己を開き、生とコミュニケートしなければならない。

おそらくあなたは愛と平和を培うために戦い、それらを得るためにあがいているのだろう。

「われわれはやり遂げる。愛の教えをあらゆるところに広めるためなら何千ドル使ってもよい。愛の宣言をするのだ。」

 よろしい、宣言しなさい。
やりなさい。
大金を費やしなさい。

しかしその行為を推し進めているスピードと攻撃性はどうなのだろう。

自分の愛を人に受け入れてもらおうとなぜ押し付けるのだろう。
なぜそんなに性急で強引なのだろう。

もしあなたの愛が人の憎しみと同じスピードと推進力で動いているとしたら、どこかが来るって来るはずだ。

それは闇を光と呼ぶのに似ている。

そこには相手を自分の愛に改宗させようとする野心がからんでいる。
つまりそれはあるがままのものごととコミュニケートしようとする開かれた状況ではない。

〈世界の平和〉の究極的な意味は、平和と戦争の概念をすべてまとめて放棄すること、そして世界の肯定的な側面にも否定的な側面にも等しく自己を開くことだ。

それは空中の一点から世界を眺めることに似ている。
世界には明るい部分も暗い部分もある。
そのすべてが受け入れられるべきだ。
闇に対立するものとしての光を擁護しようなどとはしないことだ。

菩薩の行為は、月が百の器のひとつひとつの水面にその陰を映すことに似ている。
それはつきの意図によって起こるものでもないし、他の誰かが企てたことでもない。

しかし何か私たちに解明できない理由によって、百の器に百の月影が映る。

開くことは、このような絶対的な信頼と地震をもつことだ。慈悲の開かれた状態もそのように起こる。

百の器のひとつひとつの水面に月を映そうと故意に企てることによって起こるのではない。
私たちが何かを証そうとすることにとらわれすぎていることが最も大きな問題だと思われる。

 これはパラノイオアと、つねに何かが足りないという感覚に結びついている。

何かを証そうとか得ようとかするとき、あなたはもう自己を開いてはいない。
あらゆることをチェックし〈正しく〉脚色しなければならないからだ。

 それはあくまでパラノイア的な生き方であって、実際には何も証しはしない。
数や量の上では記録を作るかもしれない。

―――最も偉大な最も大きなものを築き上げた、最も多く最も長く最も巨大なものを収集した。
しかしあなたが死んでしまったら、いったい誰がそのような記録を思い出すだろうか?

百年後には? 十年後には? いや十分後には?

本当に意味のある記録はいまという与えられた瞬間の記録だけだ。
つまり、いま、本当のコミュニケーションと開放が実際に起こっているかどうかということだけが問題なのだ。

これが開かれた道、菩薩の道だ。

菩薩はなにごとにもこだわらない。
たとえあらゆる仏陀から彼こそ世界中で最も勇敢な菩薩であることを証すメダルをもらったとしても、いっこうに気にかけない。

どの聖典にもメダルを受け取った菩薩の話など書かれてはいない。
菩薩には何を証す必要もないがゆえに、それは当然のことなのだ。

菩薩の行為は自然に起こるもの。
それは開かれた生であり、戦いやスピードにとらわれることのないコミュニケーションだ。

タントラへの道 開かれた道3

ここで私たちは開かれた道への鍵であり、その基礎にある雰囲気である慈悲の意味について話し合うべきだろう。

慈悲という概念を表現するのに最良の、最も正確な言い方は明晰、それも私たちが本来持っている暖かみを含んだ明晰と言う言葉だろう。

この時点では自分自身を信頼するということがそのままあなたの瞑想の実践なのだ。

あなたの修行の効果が日常生活のなかでよりはっきり見えるようになると、あなたは自分への信頼を深め、慈悲のある態度をとるようになる。

ここで言う慈悲とは、人に対して憐れみの気持ちをもつことではない。

慈悲とは私たちが本来もっている暖かみのことだ。

より大きな空間と明晰さがあれば、それだけ暖かみも存在する。
そして肯定的な悦びに満ちた感情がたえまなくあなたの内部に起こってくる。

そうすればあなたのやることが何であろうと、自分を意識する瞑想からあなたを機械的に引き離すようなことはない。

むしろ瞑想は悦びに満ち、自然に起こるできごとになる。
それは自分自身と友達であろうとするたえまない行為だ。


 こうして自分自身と友達になった以上、その友情をただ内に秘めておくことはできない。

何らかのはけ口、つまり外の世界との関わり合いをもたなければならない。
そうして慈悲は外の世界とのかけ橋になる。

自分自身に対する信頼と慈悲が、私たちに生とダンスをし、世界のエネルギーに関わろうとするインスピレーションを与える。

このようなインスピレーションと開放をもたなければ、私たちにとって精神の満ちはただ自分の欲望を満たすためのサンサーラ(輪廻)的な道になってしまう。

自分を改良し、自分が想像するゴールに達しようとする欲望のわなに捕らえられたままになってしまうのだ。
そしてそのゴールに達することができないと感じると失望し、満たされない野心が拷問のように私たちを苦しめる。
反対に自分がゴールに向かって進むことに成功していると思えば、私たちは自己満足に陥り、より早くゴールに達しようとしてあせるだろう。

「自分のしていることは自分が一番よく知っている。ほっといてくれ」と自分の知識に慢心してしまう。

そして自分の専門に精通している〈エキスパート〉のようになりかねない。

もし誰かが質問、それもとくに愚かな質問や挑戦的な質問をしようものなら、〈エキスパート〉はそれに答えようともせずに腹を立てる。

「どうしてそんなことがいえるのだ?そんなにつまらない質問をよくも思いつけるものだ。私がどれほどのことを知っているかわからないのか?」と。


 あるいは何らかの形の二元的な精神集中法の訓練に成功して一種の〈神秘境〉を体験する場合もあるだろう。

すると私たちは非常に穏やかで型どおりの宗教的な雰囲気を身につけることができる。
しかし、そうなると私たちはその〈神秘境〉にたえず充電して、それを維持していかなければならない。

自分の達成をつねに吟味し、くりかえしそれを確かめ、その中におぼれてしまいかねない。

これは、小乗(ヒーナヤーナ)の自己内包的瞑想法や自覚の修行の典型的なゆがみであって、ある意味では攻撃性のひとつのあらわれなのだ。

自分自身の体験にだけその焦点をしぼることから、そこには慈悲や開放の要素がない。


 慈悲は、達成とはまったく無縁のものだ。慈悲は広大で非常に寛大なものだ。
本当の慈悲を持つ人はには、自分が人に対して寛大なのか自分自身に対して寛大なのか確かではない。

なぜなら、慈悲とは「自分のために」とか「彼らのために」という方向性をもたないひとつのいわば環境としてそこにある寛大さだからだ。

それは悦びで満たされている。

おのずと存在する悦び、信頼を意味する悦び、そして測り知れない富と豊かさを含む喜びで満たされている。


 慈悲とは、豊かさの究極の状態だと言うこともできる。
それは貧しさの反対、欲の戦いの反対の状態だ。雄雄しく、みずみずしく、肯定的で幻想的でそして広がりがあるというようなさまざまな性質を慈悲は含んでいる。

そしてそれはより大きな視野をもつ思考や、世界と自分自身に対するより自由で広がりのある関わり方を意味する。

これこそ第二のヤーナが〈マハーヤーナ=大乗(大きな乗り物)〉と呼ばれる理由だ。
それは人は根本的に豊かに生まれついているのであって、豊かにならなければならないのではないという態度だ。

このような自信があってこそ、私たちは瞑想を行為に移すことができるのだ。


 慈悲は自動的にあなたを人々と関わり合うことに誘う。

なぜなら慈悲をもつあなたにとっては、人人と関わることはもはやエネルギーの浪費ではない。

人々と関わる過程で、あなたは自分の富、自分の豊かさを確認する。
つまりその過程で人々があなたにエネルギーを充填してくれるのだ。

したがって、人々や生活の状況に対処するというむずかしい課題に取り組んでいても、あなたは自分のエネルギーが尽きるとはけっして感じない。

困難な問題に直面するたびに、それはあなたに自分の富と豊かさを示すまたとない機会を与えているわけだ。

人生に対するこのようなアプローチには貧しさの感覚がまったくない。
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唯我独存

Author:唯我独存
ヨーガ・瞑想暦20年ほど。レイキマスター。日々この瞬間を大切にすることをモットーとする。気付き、寛ぎ、ハートの三つから、今ここにあることを体得し、それを伝えていこうとしている。

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