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タントラへの道  六道  Q&A

▼Q&A


Q―――戦わなければならないと思ったことがまったくなかったとしたら―――、つまり、家の外に出たいという心境に達したことがないとしたらどうでしょう?
 むしろ家の外にあるものがいくぶん恐ろしいので、自分をまもるのに壁を利用していると思えるのですが―――。


A―――壁と友好関係をもつことができれば、どういうわけかすでに壁自体がなくなってしまう。
反対に自分を守るために壁が欲しいと思っても壁はもうそこにはないだろう。
壁を憎めば憎むほど、それは堅固で固いもの隣、壁と仲よくなればなるほど、壁が消えてしまうのは非常に逆説的だ。



Q―――苦痛と快楽は善と悪、正と不正を区別する知的識別と同じ基盤に立っているのでしょうか?その識別は主観的な態度から来るのでしょうか?


A―――苦痛と快楽は同じような背景から生まれると思う。

一般的に快楽は善、苦痛は悪とみなされ、それが高じて快楽は喜びや精神的至福とみなされ、天国と結びつけられる。
そして苦痛は地獄と結びつけて考えられている。

苦痛を取り除くことによって 楽を得ようとすることや、激しい苦痛を恐れるあまり快楽を求めて戦うことの愚かさとアイロニーを見ることができれば、それは滑稽にさえ見えるだろう。

快楽と苦痛に対する態度には一般的に少しユーモアのセンスが欠けているようだ。



Q―――はじめの方で、現象的な世界を幻惑し、そしてそれから抜け出そうと欲することについて語られましたが、私は仏教では現象的な世界は〈空〉のひとつの姿にすぎないと説くことを知っています。
そうだとしたら、そこから脱け出すべきだとはどういうことなのでしょう?


A―――ここで大事なことは、エゴから見れば、現象的な世界も非常にリアルで圧倒的で堅固なものだということだ。
実際には幻覚であったとしても、猿にとってはまったくリアルで堅固なものなのだ。

猿の混乱した見方からすれば、思考でさえもきわめて堅固な実体をもったものとなる。
色即是空、つまりこれらの幻覚は存在しないのだと言うだけでは不じゅうぶんだ。

猿に向かってそう言ったところで、彼にとっては形(色)は堅固で重みをもった形として存在しているのだ。
猿はまったくそれにとらわれ、他の見方でそれを見る余裕がない。

だから猿にとってそれはリアルなのだ。

猿はつねに自己の存在をより強力にするのに忙しい。
けっして間(ギャップ)をもとうとしない。

だから、インスピレーション」が湧く余裕も状況の他の側面や異なった角度をながめる余裕もないのだ。
猿の見方からすれば、混乱そのものが実体をもっているのだ。
悪夢にうなされている最中には悪夢は現実であり、ぞっとするように恐ろしい。

しかしその体験を後でふりかえってみれば、それはただの夢だったのだ。
二つの異なった論理を同時に使うことはできない。

混乱した側面を見とおし、その愚かしさを知るためには、その混乱を徹底的に見つめなかればならない。

タントラへの道 六道

The Six Realms


私たちが例の猿の話を切り上げたのは、猿が地獄界で家の壁を足で蹴り、爪でかき、体当たりしてそこから脱け出そうとしていたところだった。

地獄界での猿の経験は恐ろしいぞっとするようなものだ。
赤く焼けた鉄の大平原を歩き、鎖につながれ、焼きごてを当てられ、切り裂かれる。
熱い鉄の部屋で火あぶりに会い、大きな科まで釜ゆでにされる。

猿はこうした自分の姿を目のあたりにする。
これらの、そして他のさまざまな地獄の幻覚は、閉所恐怖の状況とそれに対する攻撃から生まれる。
そこには吸いこむ空気も動きまわる余地もないという感覚がある。
こうして囚われの身にある猿は、閉所恐怖の牢獄の壁をくずそうとするだけでなく、たえまなく自分を責めさいなむ苦痛から逃れるために、自分の命を断とうとさえする。

しかし、実際に命を断つこともできず、むしろ自殺の企てが猿の苦痛に拍車をかけるだけだ。
壁をくずすか、あるいは思いのままにしようともがけばもがくほど、壁はより強固になり重苦しく迫ってくる。

ついに疲れはて、猿の攻撃も少しおさまり、壁と戦う代わりにそれに背を向け、壁と自分との関わりを断とうとする。
苦痛から逃れようともがくことなく、苦痛の中に閉じこめられたまま麻痺し、凍りついてしまうのだ。
ここで猿は、人気のない厳しい不毛の地に凍りついたまま住むことに関わるさまざまな拷問を経験する。


 しかし、猿もついには戦いに疲れはてる。
激しかった地獄界の緊張感もややおさまり、猿はリラックスしはじめる。すると突然、より開かれた広がりのある状態への可能性が見えてくる。
猿はその新しい状態に飢えにも似たあこがれをいだく。

これはプレタ・ローカ=餓鬼界だ。
もう自分はだめだという思いから切に救済を求める心だ。

地獄界では戦いに明け暮れ、救済の可能性など考えるいとまもなかった。
ここで猿はもっと快い、ゆったりした状態への強烈な飢えを感じ、それを満たす方法をあれこれと空想する。
はるかかなたに広々とした場所が見えると想像するかもしれない。
しかし近づいてみれば、それは震えあがるほどの広大な砂漠だ。
また遠くに実がなった大きな果樹を見ることもあるだろう。しかし、近づくにつれて、その木には全然実がなっていないか、あるいはそばに見張りの者が立っていることに気づくだけだ。
また緑滴る豊かな谷に飛んでゆくこともあるだろう。
しかしそこも、毒をもつ虫や腐った草のにおいに覆われていることがわかる。

猿はそれぞれの空想が自分を満足させてくれる可能性を垣間見る。
しかし、手を伸ばすとたちまち失望の痛手を負う。
楽しみにもうひと息でたどり着くと思うたびに、そのロマンティックな夢から荒々しくたたき起こされるのだ。

それでも心の飢えに駆りたてられた猿は、くじけるどころか、満ち足りた未来への夢をたえまなく魅せられる。
しかし失望の痛手のひどさから同時に幻想への反発も生まれてくる。


 餓鬼界の苦しみは、自分が欲するものを得られないという苦痛ではない。
苦痛をもたらしているのはむしろ、あくことのない渇望そのものなのだ。
おそらく大量の食料を見つけたとしても、猿はまったく手をつけないか、全部たいらげたうえでもっと欲しがるかのどちらかだ。
なぜなら、猿は心の底で飢えを満たすことよりも、飢えているということに、夢中になっているからだ。
飢えを満たそうとしてはまたすぐに失望する。
その失望が猿を再び飢えさせる。

こうして餓鬼界の飢えと苦しみは、地獄界の責苦や他の世界で猿の頭をいっぱいにするさまざまなものと同じように、猿の心を占め、刺激を与え、かかわりをもつことのできる確固としたものを猿に供給する。
それによって猿は、自分は現に一個の存在としてここにあるという安心感を持つのだ。

猿はその安心感と慰めを捨て、勇気をもって開かれた空間という満ちの世界に乗り出すことを恐れる。
それよりも、どんなに重く苦痛に満ちていようと、自分の住み慣れた牢獄にとどまろうとする。


 しかし、夢を満たそうとして幾度も失敗をくりかえすうちに、猿は憤りと同時にあきらめを感じはじめる。
強烈だった飢えからはなれ、世界に対して型にはまった習慣的な反応を示すほどにリラックスしてくる。
人生のさまざまな体験に対処する他のやりかたを無視し、一連の同じような反応のしかたに頼る。

こうして、自分の世界の限界を定めるのだ。
犬が触れるものすべてを嗅ぎまわり、猫がテレビに興味を示さないのと同じことだ。

これが、畜生界、愚かさの世界だ。
新しい領域にはけっして足を踏み入れようとしないのだ。
よく知りぬいた、安全で、閉じた世界に陶酔し、なじみのゴールに注意を集中し、迷いなく頑固な決意をもってそれを追う。
このような畜生界は豚によって象徴される。
豚は鼻先にやって来るものなら何でもかまわずむさぼり食べる。
右にも左にも目を向けず、ただ一直線に突き進む。ただそうするだけだ。
巨大な泥沼を泳ぎ渡らなければならなくても、また他の障害にぶつかることになっても豚はいっこうにかまわない。
ただかきわけて進み、目の前に現れるものをむさぼり食べるだけだ。


 しかし、ついにこの猿も、楽しみと苦しみを取捨選択できることに気づきはじめる。
猿は前よりもいくらか知的になり、楽を最大に苦を最小にしようとする努力の中で、苦楽の体験を識別しはじめるのだ。
これが人間界、つまり識別力をそなえた熱情の世界だ。

この世界では、猿は立ち止まり、自分が手に入れようとしているものが何であるかを考える。
ものを識別する力がついてきて、他の可能性をも考慮し、より深くものを考えるようになり、それにしたがって、期待と恐怖も大きくなる。
これが人間界、熱情と知力の世界だ。

猿はより知的になる。
ただつかみとるのではなく、ものごとを調べ、その肌ざわりを感じとり、他のものと比較する。
それが欲しいと決めたうえでつかみ、引き寄せ、自分のものにしようとする。

例えば、美しい絹の生地が欲しいとなれば、自分が欲しいものとぴったり同じものがあるかどうかをあちこちの店にいき、布地にさわってみる。
そして自分の考えていたものとぴったり一致するか、それに最も近い布地が見つかれば、それをなでながらこうつぶやく。

「ああこれだ。きれいじゃないか。これなら買っても損はないだろう。」猿は代金を払い、それを家に持ち帰る。
そして友人に店、彼らにもさわってその美しい絹の手ざわりを味わうよう勧める。
人間界で猿がつねに心に思うことは、いかにして楽しむことのできるものを手に入れるかということだ。
「たぶん、熊のぬいぐるみを買っていっしょに寝たらいいだろうな。可愛らしくて抱きしめたくなるようなぬいぐるみ、柔らかくて暖かくて毛のフサフサしたのを・・・・・・」という具合いだ。


 しかし、猿は自分が知的であり、自分の世界をうまく操作して楽しみを手に入れることができたとしても、その楽しみを手中にとらえておくことができないこと、また欲しいものがいつでも手に入るとはかぎらないことに気づく。

病い、老い、そして死をはじめとするあらゆる性質の問題が彼を悩ませる。
苦痛はつねに快楽の伴侶なのだ。


 そこで猿は自然のなりゆきとして、天国、つまり完全に苦しみを取り除き、楽しみに達することの可能性をあれこれ考えはじめる。
猿の考える天国とは、莫大な富か、権力か名声か何であれ、自分がこうあって欲しいと願う世界の姿だ。
そして猿は、それを達成することとそのための競争にすっかり取り憑かれてしまう。
これがアシュラ界、嫉み深い神々の世界だ。

猿は人間界に属する苦楽を超えた理想の状態を夢み、他の誰よりも抜きんでてその状態に達しようとたえまなく努力を続ける。
ある理想に到達しようとたえまなくもがく中で、自分の進歩を測ることと、自分を他人と比較することに心を奪われてしまうのだ。

思考と感情をよりうまくコントロールできるようになり、それによって集中力を養った猿は、人間界にあったときよりもたくみに自分の世界を操作することができるようになる。

しかし自分はつねに最高の存在であり、つねにその状況の主でなければならないという考えが彼の心を満たしていて、それが不安と焦燥を生む。

猿は自分の領土を支配するためにつねに戦い、その成功を阻もうとするあらゆるものに打ち勝たなければならない。自分の世界の王であるためにつねに戦いつづけるのだ。


 勝利の獲得を強く望む心と、敗北への恐怖が、生命感と同時に焦燥感をもたらす。
しばしば最終的な目標を見失いながらも、依然としてより優れた存在であろうとする強い望みに駆りたてられる。
猿は競争と成功に取り憑かれているのだ。
自分の手が届きそうにもない楽しみと興味深い状況を探し出して、それを自分の領土に引き寄せようとする。
目標の達成が困難に見えると、猿は尻ごみし、自分に向かって訓練と不足を責めることになりかねない。
結局、猿は満たされぬ理想と自己非難、そして失敗への恐怖の世界にはまりこんでいるのだ。


 ついに猿も、億万長者か、国の指導者か、それとも著名な芸術家になるという自分の目標を達成するかもしれない。
最初は本当に目標を達成したのかどうかまだ不安があるだろう。

しかし遅かれ早かれ、自分はやり遂げた、自分家の天国にいるのだと気づきはじめる。
やがて猿はリラックスして、好ましくないことは避け、自分の成功の味を味わい、そこに安住しはじめる。
それは催眠にかかった状態、自然な精神集中と言える。
この至福に満ちた状態がデーヴァ・ローカ、神々の世界だ。

比喩として神々の姿は光からなっていると言われる。
神々は世俗の関わりに煩わされなくてもよい。もしセックスをしたければただ見つめ合い、ほほ笑み合うだけで満足する。
何かを食べたければ、あたりの美しい光景に心を向けるだけで満腹する。
それは人間がこうあってほしいと願うユートピアの世界だ。
すべてが簡単に自然にそしてひとりでに起こる。
猿が耳にするものすべて、音楽であり、見るものすべて豊かな色彩をもつ。
そして心にふれるものすべてが快い。

彼は一種の自己催眠の状態、つまり自分をいらだたせるものや、好ましくないものが自分の心にはいってくるのを許さない、自然な精神集中の境地に達したのだ。


 さらに猿は、自分が神々の世界の官能的な悦びと美を超えて、禅定、つまり無形の神々の世界(無色界)の精神集中の状態にはいってゆくこともできるのだと気づく。
この世界は六道が最終的に純化されたものだ。

猿は純粋に精神的な悦び、すべての中で最も微妙で最も堅固なものに達することが可能なこと、そして自分の牢獄の壁を打つう全体を包みこむように思えるまでに広げることができることに気づく。
それによって移り変わりと死を克服し、確固とした自己の存在感をたえずもちつづけることが可能なことにもきづく。

最初、猿は無限の空間と言う考えに安住する。
そして無限の空間を見つめる。
自分はここにあり、空間はむこうにある。
猿はそれを見つめる。

自分が前もって考えたことを世界に押しつけて、無限の空間を作り出し、その体験によって満足を得たのだ。

そして次の段階は無限の意識という考えに心を集中することだ。
ここで猿は無限の空間だけでなく、その空間を見定める知性にも安住する。

こうしてエゴは、その中央司令部でさえ領土がどこまで広がっているのか想像できないほどだ。
エゴは巨大な怪獣になってしまった。


 エゴはその領土があまりに遠くまで広がったため、その境界線を見失いはじめる。
どこに境界線を引こうとしても、領土の一部を外に残してしまいそうに見える。
そして、境界を定めるのは不可能だという結論に達する。

その帝国の大きさは、概念と想像の域を越えている。
すべてを抱合しているために、〈これ〉とか〈あれ〉と定義することができない。

そこでエゴはこれでもないあれでもないという考え、つまりそれ自体を心にいだくことも想像することもできないという考えに行き着く。

しかし、最後にこのエゴ自体を心にいだくことも想像することもできないという考えもまた、ひとつの概念にすぎないということにエゴが気づいたとき、その心の状態も越えられるのだ。

そこでエゴが安住するのは、これでもないのでもなく、あれでもないのでもないという考えだ。

何ものも断定することは不可能だという考えは、エゴを養い、エゴに誇りとよりどころを与える。
それは、エゴがそれ自身を持続してゆくことに利用されるのだ。

これが、混乱しサンサーラ(輪廻)をさまよう心が到達しうる、最も高いレベルの精神集中と成果だ。


 猿はどうにかして成し遂げられることの最高のレベルに達した。
しかし依然として二元的な論理を超えてはいない。
何かを成し遂げられるという考え自体が、その論理に依存しているのだ。

猿の家の壁は、いまだに堅固で微妙に〈他〉としての性格を帯びている。
猿は自分の主観の投影と自分とを表面的に同一と見なすことによって一時的な調和と成和そして至福に達したかもしれないが、しかしすべてが微妙に固定され、閉ざされた世界でのことなのだ。

猿自信が壁と同じように硬直し、エゴ境(フッド)という状態に達したにすぎない。
その心は依然として自己の安全を守り、自己の力を高めることにとらわれ、自分自身と世界に冠する固定した観念や概念にはまりこんでいる。
そして五蘊の幻覚を本気で信じているのだ。

意識の状態が、集中すなわち〈他〉に心をとどめることにもとづいているかぎり、猿はつねに自分の成し遂げたことを点検し、維持しなければならない。

「ここ天上界にいることはなんという心の救いだ。ついにやった。本当にそれを手に入れたのだ。だが待てよ。本当に手に入れたんだろうか? いや、大丈夫だ。たしかにここにある。やったんだ。この俺がやったんだ」。

こうして猿は自分が涅槃(ニルヴァーナ)に達したと思い込む。
しかし実際は一時的にエゴ境(フッド)に達したにすぎないのだ。


 遅かれ早かれ、猿はその心の集中を失い、パニックに襲われる。
自分がおびえ、混乱し、そして傷つきやすいと感じた猿は、嫉み深い神々の世界へ落ちこんでゆく。

しかし、嫉み深い神々の世界の不安と羨望が猿を呑みこんでしまい、猿の頭は、何が間違っ
ていたのかを見つけ出すことでいっぱいになる。

こうして猿は人間界に逆戻り。
しかし人間界もまた苦しみに満ちている。
何が起こっているのか、何が間違っていたのかを見つけようとたえまなく考えつづけることによって苦しみと混乱はますます大きくなるだけだ。

そこで猿は人間の知力がもつためらいと批判的なものの見方から逃れて畜生界に跳びこむ。
そこで、自分が慣れた限られた方法に従うことで身の安全をはかり、それを脅かすような情報には耳も口もふさぎ、自分のまわりにあることをまったく無視して、ただこつこつと動きまわる。

それでも周囲からの情報はその平穏を破ってはいってくる。
そして何か他のものを求める飢えが次第に湧いてくる。

天上界へのノスタルジアが急に強まり、そこに戻りたいというあがきはますます激しくなる。
猿は天上界の悦びを味わうことを夢みる。
しかし、自分の飢え満たす幻想によって得られる満足はあっけなく消え去り、猿はふたたび飢えにさいなまれる自分に気づく。
飢餓感は果てしなく続き、ついに猿はくりかえし戻ってくる飢えと欲求不満に呑みこまれ、自分の欲求を満たそうとしてますます激しくあがきはじめる。

猿の攻撃のあまりの激しさに、彼をとりまく環境もそれに匹敵する激しさで反応し、熱気に包まれた閉所恐怖の空気が広がってゆく。
猿は自分がふたたび地獄にいることに気づく。

これで地獄から天国へ天国から地獄へのサイクルを完全に一巡したことになる。
この戦い、達成、幻滅そして苦痛へと永久に続くサイクルが、サンサーラの輪、つまり二元的な固定化から起こる、カルマの連鎖反応なのだ。


 どうしたら猿は、この果てしなく続くように見える牢獄の、切れめのない輪から脱け出すことができるのだろうか?

 このカルマの連鎖、サンサーラの輪を破る可能性が生まれるのは人間界に他ならない。

人間界の知力、そして行為を識別する可能性によって、この戦いの全過程に疑問をいだく余裕が生まれる。

そこにはつねに何かとつながりをもち、何かを手にしなければならないとう強迫観念と、自分が経験する世界の確かさに対して、猿が疑問をいだく可能性があるのだ。

そうするために猿に必要なのは、大きな視野をもつ開いた目と、超越した知識を育てることだ。
大きな視野で目を開く性質を見ることができるようになる。

ただ単純にもがくのでなく、もがくことの内容を真に体験し、その激しさを知りはじめるのだ。

猿は幻覚を笑い抜ける。

自分が壁と戦わなければ、壁は冷淡でも固くもなく、実は暖かく柔らかで、それを通り抜けることもできるのだと気づく。

五つの窓から飛び降りる必要も壁をくずす必要もなく、またそこにとどまる必要さえないのだと猿は気づく。
壁を通り抜けてどこにでも行くことができるのだ。

慈悲、カルナーが〈柔軟な高貴な心〉と呼ばれるのはこのためだ。
慈悲とは柔らかで暖かい開かれたコミュニケーションの過程のことだ。


 超越した知恵のその澄みきった精密さは、壁を違った視点から見る可能性を猿に与える。

猿は、世界はけっして自分の外にあったのではないこと、そして問題を作り出していたのは自分自身の二元的な態度、つまり〈自己〉と〈他〉を切り離していたことだと気づきはじめる。

自分自身が壁を強固なものにし、何かを強く求めることによって自分を牢獄に閉じこめていた事実を理解しはじめる。

そこで猿は、牢獄から抜け出すには、脱走しようという大望を捨てて壁をあるがままに受け入れなければならないことに気づきはじめるのだ。

タントラへの道 エゴの発達 Q&A

Q&A

Q―――意識喪失(ブラックアウト)の意味をもう少し説明していただけますか?


A―――それは格別深い意味をもっているわけではない。
ただ第一スカンダの段階で空間を固定したものにしようと励みすぎたということだ。
あまりのスピードで励んだので、知性が突然くずれてしまったのだ。

これは一種の悟りの裏がえし、覚醒の逆の体験と言える。
つまり〈無知〉の体験だ。

力みすぎて突然意識を失くしてしまう。
この固定ということのすべてが、あなたが実際に成し遂げたこと、ひとつの傑作になる。

それは完全に成し遂げたとき、突然あなたはそれに呑みこまれる。
それはそれなりに一種の瞑想であり、サマーディ(三味)の裏がえしと言うことができる。



Q―――本当に生きるためには死を意識しているべきだと思われますか?


A―――死を意識することが死を分析することを意味するならば、それはとくに必要ないと思う。
ただ自分のありのままの姿を見つめなければならない。

私たちには、精神性の肯定的な面やその美だけを探し求め、ありのままの自分を無視する傾向がある。
これが一番大きな危険性だ。

もし自分を分析することにとらわれているならば、私たちの精神修行も、最終的な分析、採取的な自己欺瞞を見つけるためのものになってしまう。
エゴの知性は恐るべき才能に恵まれている。
どんなことでもゆがめることができる。

もし私たちが精神性、自己分析またはエゴの超越などという考えに飛びつけば、エゴはただちにそれを手の内にし、自分を欺くための説明に使ってしまう。



Q―――猿が幻覚を見はじめるとき、それは前から知っていたことなのでしょうか? 幻覚はどこから来るのでしょう?


A―――それは一種の本能、二次的な本能というか、つまり私たちがみなもっている猿のような本能だ。

苦痛を感じれば人はその反対の快楽の幻覚を見る。
自分を守り、自分の場を確保することに駆りたてられるのだ。



Q―――意識のいまわのレベルにしか達してない私たちは、あなたの言われる無限の空間に帰ることができないかぎり、このレベルで絶望的にもがき戦うことを免れないのでしょうか?


A―――もちろんわたしたちはつねに戦いつづけて、終わることがない。
私たちが耐えてゆくたえまない努力について永久に話しつづけることもできる。

あなたの言うとおり、ふたたび、人間本来の空間を見いだす以外に答えはない。
そうでなければ〈あれ〉に対する〈これ〉という心理的な傾向にはまりこんでしまう。

これは障害だ。私たちはつねに敵と戦っている。一瞬として戦いを放棄するときはない。
問題はそれが二元性、つまり、私と私の敵という形で表現される戦いであることだ。


 瞑想の実践はそれとはまったく異なるやりかただ。
人生に対する態度ややりかたをすべて変えなければならない。
自分のいわゆる方針を、全面的に変えなければならないのだ。

これは大変な苦痛を伴う。
突然人は考えはじめる。
「もし戦うのをやめてしまったら、敵にどう対処するのだろう? 自分は戦わなくてもかまわないが、敵の方は? 敵は依然としてそこにいるはずだ。」 これは興味深いポイントだ。



Q―――壁を見て、自分がそこにいること、そしてそれ以上は進めないことに気づく。
これは非常に危険な立場のように思えるのですが。


A―――それがまさに私の話していたところだ。
そこには何の危険もない。

頑丈な壁、そして自分がその中に囚われていることに気づくとき、それは苦痛かもしれない。

しかし、それが興味深いポイントなのだ。



Q―――しかし、もうひとつの状態である、限りない空間に戻りたいと願うのは、本能的なことだといま言われたばかりではないですか?


A―――そのとおり。

しかし、この猿はもはや、自分をただあるがままにまかせようとはしない。
休みなく戦いつづけるか。さもなくば幻覚に巻きこまれるかだ。

猿は決して立ち止まろうとしない。
自分自身が正確に何かを感じることを許さない。
それが問題だ。

だからこそただ立ち止まること、ただ間をもたせることが瞑想修行の第一歩なのだ。



Q―――自分の周りに柵、すなわち抑制があることにはっきりきづいているとしましょう。
抑制は自分がそれに気づくことによって自然に消え失せるのでしょうか?


A―――ここで大事なことは、ジレンマからどうして逃れるかを頭で考えてはならない。

いまはただ、私たちがいるこの閉所恐怖を催させる部屋のすみずみまでを考察すべきだ。
それが学ぶことの第一歩だ。

私たちに必要なのは心の自分の姿を知り、自分を正確に感じることだ。
これがさらなる探求へのインスピレーションを与えてくれる。

まだ自由になることについて語らないほうがよいだろう。



Q―――閉所恐怖の部屋は、私たちの頭が作り出したものだと言えるでしょうか?


A―――人間本来の知性は強烈なものであり、つねに私たちを動かす引き金となる。
したがって猿のこれらの行動のすべては、それから逃れるべきものとしてではなく、本来の知性の結果としてとらえられなかえればならない。

もがけばもがくほど、私たちは壁の厚いことを知ることになる。
戦いにつぎこんだエネルギーの分だけ、私たちは壁を強固なものにしてゆく。
なぜなら壁は私たちがそれに払う関心によって強固になってゆくからだ。

壁に注意を向けるたびに、そこから脱け出すのは絶望的だと感じはじめるのだ。



Q―――家の五つの間ドアから外を見たとき、猿は何を見るのですか?

A―――そうだな。猿が見るのは東、西、南、北。


Q―――猿にはそれがどう見えたのでしょう?

A―――四角な世界。


Q―――家の外は?

A―――うん。四角な世界だ。四角な窓から見るのだから。


Q―――遠くには何も見えないのでしょうか?

A―――見える。
しかし、やはりそれは四角な絵だ。壁に絵をかけているようなものだから。
そうだろう?


Q―――猿が少しL・S・Dかペヨーテ(幻覚性植物の一種)をやったらどうなるでしょう?

A―――もうとっくにやってるさ。


※ reverse satori トゥルンパ独特の表現で、〈迷悟〉と呼ばれるものを指す。

タントラへの道 エゴの発達 後半

これがエゴの全貌。
ここでやっと私たちは仏教の心理学と瞑想の探求に到達したことになる。


 仏教文学に、このエゴの誕生と発達の全過程を表すために使われる広く知られたたとえ話がある。
空き家に閉じこめられた猿の話だ。

その家には五感にあたる五つの窓がある。
猿は好奇心が強く、五つの窓から落ち着きなく顔を突き出し、上に下へとくりかえし跳びはねている。

猿は空き家に捕らえられている。
そこはかつて猿が跳ねまわり、木にぶらさがって遊んだジャングルでもなく、枝葉が風にそよぐ木立ちでもない、がっしりした家なのだ。
すべてがまったく固定されている。

実は、ジャングルそのものがこのがっしりした家、つまり牢獄に変わってしまったのだ。
この好奇心に満ちた猿は、木の枝に腰かけて遊ぶ代わりに、固定した世界に閉じこめられてしまったのだ。
ちょうど、ダイナミックで美しい滝のように流れるものが突然氷結してしまったように―――。

凍った色彩と凍ったエネルギーで創られたこの凍りついた家には、動きがまったくない。
この時点で時が〈過去〉〈現在〉〈未来〉として現れはじめるように思われる。
ものごとの流れが、時の固定した形、つまり時間という固定観念になるのだ。


 好奇心の強い猿は、無意識状態から目を覚ます。
しかし完全に目覚めるわけではない。猿は目覚め、自分が壁が五つあるだけの、がっしりした、閉所恐怖を催させる家に閉じこめられていることに気づく。
動物園の檻に閉じこめられたように退屈し、昇り降りして鉄柵を調べようとする。

捕えられたということ自体は特別重要ではない。
しかし、捕われたという思いに心を奪われることによって、その思いは千倍にも拡大される。

それに心を奪われるならば、閉所恐怖の感覚は、ますます生々しく強烈なものとなる。
自分が囚われの身であることについて、あれこれ詮索を始めるからだ。

実際、心を奪われることが、囚われの身のままでいなかればならない理由のひとつだ。
猿は心を奪われることに捕らえられているのだ。

もちろんはじめに突然の意識喪失があり、それが固定した世界に対する猿の信念を確かなものにした。
しかし、それが固定していることを当然のこととして受け取った猿は、それに巻きこまれ、罠にかかってしまったのだ。


 好奇心の強い猿も、つねに詮索を続けるわけにはいかない。猿の心は動揺し、おもしろくもないことのくりかえしに飽き飽きし、次にはノイローゼになってしまう。
慰めに飢えた猿は、自分を取り囲む壁の手ざわりを感じ、それに楽しみを見いだそうとする。硬そうに見える壁が、本当に硬いことを確かめようとする。

そして、その空間がたしかに固定していることに安心した猿は、それをつかみとるか、はねつけるかまたは無視するかして、それに関わりはじめる。

空間を自分自身の体験、発見、理解として所有するために、つかみとろうとするならば、それは欲求だ。

その空間を牢獄と感じ、壁を叩き床を蹴り、そこから脱け出す闘いの度を増していくならば、それは憎悪だ。
憎悪とは、ただ破壊的な心理だけを指すのではない。
むしろそれは、閉所恐怖から自分を守ろうとする防御の感覚なのだ。
猿は必ずしも、自分に向かってくる敵がいると感じるわけではない。
ただ牢獄から逃れたいだけだ。


 ついに猿は、自分が囚われの身であることも、自分の環境にも何らかの魅力があるはずであることも無視しようとする。
彼は、耳をふさぎ口を閉じ、自分の周囲に何が起こっていることに対して無関心で怠惰になる。
これを愚かさと呼ぶ。


 少し前に話を戻せば、猿は無意識の状態から目覚めた瞬間にこの家で生まれたのだとも言える。
猿は自分がこの家にどうやってたどり着いたのかを知らない。
自分はずっとそこにいるのだと思っている。
空間を壁に固定したのは自分自身だということを忘れてしまったのだ。

そして猿は壁の肌触りを感じる。
これが第二スカンダ(受蘊)=感覚。

それから猿は第三スカンダ=知覚衝動の欲求、憎悪、愚かさによってこの家と関わりをもつ。
「これは窓だ。この一隅は居心地がよい。あの壁は恐ろしい悪い奴だ。」という具合だ。

それを欲するか嫌うか、または無関心であるかにしたがって、自分の家や自分の世界に名前をつけ、分類、評価するために使う概念的な骨組みを作りあげる。
これが第四スカンダ=概念だ。


 第四スカンダによる猿の内的展開はそれなりに論理的で、予想することもできるものだ。
しかし、第五スカンダ=意識に入ると、この展開のパターンはくずれはじめる。
思考のパターンが不規則になり、それを予測することができなくなる。
猿は幻覚や夢を見はじめる。


 ここで言う、〈幻覚〉や〈夢〉とは、ものごとやできごとに必ずしもそれにそなわっていない価値をつけ加えることを意味する。

私たちは、ものごとやできごとのありようや、あるべき姿について一定の見解をもっている。
私たちはそこにあるものに、それに対する自分自身の解釈を投影する―――これが主観の投影(プロジェクション)だ。

こうして私たちは自分自身で作りあげた世界、つまり対立する価値観やものの見方に満ちた世界に完全にはまりこんでしまう。

この意味で言う〈幻覚〉は、ものごとやできごとを誤って解釈すること、つまり現象的な世界から、そこにそなわっていない意味を読みとることだ。


 第五スカンダの段階で、猿はこれを体験しはじめる。
外に抜け出そうとして失敗した猿は、落胆し、どうしようもなく、やがて完全に気が狂いはじめる。

葛藤につかれきったあげく、猿はリラックスすること、とりとめのない思いや幻覚に身をゆだねることに心を引かれる。
それが六つの境界、または六道の始まりだ。

仏教では、伝統的に、地獄に住むもの、天上界、人間界、地区紹介、その他の心理的な状態についての話がひんぱんに語られる。
それらはさまざまな種類の投影、つまり私たちが自分自身で作り出した夢の世界なのだ。


 どうもがいてもそこから脱け出せず、閉所恐怖と苦悩の中にあった猿は、何かよいこと、すばらしいこと、自分をひきつけるものを望みはじめる。

その猿が見る最初の幻想の世界は、デーヴァ・ローカ=神々の世界、天上界だ。
そこは、美しくきらめく甘美なもので満ちあふれている。
猿が夢見るのは、家を脱け出して草木の生いしげった野原を散策し、熟れた果実を口にし、枝に腰かけたりぶらさがったりする、自由で安らかな生活だ。


 それから猿は、アシュラ(阿修羅)界、嫉妬深い神々の世界の幻想に入ってゆく。
天上界の夢を経験した猿は、自分の無常の喜びと幸福を守り、保ちつづけたいと思う。
そして誰かが自分の宝物を盗むのではないかという心配からパラノイア(妄想)に陥り、そこからねたみの気持ちが起こる。

猿にはプライドがある。
自分で作りあげた天上界で悦楽を味わった、そのプライドが猿をアシュラ界の嫉みへと導いてゆくのだ。


 猿はまた、これらの体験には世俗的な性格があることにも気づく。
ただプライドと嫉みの間を往復する代わりに、〈人間界〉つまり世俗の世界に慰めとくつろぎを感じ始めるのだ。
それはただ、世俗的なやりかたで、あたりまえの生活を営み、平凡なことをやる世界。
つまり〈人間界〉だ。


 しかしそこでまた猿は、何か冴えないもの、わだかまっているものを感じはじめる。
なぜなら天上界、アシュラ界そして人間界へと進み、幻想が次第に固定したものになるにつれて、その過程のすべてが、どちらかといえば重苦しく愚かなことに思えてくるからだ。
その時点で、猿は畜生界に生まれる。

プライドやねたみを享楽するよりも、そのあたりを這いまわり、牛や犬のように鳴いたり吠えたりしている方がましだと考えるのだ。
それは動物の単純さだ。


 その後、このプロセスは強烈なものになる。
ここより下には落ちたくないという切望から、猿は耐え難い飢餓感に襲われはじめる。
猿は天上界の悦楽に戻りたいと願う。
そのために飢えと渇き、つまりかつて手中におさめた憶えのあるものに対する、すさまじいノスタルジアを感じるのだ。
これが飢えた霊魂の世界、餓鬼界だ。


 やがて、猿は突然確信を失い、自分自身と自分の世界に疑いをいだき、凶暴に反応しはじめる。
すべてが恐ろしい悪夢だ。

猿は、このような悪夢が現実ではありえないことに気づき、自分がこの恐怖のすべてを作り出したことに対して自己嫌悪に陥りはじめる。
これが六道の最後の世界、地獄界の夢だ。


 
 六道の過程すべてを通じて、猿は取り留めのない思考、観念、幻想そしてあらゆるパターンを経験した。
五蘊の段階までは、その心理の展開の過程は規則正しく、それを予想することもできた。
その展開は第一スカンダから、屋根に瓦を並べるような整然としたパターンで次々と起こっていた。

しかし、いまや猿の心の状態は非常にゆがめられ、混乱してしまった。
頭のジグソー・パズルが突然爆発したように、思考のパターンが不規則で予測できないものになったのだ。

自分の心がこのような状態になったとき、私たちは教えを求め、瞑想の修行をしようという気持ちをもつものだ。
ここに至って、私たちは修行を始めざるをえなくなる。



 解脱や自由をとく前に、この道の基盤であるエゴや私たちの混乱について話し合うことは非常に重要だと思う。

解脱の体験だけを話し合うのは、非常な危険を伴うことにもなる。

だからこそ私たちはエゴの発達を考察することから始めるのだ。

このような話は、ことさら魅力のあるものではないだろうが、私たちは事実に直面すべきだ。

それこそが道に従って進む過程のように思われる。

タントラへの道 エゴの発達 前半

The Development of Ego


私たちは仏教徒の道を、その始めから終わりまで、初心者の心から目覚めたものの境地に至るまで、じっくりながめようとしている。

それにはごく具体的、現実的なことがら、つまりこれから耕そうとする土地から始めるのが最もよいと思われる。

エゴの性質という出発点をよく知る前に、より進んだ問題を研究するのは愚かなことだ。

チベットに「頭がよく煮えないうちに舌を抜こうとしても無駄なこと」という諺がある。
どのような精神修行においても、出発点、すなわち私たちが取り組もうとしている素材を根本的に理解するこことが必要だ。


 自分が取り組んでいる素材を知ることなくしては私たちの修行は無益であり、そのゴールについての考察は単なる幻想になってしまう。

それらの考察は、高度な概念や精神的な体験の描写という形で示されるかもしれないが、実際には人間の性質の弱い面である何かはなやかな非日常的なものを見聞きしたいという期待や欲望を押し広げるだけだ。

非日常的でドラマティックな〈悟り〉の体験を夢見て修行を始めるならば、期待と先入観だけが築き上げられ、のちに私たちが実際に道を歩むとき、〈あるがまま〉のことよりも〈これからあるはず〉のことに心を奪われてしまう。

人々にそのあるがままの姿というリアルな出発点を示すのではなく、人々の弱点、その期待と夢をもてあそぶのは、有害であり、正しいことではない。


 だから、あるがままの自分とは何か、自分はなぜ探し求めるのか、ということから始めなくてはならない。

阿頼耶識、現在、人間の堕落、エゴの根底にあるものなどと、さまざまな呼び方で、ほとんどあらゆる宗教がこの問題を論じている。
ほとんどの宗教は、この素材を軽蔑的に取り扱う傾向がある。

しかし、私はそれをショッキングなものとも恐ろしいものとも思わない。
あるがままの自分を恥じる必要はない。

有情としての私たちは、すばらしい素性をそなえている。
その素性は格別輝きもせず、平静でも知性的でもないかもしれない。

しかし、それは耕すに足る良質な土壌であり、何でも植えることができる。

したがってこの問題に取り組むとき、私たちは、自分のエゴの心理を責めたり、取り除こうと試みる必要はない。
ただそれを知り、あるがままに見なければならない。
実際、エゴを知ることこそ仏教の基礎だと言ってもよい。
それではエゴがどのように育ってゆくのかを見ることにしよう。


 基本的には、ただ開かれた空間、根底的な基盤がある―――それが真にあるがままの私たちだ。

エゴが生まれる以前の最も根底的な心の状態は、豊かな広がりをもった、根本的な開放、根本的な自由であり、いまも以前も、その広がりはつねに私たちの内にあった。

例えば日常の生活や思考のパターンを考えてみよう。
私たちがある対象を目にするとき、最初の瞬間には突然その対象が目にはいるだけで、それに関する論理も概念化しようとする作用もない。
ただ開かれた基盤に対象が知覚されるだけだ。

ところが次の瞬間、私たちはパニックに襲われ、あわてて対象に何かをつけ加えようとする。
その対象の名前を見いだすか、それを位置づけ分類するための整理箱を見つけようとするのだ。
そこから、おもむろに自体が発展する。


 その発展は確かな実態としての形をもってはいない。
むしろ、それは幻想であり、〈自己〉(セルフ)または〈エゴ〉に対する誤った信仰なのだ。

混乱した心は、それ自身をつねに継続的で確かな実体と見なそうとする。
しかしそれはただ、さまざまな傾向やできごとのコレクションにすぎないのだ。

仏教用語ではそのコレクションを五つのスカンダ=五蘊(蘊とは集まりの意)と呼ぶ。
ここで五蘊が発展していく全貌に目を通すことにしよう。


 はじめ、誰にも属さない開かれた空間がある。
そしてその空間や開放に結びついた根源的な知性がつねに存在する。
ヴィドヤーはサンスクリット語で〈知性〉を意味する。
それは精密さ鋭さ、それも空間をもった鋭さ、さまざまなものをそこに投じ、置きかえることのできる余裕をもった鋭さのことだ。

完全に開かれた空間があるという点で、それは激しく踊りまわっても、ものにぶつかったりつまずく恐れのない広々としたホールに似ている。
私たちはこの空間そのものであり、この空間や知性そして開放と完全に一体なのだ。


 しかし、私たちがつねにこの空間であったならば、混乱はどこからやって来たのだろうか?
 空間はどこへ行ってしまったのだろうか?
 いったい何が起こったのだろうか?
 ただ私たちが、その空間で動きまわりすぎただけのことだ。

あまりの広がりのために、踊りまわろうとするインスピレーションが湧くのは当然のことだ。
しかし私たちの踊りは少し活発になりすぎ、その空間を示すのに必要以上の旋回を始めたのだ。
そのとき、私たちは〈自分〉がその空間で踊っているという自意識をもつ。


 そうなると、この空間はもはやあるがままの空間ではない。
それは枠で囲まれてしまう。
空間と一体である代わりに、私たちは自分の外にあって、ある形をもつ固定した空間を感じる。

これが最初の二元性の体験だ―――空間と自分。

自分が空間で踊っている。
その広がりは、自分の外にある固定したものだ。

二元性とは、空間と完全に一体であることよりも〈空間と自分〉が存在することを意味する。
そこで〈形〉つまり〈他〉が生まれる。


 そして一種の意識喪失(ブラックアウト)が起こる。
自分が何をやっているかを忘れてしまうのだ。
突然の停止、とぎれ―――。

そしてあたりを見まわすと、そこに固定化された空間を見いだす。
まるで自分は何もしなかったように、枠を作り出したのは自分ではなかったように―――。

そこにギャップがある。
固定化した空間をすでに作り出しておきながら、それに呑みこまれ、その中で我を忘れてしまう。
私たちは無意識状態に陥り、やがて突然目覚める。


 目覚めたとき、私たちはその空間を開かれたものとして見ようとせず、そのなめらかさと風通しを感じようともしない。

完全にそれらを無視することをアヴィドヤーと呼ぶ。
ア‐aは〈否〉、ヴィドヤー vidyaは〈知性〉、したがってアヴィドヤー avidya とは〈無知〉だ。

知性が固定化した空間の近くに変わってしまい、鋭く精密で流れるように輝きをもった知性が動きを止めてしまったばかりに、それはアヴィドヤー=無知と呼ばれる。

私たちは故意に無視する。
この空間でただ踊ることに満足できず、踊りの相手(パートナー)を求める。
そして空間を相手に選ぶ。

空間を相手に選んだ以上、もちろんそれが自分と踊ってくれることを求める。
それを自分の相手とするためには、それを枠で囲み、その流れるような開かれた性質を無視しなければならない。

これがアヴィドヤーー無知であり、知性を無視することだ。

こうして第一スカンダ(色蘊)が成り立ち、無知=形(色)が作り上げられる。


 実はこのスカンダ、色蘊には三つの異なった相あるいは段階がある。
他の比喩を使ってそれをくわしく見てみよう。


 はじめに、山も木もない広々とした平地があるとする。
まったくむき出しの土地、何の特徴もないただの砂漠だ。それが私たちのありさま、あるがままの姿だ。
私たちは非常に簡素な本来のままのものだ。
それでもなお太陽が照り、月が輝き、光、色、そして砂漠の肌ざわりがある。
点と地の間にたわむれるエネルギーが感じられ、それらはとだえることなく起こりつづける。


 ところが奇妙なことに、それらのすべてに気づく者が突然現われる。
まるで砂漠の砂のひとつぶが頭をもたげて、あたりを見まわすようなものだ。

私たちはこのひとつぶの砂―――自分は他から分離したものという結論を下したひとつぶの砂だ。
これが〈無知の誕生〉の第一段階であり、一種の化学反応と言える。
そこから二元性が始まる。


 色蘊の第二段階は〈内発性の無知〉。
いったん自分を他から分離したものと認めると、次には、自分がつねにそうであったと感じる。
これは、ぎこちなさ、自意識過剰に向かってゆく本能だ。
同時に、他から分離し、異なったひとつぶの砂であることにとどまろうとする口実にもなる。
このタイプの無知は攻撃的だ。
といっても怒りとは違う。
まだ怒りほど激しくなっていない。
その攻撃性は、むしろ当人にぎごちなさ、アンバランスを感じさせるもので、そのため彼は何とか自分の足場を守り、非難できる場所を築こうとする。
自分は混乱し、他から切り離された存在であり、それはけっして変わりようがないという態度がそれだ。
開放された広がりをもつ、本来の風景から切り離されたものになりきってしまったのだ。


 第三のタイプの無知は、〈自己観察的無知〉、つまり自分を見張ること。
自分自身を外的な対象として見る感覚があり、それが〈他〉の最初の概念をもたらす。
いわゆる〈外の〉世界との関わりをもちはじめるのだ。
私たちは形(色)の世界をつくりあげはじめた。

色蘊がこの三つの段階から成り立っている理由はここにある。



 ここで言う〈無知〉とは、愚かさとは違う。
ある意味では、無知は非常に知的であると言える。
ただ完全に二元的な知性に他ならない。

言い換えれば、あるがままを見る代わりに、ただ自分が映し出した像に反応しているにすぎないのだ。
あるがままの自分をつねに無視しているために、〈あるがままにゆだねる〉状態になることができない。
それが、無知の基本的な定義だ。



 次の段階は、自分の無知を保護するために防衛機制を作りあげること。
この防衛機制が第二スカンダ(受蘊)だ。
開かれた空間を無視してしまった私たちは、すでに自分たちが育んでいる何かにすがりつこうとする傾向を最後まで満たすために、その固定した空間の肌ざわりを感じてみたくなる。

本来の空間は、ただの空っぽの空間ではなく、色彩やエネルギーにあふれている。
ダイナミックで壮大な色彩とエネルギーの表現があり、美しく生き生きしている。

ただ私たちがそれらをまったく無視してしまったのだ。
その代わり、色彩は固定したものとしてとらえられる。
それは檻の中の色彩になり、エネルギーは檻の中のエネルギーになってしまう。
なぜなら、私たちはその空間全体を硬直させ、〈他〉に変えてしまったからだ。

そして手を伸ばして〈他〉の肌ざわりを探りはじめる。
そうすることで自分の存在を自分に保証しようとするのだ。
「そこにそれを感じることができれば、自分はたしかにここにいるわけだ。」


 何かが起こるたびに私たちは手を伸ばしてそれが自分を引きつける状況か、脅威を与える状況か、またその中間かを感じ取ろうとする。
突然の分離、つまり、〈これ〉と〈あれ〉の関係が明らかにわからないような状況が起ころうものなら、あたしたちはあわてて自分の地盤を探そうとする。
これが私たちがすでに築きはじめたきわめて高性能の感覚機制、第二スカンダだ。



 エゴをはっきり確立するための次の機制は、第三スカンダ(行蘊)=知覚衝動。
私たちは自分が創造した動かない色、動かないエネルギーに夢中になりはじめる。

それらに関わりをもちたい。
そこで自分が創造したものを次第に探索しはじめる。


 その探索を効果的にするためには、感覚機制をコントロールする一種の交換台(スウィッチ・ボード)システムが必要だ。
感覚はその情報を中央の交換台、つまり知覚行為に伝える。
その情報に従って私たちは判断をくだし、反応を起こす。

状況に対して、肯定的な反応をするか、否定的な反応をするか、無関心でいるかは、この感覚と近くの官僚制によって自動的に決定される。
状況を感じ取り、脅威を感じれば向こうに押しやり、魅力を感じればこちらに引き寄せようとする。
そのどちらでもなければ、無関心でいる。

それが、憎悪、欲求、愚かさという三つのタイプの衝動だ。
このように、近くは外部からの情報を受け取ることに関わり、衝動はその情報に対する私たちの反応に従って起こる。


 次の段階が、第四スカンダ(想蘊)=概念。
知覚衝動は直感的な感覚に対する自動的な反応だ。
このような自動反応は、自分の無知を保護し、安全を保証する防御としては、まだじゅうぶんでない。

本当に無知を保護し、自分を完全に的確に欺くためには、ものを名づけ分類することのできる知性を必要とする。
こうして私たちは、どの衝動が反応するかによってものごとやできごとに、(善い)〈悪い〉〈美しい〉〈醜い〉などというレッテルを貼る。


 エゴの構造は、次第にますます重苦しく、強力になってくる。この時点までは、エゴの発達もただ作用・反作用の過程にすぎなかった。

しかし、これからは次第に、猿でさえもっているような本能をはるかに超えた複雑なものになってくる。
私たちは知的な思索を体験しはじめる。

それは自分自身を確かめ、あるいは解釈し、一定の論理的で説明可能な状況に位置づけるのだ。
知力は基本的に論理的な性質をそなえている。

それは明らかに自分を肯定的な状態に置こうとする傾向をもっている。
自分の体験を確かめ、弱さを強さと解釈し、安全な論理を組み立て、自分の無知を肯定するのだ。


 ある意味では本来の根源的な知性がつねに働いている、と言うこともできるだろう。

しかし、それは二元的な固着、つまり無知に使われている。

エゴの発達のはじめの段階では、根源的知性は感覚における鋭い直感として働き、のちには知力として機能する。
実際には、エゴなどというものはまったく存在しないように思われる。

「私がある」ということはないのだ。
それは多くのものごとの堆積にすぎない。

いわばすばらしい芸術作品であり、知力が「これに名前をつけよう。何と呼ぼうか?そうだ『私がある』と呼ぶことにしよう」と 言いながら巧妙に作り上げた産物なのだ。

〈私〉とは知力の産物であり、散漫で混乱したエゴの展開全体をひとつにまとめるラベルなのだ。



 エゴの発達の最終段階が、第五スカンダ(識蘊)。
この段階で融合が起こる。

第二スカンダの直感的知性と第三スカンダのエネルギーと、第四スカンダの知力への転換が結合して思考と感情を生み出す。

この第五スカンダの段階で私たちは六道を見いだす。

それは、コントロールのきかない非論理的なパターンをもつ、散漫な思考から生まれるものだ。
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唯我独存

Author:唯我独存
ヨーガ・瞑想暦20年ほど。レイキマスター。日々この瞬間を大切にすることをモットーとする。気付き、寛ぎ、ハートの三つから、今ここにあることを体得し、それを伝えていこうとしている。

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