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下手に考えても

一昨日は仕事が休みで、家でずっとゴロゴロとしていた。夜から出かける予定だったのだが、なんだか疲れてしまい、出かけるのもやめて休息をとった。ゴロゴロしながら「明日の仕事に行くのはおっくうだなあ」などとあまり愉快ではない気分だった。体を休めているわりには、あまり疲労も抜けずに悶々としていた。


それが実際に仕事に行くと、なんでだかわからないが心身共にすっきりとして、浄化されてしまった。慣れてきている現場では、仕事中でも瞑想状態に入ってしまうようになっていたが、会社が変わってからはまだ一カ月も経っておらず、緊張しながら現場にいるという状態で、瞑想状態になるどころか、やたらに疲労してしまっていた。だから近頃は疲れがたまっていた。


それがどういうわけだか、昨日は体も慣れてきたのか、楽に仕事に取り組ることができ、立っていながらも瞑想状態に自然と至った。エゴの働きとしては様々な動きがあったが、そういうものを超えてしまったところには、苦痛や懊悩などまるで存在していない。エゴと脱同一化を図ると、本来の在り様に至る。エゴに基づいてああだこうだ考えても、それは何ら意味のないことで、その背景にあるただ在るものと共に在れば、問題そのものも露のごとく消え去ってしまう。


「下手の考え休むに似たり」という格言があり、これは将棋からきた言葉であるが、将棋では下手の考えは休むことと同じだろうが、現実では色々と下手に考えても、休むより悪い事態になりかねない。思考に翻弄されてごちゃごちゃ考えていても、それは何の解決にもならず、それならばゆったりと休んだ方がいいのではないか。私もマインドの動きに振り回されていると、「仕事が厭だな」などという思いにとらわれてしまったが、ゆったりと休んでから仕事にとりかかると、それまでの思考はどこへやら、静かに座っているのとあまり変わらない状態に至った。こういうことを繰り返していき、少しずつマインドから解放されていくのだろう。

近頃感じていること

過去や未来に思いが行ってしまうと、苦痛や憂いや悲しみなどが生じてしまう。しかし、そこから離れ「今ここに在る」とそれらはどこかに行ってしまう。元々私たちは苦しんだり悩んだりしなくてもいい状態にあるのだが、そのことを忘れてしまっている。


朝起きて「これから仕事か。いやだな~」などという思いがつい浮かんだりする。その時にマインドは未来にある。実際のところは仕事でずっといやな思いをしているわけではなく、過去において仕事で苦痛を感じた時のことをマインドが色々と思い起こし、それが未来にも起こるものだとして苦痛や憂いが生じてくる。しかし、仕事中でも「今ここに在る」とそれらは消え去っていく。私たちはありもしない幻影におびえているようなものである。


多くの人が頭でっかちで思考にとらわれていたり、何かに依存して悪い意味での思考停止をしており、本来の在り方にない状況にある。思考にとらわれている人は、頭の方ばかりに意識が向いてしまい、腹ができていないことが多い。腹ができていないと、地に足がついておらず、浮ついた状態になる。


私は元々腹が出ていたが、近頃更にお腹だけでっぷりとしてきた。「予定日はいつですか?」と聞かれてもおかしくないくらいになることもある。もちろん未だに聞かれたことはない。顔などはやせているからあまり太っている印象をもたれないが、体重は急激に増えてしまった。腹が出てきたのは余計な脂肪がついてしまったのもある。しかし、それだけではないような気がする。


腹が更にでてくるにつれて、グラウンディングもできてきたような感じがする。その時はあまり物事に動じなくなっている。インドのヨーギ―やチベットのラマでもやせている人ばかりではなく、案外でっぷりとしている人も多い。下丹田が開発されてくると、腹が出てくる例も多い。それはむろんメタボとは違う。私も脂肪がついているだけでなく、腹に気が充満している感覚もある。そして特定のポイントに充満しているだけでなく、全体に編材している感じもする。これは以前からも感じていたことだが、最近は更にはっきりとしてきた。


腹ができてくると、過去や未来に翻弄されなくなってくる。そして腹やサードアイなどの特定のポイントにとどまっているとそこで終わってしまうが、それらも越えていくと周りに偏在していくような感じになってくる。それが本来の在り様であろうと思う。そうなると一切の区分がなくなってくる。これが近頃感じていること。


体調を崩したが

昨年末から今年の初めにかけての冬は、とても寒かったと言われており、私の周りでも寒かったという声がよく聞こえた。確かに去年や一昨年と比較して寒かったのだろう。昨年などは暖冬だということだった。しかし私は、昨年と一昨年は携帯カイロを仕事中に手放すことができず、今年の冬は一度もカイロを使用することはなかった。私の身体感覚が狂ってしまったのか?それとも私の熱のヨーガの修行が成就して、寒さを感じなくなったのであろうか?!


むろんそんなことはなく、理由は簡単なことで、昨年と一昨年は寒い中、外に立つことが多かったのだが、今年は暖かい部屋の中にほとんどいたので、カイロを使用する必要がなかっただけの話である。だから確かに今年の冬は寒くは感じたが、私としては昨年や一昨年の冬の方がはるかにきつかった。雪の降りしきる中、外に立っていると、寒いとか辛いという感情を通り越して、もはや何が何だかわからなくなってくる。ノーマインドならぬ思考停止に陥るが、あれは身体の防衛反応ではないかと思う。そうでもならないと、とてもやっていられない。


そんなわけで昨年と一昨年は、寒さに耐えながらの仕事であり、軽い風邪の症状が出てしまった。私の場合、まずのどが痛くなり、鼻が詰まり、痰が出る。そして体がだるくなり、不快とも快感ともいえない状態となる。それが数日続いて治ってしまうというパターンを、ここ数年繰り返していた。子供のころはしょっちゅう熱を出して学校を休んでおり、10年ほど前は何度か40度近い熱を出して倒れたこともあった。しかし、ここ数年は熱を出して寝込んでしまうこともなく、軽い症状で治まっていた。


今年の冬は、寒い思いをすることもなかったせいか、風邪の症状が出ずに、ずっと健康な状態で過ごせた。春になってもあまり暖かくはならなかったが、それでも少しずつ気温も上がってきて、これでしばらくは風邪の症状も出ないであろうと思っていた。


それが四、五日前のことだが、泊りの勤務が終わり、それから友人たちと会って過ごし、家に帰ってみると、どうものどの具合がおかしい。「これはまずい!」と思って早めに寝たが、翌日になって起きてみると、どうも体調が妙な感じがする。その日は出掛ける予定だったが、これは家で休んだ方がいい、という直感が働き、結局出かけずに家で休んでいた。翌日は仕事には行ける状態ではあり、仕事をしたがのどはずっと痛くて、鼻水や痰は出続けた。しかし、それ以上ひどくなることはなく、寝て起きたらのどの痛みも軽減し、これは回復するなという感じがした。


仕事場が変わることで緊張もあり、立っている時間も長いので、疲労がたまってせいもあり、風邪の症状が出たように思う。また症状が出る前に行ったところで体を冷やしてしまったせいもあるだろう。いったいどこに行ったのか?と疑問に思う人もいるだろうが、それは永遠の秘密である。ともかく、いくつかの条件が重なって、いったん体調が崩れてしまった。


のどが痛くなったり、鼻水や痰が出たり、体がだるくなるのは、確かにあまりいいものではないが、それも心身の浄化であるという見方もできる。実際に症状が治まってからは、心身がクリアになって、新たな段階に至っている実感がある。だから風邪の症状が出るのは、私にとって悪いことではない。数日前から心身の変化を感じてはいたのだが、今回さらにそれが深まったように思える。


体調が崩れるなどすると、当然厭な感じがするが、それもとらえようでどうにでもなる。厭だ厭だと思っていると、それも好きのうちではなく、本当に厭になってしまうが、嫌がらずにそれを受け入れていけば、意味のあるものとなる。本当に心の持ちようで物事は良くも悪くもなる。何事も実体はないとはそういうことである。これは思い込みの世界ではなく、実際の話であり、このことを理解すれば、あまり苦痛もなく楽しく生きられる。ありがたいありがたい。


本日は釈迦が生誕したとされる日

本日4月8日は、釈迦の生まれた日と言われている。これが真実であるかどうか定かではない。クリスマスはキリストが生誕した日であるとされているが、これだって本当かどうかわからないし、誰も間違いなくこの日に釈迦やキリストが生まれたのだと証明することもできない。


それはそれとして、釈迦がこの世に降誕されたのは事実であり、その教え、ダルマというものが今の世にまで伝えられているのは、とてもありがたいことで、感謝の念にかられる。


釈迦自身は、六年麻麦の行とも言われる苦行の時代を経て、苦行だけでは悟れないと知り、菩提樹の下で瞑想に入り、スジャータから乳粥の供養を受けて、それから覚醒したと言われている。苦行では心身を過剰に傷めつけ、それでは心の平安は得られない。また、苦行をしていると、「自分はこれだけの行をやってきたのだ」といった慢心に陥りやすい。これは大きなエゴの罠である。


私はかつて釈迦の苦行には遠くおよばないが、かなり無茶なことをしていた時期もあった。食や睡眠を極力おさえ、行に没頭したり、食べることだけでなく、飲むことも制限したりもした。そういうことをしていると、確かにある種の境地に至ることはある。それで自分は解脱したのだとか、私は悟ったのだ、と勘違いする例もある。しかしそれは深い変性意識状態に至ったにすぎず、目覚めるとは関連性がない。このことを理解するのに、私はかなり時間がかかってしまった。


釈迦は苦行に偏らず、悦楽に偏らない中道を体得し、それを説きあかしていった。このことはとても重要なことだが、カルト的なところではこの中道ではなく、完全に偏ったやり方を説き、それを無理強いさせたりする。それによって強烈なトランス状態を形成し、あたかも自分が高い瞑想体験をしたのだと錯覚してしまう。だがそれはまやかしであり、幻影にとらわれているにすぎない。仏教を実践していると標榜しているところでもそんなことをさせたりするから始末が悪い。そのようなカルトは釈迦のダルマを全く理解していない。


以前の私は強烈な変性意識の体験に溺れ、緊張を強いられて、我を忘れた状態だったが、そこから少しずつ離れて気づきを明晰にし、ゆったりとリラックスしつつある。釈迦の説かれたことを全く理解していなかったのが、少しずつ理解できるようになってきた。わかったつもりになっているのが一番危険である。


この世は無常であり、訪れては去っていくものばかりだが、釈迦の説かれた教え、ダルマというものは消え去ることなく、いつの世も残り続けて欲しいと思う。

今日から生まれ変わります、とは言いません

私は毛布にくるまってゆったりと横になっているのが好きである。これは何年も前からのことで、そうしていると妙に落ち着く。睡眠をとる時は顔は出しているが、睡眠を目的とせず、ただ横になってぼけーっとするのを目的といているときは、頭まで毛布にくるまってぬくぬくとする。この時はまさに至福の一時となる。さきほどもしばらく座ってから毛布にくるまって横になっていた。その時は何ともいえない安らぎがあった。


これは胎内回帰願望のあらわれではないかと思った。人は無意識のうちに胎内での記憶を持っているというが、母親の胎内で安らいでいたときの記憶が残っているように思う。チベット仏教では胎内にいる時に胎児は安らいでいないという記述があるが、そのような例もあるかもしれないが、私は基本的には胎児は胎内で安らいでいるのではないかと感じる。


胎内回帰願望は現実逃避の面もあると思われ、私の場合以前はそうであった。この現実から逃れたいという思いが強くあり、それだからこそ修行だ、瞑想だとそのような世界に飛び込んでいった。それはそれでよかったのだが、現実から目を背けて幻想の世界に没入していた。だから色々な迷いも消えていかなかった。


今も自分の内面に意識を向けることは多いが、現実から目を背けずにあるがままに見ていくと、内面がさらに落ちついて楽になってきた。現実から目を背けていくほど、迷妄に迷い込んでいった。元々色々と空想にふけることが好きで、今もそれは続いているが、そのような時間は少なくなってきたし、巻き込まれることも段々なくなってきた。


以前は毛布にくるまっていて、ただぼけーっとして意識が不鮮明だったが、今は現実逃避で心地よさに浸るのではなく、今ここを認識しつつ至福の中にある。これは大きな違いだろう。


胎内回帰願望は、新たな自分に生まれ変わりたいという願望でもあるのだろう。以前は自分が嫌で何とかしたい、生まれ変わりたい、という思いが強かった。しかし今では無理に変わる必要はなく、あるがままでいいのだと思えるようになった。無理に自分を変えようとするときついし、そうする必要もない。本来のあるがままでいれれば、それで後は何もする必要もない。私は今日を境に生まれ変わります、ということを宣言などはせず、私は本来の在り様でいますとここに記す。

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唯我独存

Author:唯我独存
ヨーガ・瞑想暦20年ほど。レイキマスター。日々この瞬間を大切にすることをモットーとする。気付き、寛ぎ、ハートの三つから、今ここにあることを体得し、それを伝えていこうとしている。

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