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自然発生的に

多くの人は世の中に不満を抱いたり満足もしたりしつつ、なんとなく生きている。しかし、中にはそういうことに疑問を抱く人もいる。そして、「気づきたい」とか「目覚めたい」と思うようになり、それを外側に探し求めようとする。私もかつてはそれをずっと行い続けてきた。だが実際のところは、外側に求めてもそれを得ることはなかった。それはすでにそこに在ったということに気づくと、解放されていく感覚が生じた。


目覚めるにはグルの存在が不可欠である、という考えは根強く存在する。そして有名な人のところに多くの人が行く。しかし、有名であることと本当に目覚めていることとは、絶対的な因果関係はない。世に知られていなくても、目覚めている人たちはいる。私の印象では、なまじっか世に知られている人よりも、あまり有名でない人たちの中に本物がいるような気がする。もちろんこれとて絶対的なことではない。


近頃は「この人は目覚めてきているな」とか「この人は本当のことを理解しているな」と感じられる人と接していると、気づきや広がりといったものがこちらに伝わってくる。お互いに沈黙していても、全く違和感がない。そこにはどちらかが師匠でどちらかが弟子という関係性は存在しない。お互いに対等な関係である。今まではカリスマ的な指導者がいて、それに盲目的に従う人びと、という図式があったが、それが徐々に崩壊していくのではないかと思う。


「私はこれこれの教えを実践している」「私は誰誰という人に教えを乞うている」という人は多い。もちろんそれはそれでいいのだろう。しかし、あまりにも自分の実践していることや、自分の師匠にこだわりすぎてしまうと、それがかえって目覚めの障害となるように近頃は感じられる。私もそういうことに対するこだわりがものすごく強かったが、それらを手放してしまった方が楽になり、目覚めも起こりつつあることを感じる。時代は変わりつつある。


特定の人物から指導を受けて目覚めていくのではなく、自分の中で目覚めが起こっていき、それを同じような体験をしている人たちと共有していき、それが自然に広まっていく、そのような時代が訪れてくるような気がする。

母親との話で

昨日は約一カ月ぶりに、母親と会って話をした。特にこれといって用事もなかったのが、定期的に会うのも親孝行のうちだと思うし、母親も喜んでいるので、一~二カ月に一度くらいは話をするようにしている。それは今の私にとって、とても大事なことだと思う。


ファミレスに入ってすぐにタロットを行うことにした。事前に伝達をしていなかったので母親も何をみてもらうかすぐに思い浮かばないようだったが、一つの題材を決めてもらい診断を始めた。その時出たカードは「わからないことは、わからないままにしておくのがよい」という意味合いのもので、そのことを伝え、それからインスピレーションのおもむくままに話していった。母親はその題材については、その見解がぴったりだと言っていた。やはり出るべくして出るカードが出るものだ。


その後は他愛もない話になるかと思っていたが、タロットを最初にやったせいか、精神的、霊的な話になっていった。母親もある宗教団体に属しており、そういった話には関心がある。何ヶ月か前から私が理解し始めたことを話していたが、その時と比較して今の方が理解が深まっているため、より確信を持って話をすることができた。思考が働く前に勝手に話が自分の口から外に現れ出る感じであった。母親も私の話を以前よりは理解してくれたようだった。


その時にした話は、過去も未来も本質的には存在せず、今ここが全てであるとか、最初のうちは努力や探究も必要だが、やがてそれらも手放して委ねていくことになるとか、閉ざされた状態では目覚めることはなく、開かれていくことで目覚めていくとか、悟るとか覚醒するというのは以前は非常に難しく特別なことだと考えられていたが、本来はシンプルなことで、これからはレベルの違いこそあれ、気づいていく人が増えていくだろう、といったことを話していった。母親は少々ついていきにくいところもあったようだが、大概は私の話に納得していたようだった。これはお互いの気づきが深まっていっているからだと思う。


母親は宗教団体に属しているため、どうしても組織や先達や経典をよりどころとしているところがある。それはそれでいいけれども、私には必要ないと言ったら、「何も必要なく、自分は全てわかっているというのは、ちょっとおこがましいんじゃないの」と言われ、私は全てわかっていると言ったつもりはなかったが、誤解をまねく言い方をしたと思い、「そういったものに依存をする必要がないということだよ」と言い直したら、母親も理解をしてくれた。組織や師匠や経典をよりどころとする人たちも当然存在するが、これからの時代はそれらが少しずつ崩れていくのではないかと感じる。


母親からよく「あんたは何をやりたいの?」と聞かれるのだが、私は自分が気づきつつあることを、様々な手段をつかって伝達してくことができればと答える。気付きを深めるために瞑想はとても良い手段だが、それがなかなかできない人たちもいる。身体技法が必要な人もいれば、エネルギーで理解する人もいれば、言葉を介さないとなかなか伝わらないタイプの人もいる。密教においては方便が重視されるが、これは様々な手段を用いていくことであり、決まり切ったやり方だけでは限界がある。そして一人だけで行うことには限界があるので、多くの人の協力の元に取り組んでいくことになるだろう。


話の最後の方で、人は何かをしていないと退屈するし不安になってしまう、という話になり、私は何もしなくても、ただそこに在るだけで十分に満たされるということを言った。現代人は外的な刺激にさらされ続けており、それが当たり前になっている。そして、外的刺激を受けていないことが不自然となってしまっている。しかしそれは本来逆であり、刺激を受けていることが不自然であり、刺激を受けずにただそこに在ることが自然である。このことを理解するのが容易なことでなくなってしまっているが、本来の在り方を少しでも伝えていくことができればと感じている。


母親と話すことで、自分自身の気づきも深まっていき、とても有意義な話しとなった。親と話すとなると、どうしても色々な概念が入ってきてしまうものだが、それが段々なくなってきているように思う。親子という枠組みも越えて、より深いつながりを持てるといいなと思う。

私の妄想

近頃は気づきの連鎖が起こりつつある。そのような縁ができてきている。その流れが広がっていく気がする。気づきが深まると、同じような人達との間で感応し合うのを感じる。


覚醒していくことは困難なことであるという観念は、まだ強い人も多い。私も以前はそうだったが、近頃はそうでもない。目覚めていくことは、案外シンプルなことであり、小さな形からかもしれないが、目覚めていく人が少しづつ増えてくるように感じる。


目覚めの輪が少しづつ広がっていき、始めは微々たるものでもいいから、いずれはそれが広大なネットワークとなって、地球全土を覆うといいなと思った。これがわたしの妄想である。

ボディワークの講習にて

本日は昨年末から習っているボディーワークの講習に、約一カ月ぶりに参加した。当直明けで直接会場に向かい、睡眠時間もあまり取れていなかったので眠くてしょうがなかったが、いつものごとく色々と学べることも多かった。


毎回いくつかの発見があるが、今回も自分にとって貴重な気づきがあった。習っているボディワークではいくつかのテクニックがあるが、その中で親指を頭の二か所に当てるというものがある。頭蓋骨は一つの塊ではなく、いくつかの骨が組み合わさって構成されているが、その継ぎ目に指をあてる。そうするとただ指を当てているだけで、頭骨のゆがみが調整されてくる。これはなぜそうなるかと言われても、これこれこうだからと説明することは私にはできない。そして頭骨が調整されてくると、心身共にすっきりとして心地よい。


指をポイントに当てられている時に生じる反応は様々で、私は眼球が著しく動いた。これは多く見られる反応のようである。私は眼が疲れやすいが、眼球が動くことで疲労も回復する気がする。動くことで調整されているのだろう。人によってはすぐに眠ってしまう。これはリラックスするからではないか。人体というものは神秘に満ちている。


このテクニックを教えてくれた人は、これはボディワークのテクニックだが、エネルギーワークでもあると言っていたが、私もそのように思う。エネルギーを流そうと意図しなくても、頭のポイントに指を当てていると、勝手にエネルギーワークをしているのと同じ感覚が生じる。その時は相手との一体感がある。この一体感は好きな人と一緒にいて一体感を感じたりとか、そのようなレベルのものではない。もっと根源的なものである。その時は思考や感情や相手に対する愛着などではなく、今ここにあり慈愛が生じることもある。


自分と他人の区別は本質的には存在しない、という見解があるが、これは頭で理解するものではなく、このような体験を通じて真に理解するものであろう。そして氣やエネルギーの体験にとらわれる人も少なくないが、至福に満たされたり、相手のことをコントロールできたり、といった体験よりも、このような分別がなくなっていき、真の慈悲が生じてくるという体験こそが本当に大切なことである。目覚めることと劇的な神秘体験を同一視する人もいるが、それは関連性のあるものではなく、心が静まって生じる一体感や二元を超えていくといったことが真の目覚めに通じるものである。


このことに今日は改めて気づかされた。帰りの電車で今まで以上に気づきが深まっていったのがわかった。頭骨が調整されて、バランスがとれたおかげかもしれない。精神のバランスをとることはもちろん大切だが、肉体もまたしかりである。どちらも目覚めていくのに必要不可欠なものである。

仕事をめぐるドタバタ劇

今勤めているいる会社に入って、一か月が経過した。今の仕事は覚えることが多く、また立っている時間も長いので、肉体的にも精神的にも楽ではないが、まあ何とかやっていけそうである。2月の終わりに仕事を辞めて、それから約一カ月半仕事をしないでいたが、徐々にお休みモードから仕事モードにも変換されてきた。世間は現在ゴールデンウィークでお休みモードだが、私の仕事はゴールデンウィークも、盆も正月も関係はない。だが一カ月半働きもせず休んでいたから、それでも全然構わない。


今の仕事を決めたのは、ハローワークにおいてであった。ハローワークには生まれて初めて行ったが、老若男女様々な人がそこにはいた。私は早めに仕事が決まってよかったが、中にはずっと決まらない人もいるのだろう。私は仕事を選んだりはしないが、色々とえり好みをしていると、早々決まらないのかもしれない。今は仕事を選んでいる時代ではない。


ハローワークで私を担当してくれた人は感じのいい人で、こちらの質問にも丁寧に答えてくれた。これがぞんざいな扱いを受けていたら、仕事を探す気力もうせていただろう。そういう点では助かった。いくつか仕事を検索して、直感で一つを決めて面接をしたら、無事に採用された。どうやら20人近くの人が面接し、採用されたのは私を含めて二人だった。それなりの人数が面接を受け、そんな中で採用されたのは幸運だった。採用の連絡があったのが3月の終わりで、4月2日に入社となった。そして仕事を覚えることや、立ち時間が長いことに悪戦苦闘をしながらも今に至る。


しかし、実は3月に別のところに一端採用となっていたのだった。それがなぜ今は別のところで働いているのか?一体全体何があったのか?そのことを少し振り返ってみたい。


2月の半ばに3年勤めていた会社を辞めて、3月になってからネットで次の仕事を探し始めた。その中で自宅からほど近いところでの警備の仕事があり、それの面接を受けることにした。入試の滑り止めではないが、他にもいくつかの面接を受けた。面接を受けてみると、最寄駅の現場はなくなり、他のところとなるらしかった。それでも勤務予定地は自宅からさほど遠くないし、その他の条件もよかったので、やはりその会社にしようと思った。他に受けたところからも採用の連絡はあったのだが、仕事内容がきつそうだったり、勤務地が遠いというのもあり、最初にここにしようと思っていたところに勤めることにした。


警備業では実際の勤務に赴く前に5日ほどの研修があるが、そこでは今までの中で一番厳しかった。警備業法というものがあるのだが、その中のこれこれを暗記しておけとか、警備における基本動作を会社のお偉いさんの前でテストしたりとか、ここまでやる必要があるのか?と疑問に思ったが、それはそれで研修を受けていった。私は基本動作などは前の会社でもよくほめられた方で、その研修中でもやはり褒められることがあった。私はいい印象をもたれただろうとその時は思っていた。


しかし、研修中に私は大きな失態をおかしてしまった。


研修中に色々な人が話をしていったが、三日目くらいに社長が話をするということになった。今までの会社で研修中に社長が話をするなどなかったので少し驚いた。研修中はじっと座って話を聞いていることが多く、正直なところ眠くなる。眠そうにしていて注意される人もいる。その時私はやはり眠くて、あくびがやたらと出そうになった。それまでもあくびが出てしまっていたが、あくびを噛み殺したり、手を当てたりはしていた。しかし、その時はどうしたものか普通に「あーーあ」とあくびをしてしまった。無意識のうちに出てしまったし、よもや見られるとも思っていなかった。


だが、世の中は時として非情な事態をもたらす。その時はちょうど社長にあくびを見られてしまった。


それからは社長に色々と言われた。「人が話している時にあくびなどするな。以前だったら出て行かせるところだ」など散々注意された。もう終わったかと思ったら、また言われたりして少々落ち込んだ。今まであくびをして注意されたことがなかったのに、よりによって社長の話の時にしてしまい、それが見つかってしまうなど、あまり在りえないシチュエーションだろう。これによって私の印象は悪くなってしまったかもしれない。


研修の四日目には、最後の研修は現地でと言われた。都内の高級マンションということだった。私と同じ時に入った人も別の高級マンションに行くということになった。高級マンションは初めてなので、少し楽しみでもあった。ところが研修も終わるころ、同じ時に入った人が別のところに呼ばれた。戻ってくると、予定変更で別の現場に行くように言われたという。「人と接するの苦手のようだから、他の現場に行くように」とのことだった。確かにその人は人との接し方に癖のある人だったが、そこまでするのかと思った。私はそんなことにはなるまいと思ったが、私はもっとひどい目にあうことになったが、その時にはまだそのことを私は知る由もなかった。


現地の研修は、最初は日勤で次から当直となった。マンションは初めてだったから今までと勝手は違ったが、何とかなるだろうという思いはあった。現場にいる人たちもいい人たちだったので、ここでしばらくやっていけるだろうという思いがあった。しかし、物事はうたかたのごとくはかないものである。私はそこで日勤が一度と当直を一度やっただけど、二度とそこに行くことはなかった。


当直が終わって家に帰ると、留守番電話が入っていることに気付いた。聞いてみると「今の現場における心得について話があるから、明日にでも本社に来てほしい」という内容だった。高級マンションは色々とうるさいので、そのことを改めて言われるのだろうとその時は思った。そして翌日の夕方に会社に赴いた。


面接を受けたところと同じ応接室で待っていると、二人の人がやってきた。高級マンションにおける心がまえについて説明されると身構えていたら、二人の話は思いもかけない方向に展開された。


「今の現場だけど、やる気はあるのかね?」


「?????」


私の頭の中にクエスチョンマークがいくつも飛び交った。やる気があるのかどうかだって?やる気がないわけないだろうが。


「やる気はあります」


「報告を受けたが、とてもそうは思えないんだが」


「???????」 一体どんな報告を受けたんだ?


「勤務してすぐにあくびをずっとしていて、緊張感がまるでない。それに住民の人に挨拶もできていない。それに警備員通しでの挨拶もきちんとハイと言えてない。それとため息をついていると言うんだがね。これらについて心当たりはある?」


いきなりこのようなことを言われ、私は露骨には表現しなかったが、内面では仰天した。


あくび関しては確かにしてしまっていたが、噛み殺したり、口に手を当てるなどはしていた。露骨にしてしまう時もあったが、夜中の勤務ではあくびがどうしても出てしまうものである。それを注意されてしまうとは思わなかった。でもまあこれはまだわからなくもない。


住民の方への挨拶は、全くやっていないわけではなく、自分としてはやっていた。声が出ていないと言えばそれまでだが、それは自分一人で巡回する時にはきちんとやれる自信はあった。でもまあこれも言われてもしょうがないかもしれない。


警備員通しのあいさつもきちんとできていないということだが、毎回明確にハイと言えてないとは思わなかった。きちんとできてない時もあったろうが、少々いいがかりのようにも感じた。でもまあこれも仕方ない。


そしてため息だが、これに関しては全くため息などついたつもりはなかった。私はよく深呼吸をするが、その時に「ハーーーーッ」と声を出すことがある。それをため息ととられてしまったとしか考えられない。しかし、そんなものはため息かそうでないかわかりそうなものだろう。こんなことまで言われるのかと、本当に驚いてしまった。


そして更に話は続く。


「まあそんな報告を受けて、これからやる気があるのかどうか確認したいが、正直なことを言うと、このままいてもらってもどうにもならないと思うので、できれば辞めてもらいたんだよ」


おいおい、そうきたか。でもそんなこといきなり言われてもねえ。こちらも生活があるし、とその時は思った。


「現状では現場にまわすわけにはいかないし、他の現場という選択肢もあるけど、率直に言って社風に合わないと思うし、辞めてもらった方がお互いのためになると思うんだが」


社風に合わないときたか、だったら面接の段階でそれくらい見抜きなさいよ、と内面で思う。このあたりでもうこの会社にいてもしょうがないなと感じ始めた。


「とは言ってもいきなり言われてすぐには決められないだろうから、じっくり考えて二、三日後でも連絡をくれるかな」


もう結論ありきだろうと思ったが、二・三日後に連絡をするということでその時は帰った。


帰り道でもう自分の中では結論は出ていた。これはもう辞めて次を探そうと。10日分は働いたことにして給料という形で振り込んでくれるという話しでもあったので、辞めても何とかなるだろうというのもあった。


そして今の仕事が見つかり、順調にきているわけだが、先月の半ばには約束通り辞めた会社からは金銭が振り込まれ、今の会社からも先月末に給料が振り込まれていたので、生活に困ることもなかった。そして辞めたところの現場と今の現場がとても近い所にあり、買った定期も無駄にならなかった。色々と案じていてもどうしょうもなく、ゆだねていることでうまくいくことが往々にしてあるものだ。


自分自身の意志や努力が大切な場合もあるが、そういうものではどうにもならないこともある。そんな時はジタバタせずにゆだねた方がいい。今回の一連の出来事で改めてそのことを実感した。
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唯我独存

Author:唯我独存
ヨーガ・瞑想暦20年ほど。レイキマスター。日々この瞬間を大切にすることをモットーとする。気付き、寛ぎ、ハートの三つから、今ここにあることを体得し、それを伝えていこうとしている。

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