スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

瞑想リトリートにて 2

瞑想リトリートでは気付き、寛ぎ、ハートの要素がより深まったが、それ以外にも大切なものがあった。これら三つを深めていくために、浄化をともなう必要がある。内面を深めていくにも、肉体や思考や感情にとらわれていては、なかなかそれをしていくこともできない。それにはまずある程度の浄化をしていくことが必要になってくる。

浄化を行うテクニックとしていくつか存在するが、身体を動かしたり、激しい呼吸を行ったり、大きな声を出すことはとても有効だ。静かに沈黙の中にある瞑想も多く行ったが、合間には激しくアクティブな瞑想も実践していった。激しく呼吸し、身体を激しく動かしながら大声を出したり、泣いたり笑ったりしていると、大きなカタルシスが起こる。これは全身全霊をこめて行うから効果があり、妙に冷めていると効果がないどころか、周りが発散したものを受け取ってしまうことになり、逆効果となってしまう。私はそういう実践に慣れているから、冷めてしまうこともなく、またテンションを上げすぎてしまうこともなく取り組んでいった。

私は声が大きいので、大声を出しているときはきっと会場全体に響き渡っていただろう。もっとも周りの人たちも一様に大声をあげていたので、私だけが目立ってしまうことはない。冷めてしまうと自分は何をやっているんだとか、周りの連中は何てことをしているんだという思いに襲われてしまうが、私はすぐにその中に没入していき、何も気にすることなく全力で浄化に取り組んでいた。

それにしても、10数人が暗い会場の中で、大声を出したり、身体を激しく動かしているいる姿は、客観的に見れば異様な光景であろう。私は完全に変性意識状態に入ってしまうと、そのあたりをふらふらと動き回りながら「うぉりゃーーー」とか「ほーほー」とわめき散らしていた。その姿を冷静に見るならば、狂ってしまったとしか思えないだろう。しかしそれは私だけでなく、他の人たちも似たような状態であり、集団で狐付きにでもなったかのごとくである。狐付きと違うのは、気付きがどこかしらに残っているかどうかであるが、一皮向けば人はみな狂っているものだということが実感された。

ほとんどの人は自分の内面を深く見つめることもなく、己の中にあるドロドロ、グチャグチャとしたものを理解することはない。そういったものをできるだけ見たり感じたりしないように、固い鎧を身にまとっているようなものだ。しかし、ずっとそうしていると段々内面の問題が強固なものとなっていき、にっちもさっちもいかなくなってしまう。今は世界的に多くの問題が噴出しているが、それらは個々人の抱えている闇があらわれだしているが故のものではないかという気がする。もっと多くの人が自分自身を見つめ、内面の浄化を行うことが必要とされていると感じる。

カタルシスがきちんとした形で起こると、心身が本当に芯からリラックスしてくる。そして物事の理解が深まることがある。リトリートの二日目だったか、大騒ぎをしたあと歓喜の踊りをしていると、大いなる実存を実感し、心の底から感謝と至福に満ち溢れた。これは緊張していたり、何かにとらわれていると決して体験できないだろう。リトリートの大きな効果として、内面の浄化は大きなものである。

瞑想リトリートにて

先日に泊りがけで、リーラスペースが主催する瞑想リトリートに参加してきた。
http://www.leela.jp/index.html

一年前に初めて参加し、今年のゴールデンウィークに次いで、今回で参加が三回目となる。毎回落ち着いて心地よく瞑想することができて、しかも大きな成果があったが、今回も今までに負けず劣らず大いに楽しめた。

初日が主にプレゼンス(気付き)、二日目がビイーング(寛ぎ)最終日がハートに関して焦点を当てて行われた。気付きと寛ぎに関しては、日常生活でも理解が深まってきており、リトリート中でも日常で体験するものと大きな差はなく、今回は日常時と瞑想時の違いがないということを理解するための参加であったかと途中までは感じていた。

それがハートの瞑想を行う際に、ハートに向けて呼吸をすることをしたが、最初の一息でハートが更に大きく開いていく感覚が生じた。それまでは比較的安定して座っていたが、若干瞑想にだらけてきた感もあったのだが、ハートが開くことでそれが消し飛んでしまった。以前のリトリートでかなりハートが開いて、深奥なスペースを感じていたのだが、まだまだそのスペースが深く大きく広がる余地があるのだとわかった。

本来のハートの広さは計り知れないものだが、それを私たちは思考や感情や肉体などにとらわれることで、小さく狭いものにしてしまっている。それが本来の広大無辺な空間にとどまることができると、内面が静かに安定し、恩寵をしっかりと感じ取ることができるようになる。このことは他の何と比較しても比較することができないものである。

以前は集中的に瞑想しても、そのときはいいのだがすぐに効果が消えてしまったり、弱まってしまうことが多かった。しかし、昨年から参加しているリトリートにおいて、効果がすぐに無くなってしまうことがなく、日常生活において、リトリートで体験したことがむしろ深まっていくのがわかる。今までは粗雑なエネルギーや心に働きかけていたのが、より繊細なものにアプローチしているのだろう。それは簡単に消え去ることはない。

以前は気付きや寛ぎやハートの体験も、ダイナミックに感じていたのだが、今回は劇的な体験や体感というのではなく、より深く繊細な領域に浸透していく感じがした。少しずつフーマンが言うところの「これ」が熟してきているように思う。今は多くの人が惑い、社会もぐちゃぐちゃになっているが、少しずつ目覚める人が出てきているようにも思える。

恩寵は常に降りてきているが、それをほとんどの人が感じ取れていない。恩寵を受け取れる人が少しずつ増えてくることでそれらは共鳴していき、個人や社会の変容をもたらしていくことになるかもしれない。そうなるといいと思うが、あまり過度な期待をすることもなく、ただあるということをより体得し、ハートを開いていくことで、そういうことが自然に起こってくるのではないかと今は感じている。

刺激と反応の間にはスペースがある

「ある日、私はオフィスの近くにある大学に出かけて行き、図書館の奥に山積みになっていた古い書籍の間を歩いていた。やがて私は、その中の一冊に大変興味を引かれた。棚から取り出して開いてみると、ある一節が目に止まった。そして、そこに書いてあった言葉が、私のその後の人生を変えることになった。

私は、何度もその文章を読み返した。そこに書かれていたのは、要約すれば、刺激と反応の間にはスペースがあり、そのスペースをどう生かすかが、私たちの成長と幸福の鍵を握っているということだった。

その考えが私にどれだけ大きな影響を与えたか、表現する言葉もない。自分の将来は自分で決められると教育されていたが、この『刺激と反応の間にはスペースがある』という表現の仕方はとても新鮮であり、かつ信じられないほどの強い力をもって私の脳裏に刻み込まれた。そしてそれは、まるで『はじめて真実を知った』ような、『自分の中に革命が起きた』ような、『時至れり』というような思いであった。」


『7つの習慣』より


『刺激と反応の間にはスペースがある』というのは、日常を漠然と生きているとなかなか気付くことができないでしょう。しかし、普段から内面を見つめる訓練をしていると、少しずつわかるようになってきます。

ダライ・ラマ法王の書籍や、チベットのラマから、また知り合いからも直接聞いたことですが、「思考と思考の間に隙間があり、それをとらえてそこにとどまること」という瞑想があり、それを実践してみると、普段は思考やマインドに翻弄されているものですが、そこから離れて本来の自分に戻っていくような感覚がありました。

『思考と思考の間に隙間がある』というのと、『刺激と反応の間にはスペースがある』というのは、私には同じことを指していると思われます。厳密には違いがあるとしても、本質的には同じことでしょう。

私たちは様々な外的刺激や思考などに支配されています。そしてそれを自分だと思いこんでいる。しかし、本来の私というものはそこにはなく、刺激と反応や思考と思考の間にあるスペースこそが本来の私たちなのです。このことに気付くだけで、私たちの生き方は相当変化すると言っても過言ではないと思います。

境地も越えて

修行をしたり、瞑想をしていると、修行や瞑想の境地というものを体験していきます。ある程度できてくると、いかなる境地を体験したか?どの境地に自分は至ったか?ということに意識が向いていくものです。

しかし境地というと、自分とは本来違うもので、そこに到達していくということになりますが、「本当の私」とは元々内在しているものであって、何か特殊なものでそこに到達するというものではないようです。何らかの境地を体験していくことは大切ではありますが、そこにとらわれていると、ずっと探究者のままでいてしまい、「本当の私」を見失ってしまうことになります。「ただある」ということができなくなってしまいます。

とてつもなく深いサマディに至っても、サマディから覚めたら元に戻ってしまっているという例は数多くあるそうです。マインドが一時的に止まっているだけで、マインドの変容が起こっていない。しかし「本当の私」を見出していき、そこに溶け込んでいくと、マインドも変容していくようです。単に深い瞑想に入り、絶対的とも思える境地に至っても、それだけで終わってしまうこともあり、それでは修行や瞑想をしている本来の意義から逸脱してしまいます。

「本当の私」を言葉で正確に表現することはできませんが、大きく深く広大なスペースであり、ハートが完全に開いている状態のように感じます。頭だけでは決して理解することはできず、実際に体験しなければ決してわからないことです。そしてこの体験も何かが見えたとか聞こえたとかそういったレベルではありません。

集中して深い境地に至ることは、それがすべてではなく、在る段階まできたらそれも越えて十分にくつろぎ、「ただある」という状態でいること、そうすることが「本当の私」に溶け込んでいくために必要なことのようです。集中や努力が大切だというのは、絶対的なものではないのです。むろん怠惰でいていいわけではないですが、いずれは集中や努力、そこから得られる境地というものも手放す時期が来るのです。

神社への参拝と瞑想会

昨日は午前中から昼まで大宮氷川神社に参拝し、夜はOSHO系統の瞑想会に参加した。

大宮駅から比較的近くに、大きい神社があって驚いた。波動の良い神社仏閣は、どうしても遠くまでいかないといけないという概念があったが、それほど山奥の方まで行かなくても良い場があるものだと思った。

参道が長く、さいたま新都心駅から歩いていった。参道に入るとそれまでとまるで違う気に満ちていた。強烈ではないが、穏やかで落ち着いたエネルギーだった。近頃はあまり強烈なものではなく、穏やかな気の方に惹かれる。内面の変化にともない、感じるエネルギーにも違いが出てきている。

神社仏閣でも、気が全くないところや、逆にひどいエネルギーに満ちているところもある。だからどこにでも行けばいいというものでもない。それに自分に合った気というものもあるから、ある人にとっては良い場でも、自分には合わない場合もある。私にとって大宮氷川神社はとても良い場であった。参拝することで、間違いなく心身が浄化された。パワースポットも流行っているようだが、どこでもいいのではなく、自分に合ったところを見つけるのが大事であろう。大宮氷川神社は私には合っていたし、比較的行きやすいところだから、そのうちまた行ってみたいと思う。

http://www.genbu.net/data/musasi/hikawa_title.htm


大宮氷川神社の参拝も終わり、家に一旦戻って一休みしてから、初めての瞑想会に参加した。OSHOは毀誉褒貶の激しい人物で、非常にいかがわしいまがいもののマスターという人もいれば、弟子の中にはOSHOを歴史上類い稀な最高のグルと評する人もいる。私個人の見解としては両方とも極論で、ただのインチキグルでもなければ、史上最高のグルでもないと思う。様々な瞑想技法を開発したが、それは優れたものも多くあると私は感じている。私には合っているところもあるから、時々OSHO系統の瞑想をするのがいいようだ。しかし、それが絶対であり、万人に向くものとも思えない。

今回はまずダンスをし、それから意味のない言葉を身振り手振りを交えて大声で叫び、次に意味も無く笑い、その後泣き、最後は静かに座って瞑想するというプログラムを、2時間かけて行なった。これは自分の中にたまっている感情や思考などのブロックを浄化する働きがある。いきなり静かに座って瞑想しようとしても難しいので、まずは心身を浄化する必要があるというのがOSHOの見解であり、私もそれはそうだと思う。

はたから見ると、意味のない言葉をわめき散らし、笑い泣いている姿は、まったくもって正気の沙汰ではない。これをできないという人もいるだろう。私は何度かこのような実践を行なったことがあるので、抵抗なく大声をだし、体を動かし、笑って泣いた。

今の私には、浄化を伴う瞑想が必要だと知り合いからも言われていて、自分でもそうだと思い、思い切り体を動かし、声を張り上げた。すると最初のうちはマインドが抵抗しているが、ある一線を超えると、マインドが静まっていき、気づきが明確になっていった。笑いも最初のうちは表面だけのものだったが、ブロックが解けてくると、腹のそこから笑いが出てきた。気づきが明瞭になり、こだわりが手放せるようになっていった。

泣いているときは、自分の中にある根本的な渇愛に気づき、これは現象界にあるものでは、決して満たされることはないと理解した。どうすればいいかは明確な言葉にすることはできないが、フーマンの言葉を借りるならば「これ」に在ることで渇愛から解放されると気づいた。今までは頭だけの理解だったが、腑に落ちるような感じがした。

静かに瞑想することだけを行なっている人は、このようなアクティブな瞑想に否定的かもしれない。しかし、それはやったこともないのに否定的な人も多いと思う。踊ること一つをとっても、かなりの効果があるし、瞑想をする人でも感情に取り組んでいない人も多いから、このようなアクティブな瞑想も時と場合によっては非常に有効であるというのが私の実感である。ただし、カタルシスで満足してしまっている人も多いが、そこで終わってしまってはもったいない。その先がまた大事である。

おとといは一日中家でぐうたらしていたが、昨日は神社の参拝に瞑想会にと忙しく動いていた。どちらも自分にとって大切なものだと思う。
最新記事
プロフィール

唯我独存

Author:唯我独存
ヨーガ・瞑想暦20年ほど。レイキマスター。日々この瞬間を大切にすることをモットーとする。気付き、寛ぎ、ハートの三つから、今ここにあることを体得し、それを伝えていこうとしている。

月別アーカイブ
カテゴリ
カレンダー
10 | 2017/11 | 12
- - - 1 2 3 4
5 6 7 8 9 10 11
12 13 14 15 16 17 18
19 20 21 22 23 24 25
26 27 28 29 30 - -
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QRコード
メールフォーム

名前:
メール:
件名:
本文:

最新コメント
最新トラックバック
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。