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我という思い込み

我には「我あり」という思いなく、「我があるであろう」という思いもない。潜在的形成力は消滅するであろう。ここに何の悲しみがあるであろうか。

テーラーガータ



釈迦の教えは、一般的なこれは我である。私のものである。という見解を超えている。私という言葉を私達は簡単に使っているが、よくよく検討してみると、どこにも私は見出せない。私のものということも、私達がそのように思い込んでいるだけであって、実際のところは私のもの、というものは存在しない。そのことを釈迦はズバリとついている。このことはなかなか理解できないが、もし理解できたら、人はもっと智慧がある状態になっていくのだろう。

両極からはなれる

カッチャーナよ、この世間の人々は多くは二つの立場に依拠している。それは、すなわち有と無である。もしも人が正しい智慧をもって世間(世の人々)のあらわれ出ることを如実に観じるならば、世間において無はありえない。また人が正しい智慧をもって世間の消滅を如実に観じるならば、世間において有はありえない。

カッチャーナよ、「あらゆるものがある」というならば、これは一つの極端である。「あらゆるものがない」というならば、これも第二の極端である。

人格を完成した人は、この両極端説に近づかないで、中(道)によって法を説くのである。

「サンユッタ・ニカーヤ」



一般的な考え方では、これはある。これはない。というような有と無に偏ったものである。しかし、ブッダの思想はそうではない。そういった両極ではなく、中道を説く。

これはある、これはない、といった固定的な見解を有した段階で、自我意識が生じてしまう。そしてそれは実体を伴わないものであり、迷妄へと人をいざなう。

このことをブッダは頭だけの理解だけではなく、完全に体得していたのであろう。ブッダの思想は頭だけの理解だけでなく、それを体得して本当の意義が生じてくる。

外側に求めず、内側に求める

「自分自身の心の中以外にブッダを見いだすのは不可能だ。このことを知らない者は、それを外に探しにいくだろう。だが、自分自身の内側を探し求めていく以外に、自分自身を見いだすことができるだろうか?みずからの本質を外側に求めるものは、たくさんの人に囲まれて演じながら、自分は誰だったか忘れてしまい、そこいらじゅうを探し回っている愚か者のようなものだ」
パドマサンバヴァ「完璧な覚醒をもって見ることによる自己解脱の書」

『虹と水晶 チベット密教の瞑想修行』 ナムカイ・ノルブ著 永沢哲訳より




多くの人は、外側にいろいろと求める。一般的には人は外に求めるものだし、精神的なことを追求するはずの人たちでさえ、外側に本質を求めようとする人たちもいる。しかし、それは誤りであろう。自分は誰かを忘れてさまよっている人達があまりにも多い。もっと内側に意識を向け、本質を見出すことが大切であろう。

弁明もせずとらわれず

江戸時代の名僧白隠に、次のようなエピソードがあります。
 
 白隠が沼津の松蔭寺に住んでいたころ、ある檀家の娘が妊娠するという事件が起きました。父から、だれの子かと厳しく問いつめられ、答えに困った娘は、日ごろから父が白隠を崇拝していることを思い出して、「白隠さんの子どもです」と、ウソを言ってしまいました。腹を立てた父は、やがて月満ちて生まれた赤ちゃんを抱いて白隠を訪れ、
「人の娘に子どもを生ませるとは、お前はとんでもない坊さんだ。さあ、この子を引き取れ」
と、白隠に子どもを押し付けて帰ってしまいました。
 
 白隠は、その後、人々にののしられながら、もらい乳に歩いたりして赤ん坊を育てました。ある雪の日、いつものように赤ん坊を抱いて托鉢に歩く白隠の後ろ姿を見た娘は、ついに耐えきれなくなり、ワッと泣き出して、父に本当のことを打ち明けました。

 びっくりした父は、白隠のところへ行き、平謝りに謝りました。白隠は、「ああ、そうか。この子にも父があったか」
と言って子どもを返しただけで、娘や父を非難することばは一言もなかったそうです。
(直木公彦著『白隠禅師-健康法と逸話』日本教文社刊)



この話は、禅などを知っている人たちの間では、よく知られた話である。こういった濡れ衣を着せられると、普通なら怒ってしまうものであろう。しかし、白隠和尚は「ああ、そうか」の一言で済ませてしまう。これはまったくとらわれず、一切動じない心の状態であるからこそ言えることである。例え誤解されたり、頭にくるようなことがあっても、「ああそうか」の一言ですませる意識状態になれれば本当に楽になることであろう。

押さえつけずに見つめること

性的な感情を、「これは悪いものだ」と決めつけて抑圧しようとすると、一時的に消えたようでも、後からさらに強い妄想を作り出すことが少なくありません。その感情が作り出す想念を、ただそのままに見つめていると、「セックスしたい」と思っていた情動が次第に「抱きしめてもらいたい」という気持ちに変わったり、お母さんに抱きしめられているイメージになったり、自分の中に寂しさがあることに気がつくことがあります。

すると、「この動物的本能に突き動かされて、私は何を求めているのだろう?」という視点が生まれます。ふと、「幸せになりたいね」という気持ちが生まれるかもしれません。その人の後ろ姿に「あなたが幸せで、心安らかでありますように」と祈ります。先ほどの欲情はすっかり姿を消して、あたたかい気持ちが残っていることに気がつきます。

呼吸による気づきの教え 井上ウィマラより



瞑想などを実践している人で、性的な感情がでてくると、それを悪いものと決め付け、抑圧したり払いのけたりしようとする人がいる。私もかつてはそうであった。しかし、それをやればやるほど、ますます欲望の炎が燃え盛るものである。これでは根本的な解決にはならない。

情欲がでてきたら、それをただ見つめていくことで、その背景にどういったものがあるかに気づいていく。それによって欲望の本質を理解し、やがてはそこから解放されていく。ただ押さえつけているだけでは、解決するわけではなく、よけい欲求を強めることになってしまうだけである。まずは冷静に見つめ、そして根本を理解することが大切なことである。
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唯我独存

Author:唯我独存
ヨーガ・瞑想暦20年ほど。レイキマスター。日々この瞬間を大切にすることをモットーとする。気付き、寛ぎ、ハートの三つから、今ここにあることを体得し、それを伝えていこうとしている。

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