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何という驚き

この生は、死をもたらすたくさんの
危険におびやかされ
水泡が風に吹き飛ばされるより
もっとたよりない
息を吐いて次の息を吸い込むことができ
明朝にまた目ざめることができるとは
何という驚きでは
なかろうか

ナーガルジュナ


今の世の中は、死が隠蔽されているから、死のことを考えることがなかなかできない。しかし、死は必ずやってくるし、それが明日訪れるかもしれないし、ひょっとしたらこの瞬間にでもやってくるかもしれない。そんなことはないと言い切れる人は、どこにもいないことになる。

死ということを考えないと、生ということも考えていかなくなる。私たちは生きていることを至極当たり前のことのようにとらえているが、ナーガルジュナが述べているように、本来はこうして生きているということは、何という驚きであると思う。

今こうして生きていることに感謝し、またいつ死ぬかもしれないということを思い起こす。これはとても大切なことであると思う。人々の心がすさんできている傾向があるように見受けられるが、こういったことに思いをはせることがなくなってきていることも、大きな一因ではないかと思う。

縁起を理解したものは

彼には、子も、家畜も、田畑も、地所も存在しない。既に得たものも、捨て去ったものも、彼のうちには認められない。

依りかかることのない人は、理法を知ってこだわることがないのである。彼には生存のための渇愛も、生存の断滅のための渇愛も存在しない。

スッタニパータ


一切は縁起によって成り立っており、実体はなく空であると頭だけでなく、真の意味で理解し悟った人には、得たと思えたものも、捨て去ったと思えるものも実在はしない。こういう境地に至れば渇愛も滅していき、生きることにも死ぬことにもとらわれることはない。

こういった境地はブッダの境地であり、そうそう達成することのできるものではない。しかし段階を踏んで理解を深めていくことはできるだろう。そうすると少しずつ苦しみから解放されていく。とらわれが生じていなければ、もはやその人の苦しみは減少していくことになる。そして慈悲というものも自ずから生じていくであろう。

生存の渇愛も生存の断滅の渇愛も、本質的には空であり実体を伴わない。それにあまりにも強く深くとらわれているがゆえに、あたかも実在しているかのように感じてしまう。しかし物事は縁起している、相互依存の状態である、と理解すれば実体をともなわないものであると悟り、諸々の渇愛、欲望といったものが本来は存在しないと悟り、自然と離れていくことになるのであろう。渇愛から無理矢理離れようとするだけでは駄目で、その真実を理解しないと本当の意味での苦からの解放はあり得ないだろう。

死を乗り越える

常によく気を付け、自我に固執する見解を打ち破って、世界を空なりと観ぜよ。そうすれば、死を乗り越えることができるであろう。このように世界を観ずる人を死の王は見ることができない。

スッタニパータ



自我に固執する状態は、一般的には当たり前のことであろう。世界は空であるという見解を持つことはなかなかできない。そして、それによって死を恐れることになる。自我に固執していれば、それがなくなってしまうことは、とてつもない恐怖である。

しかし、自我に固執しないで、世界は空なりと観ずることができれば、死の恐怖は存在しないであろう。死の恐怖は人間なら根本的に抱いているものであろうが、自我に固執しない境地では、もはや死の恐怖はなく、死を乗り越えることとなる。

これは私のもの?!

これは我が物である、またこれは他人の物であるというような思いが何も存在しない人、彼はこのような我が物という観念が存じないから、我になしといって悲しむことがない。

スッタニパータ



我が物、他人の物というのは、本来は存在しない。人々がレッテルを貼っているだけである。しかし、この思いが強烈にあるので、あたかも実体があるように感じてしまう。しかし、本質的にはこれは私のもの、これは他人のもの、というのは存在しない。この思いにとらわれているからこそ、苦しみが生じてしまう。

これは私のもの、これは他人のもの、という区分をするのは、現実生活においてやむをえないであろう。しかし、そこにとらわれてしまうと苦が生じてしまう。そこを手放せば心は開放されていく。

優れている、劣っている、同じであるを超える

「私は優れている」、「私は等しい」、また「私は劣っている」と考えている人はそれによって争うであろう。これら三つのありかたに心の動揺しない人には、「優れている」とか「等しい」とかいうことは存在しない。

相応部1・3・10・19



我、というものに強くとらわれることによって、優越感や劣等感が生じる。仏教でいうところの無我を悟ってしまえば、比較対照することもないから、優越感や劣等感は存在しない。さらには平等感も存在しなくなるであろう。平等とはあくまでも他との比較の上でなりたつものである。無我の境地に至れば、他より優れている、劣っている、平等である、といった観念から開放されてしまう。この境地では苦しみからも解放されてしまうであろう。苦しみとは他との比較において生じることがほとんどだからである。そして自分と他というものが存在しないから、真の愛というものが自ずから生じてくるであろう。
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唯我独存

Author:唯我独存
ヨーガ・瞑想暦20年ほど。レイキマスター。日々この瞬間を大切にすることをモットーとする。気付き、寛ぎ、ハートの三つから、今ここにあることを体得し、それを伝えていこうとしている。

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