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タントラへの道 グル その5 Q&A

▼Q&A


Q―――さまざまな精神修行のセンターを回ってみた私の感じでは、マルパのような人物はその筋の修行中毒者たちにとっては厄介な存在に違いないと思うのです。

悟りに達するためには行わなければならないと誰もが思ってることを、何一つやらない男がいるというわけですから。

彼は苦行もしなければ快楽を断ちもしなかった。ただ日々の努めを果たしているだけです。
ごくふつうの人間でありながら非常に有能な師でもあったことは明らかです。

マルパは禁欲の不条理な苦痛や、浄化の苦行を経なくても、普通の人間が達成できるほとんどあらゆる可能性を切り開いた唯一の例でしょうか?



A―――たしかにマルパは、私たちに開かれた可能性の実例だといえる。

しかしインド滞在中に、彼は大変な苦行と訓練を経験している。
インド人の師たちのもとで不屈の修行を続けることによって、彼は自分の道を準備していた。

ここで私たちは〈修行〉や〈苦行〉の真の意味を理解すべきだと思う。

苦行とは、仏法(ダルマ)に適った生活をすることであり、それが基本的に意味していることは根本的な健全さのことだ。
ふつうの生活をすることがあなたにとって健全なことであるときがついたならばそれは仏法(ダルマ)に適っている。

同時にまた経典に書かれているような苦行者の生活を追い求めることは、狂気の沙汰になる可能性があることもわかるはずだ。
それは個人の問題だ。

あなた自身にとっての健全さ、人生に対する確かで穏当で、安定したアプローチを見いだすことの問題なのだ。

例えば仏陀は、何か高邁な理想に従って行動しようとするような宗教的な狂信者ではなかった。

彼は単純に、開放的に、そして非常な賢明さをもって人々に接しただけのことだ。
彼の智慧は、超越した常識からうまれたものだ。
彼の教えは健全で開放的だ。


 人々が、宗派と世俗の矛盾を心配しすぎるところに問題がある。

いわゆる〈高い意識〉と実際的なことがらを調和させるのは、非常にむずかしいことだと考える。
しかし、人生への根本的に健全なアプローチにおいては、高い意識と低い意識、宗教と世俗というように分けること自体が無意味に思われる。


 マルパは、人生のできごとのあらゆる細部に熱中することのできる、ごくふつうの人物だった。
特別な人間になろうなどとは考えもしなかった。

怒るときはただ怒り、人を殴りもした。
何も考えずにただ殴った。

他人の役を演じたり、自分を装うことはけっしてなかった。

それにひきかえ、宗教的狂信者は、つねにどのようにあるべきかのモデルに従って生きようとする。
自分が純粋な善人ででもあるかのようにふるまい、熱狂的に人々説得して自分の側に引きつけようとする。

しかし、、自分が善人であることを証そうとする試みは、ある種の恐怖の表現であるように、私には思われる。

マルパには証すべきことは何もなかった。

彼はただ、健全で堅実な普通の市民であり、同時に非常に目覚めた人物だった。
彼はカーギュ派の父であり、私たちが学び、実践している教えは、すべて彼に源を発している。



Q―――禅に、
 はじめ、山は山なり、水は水なり。
 次に山は山にあらず、水は水にあらず。
 最後に山は山なり、水は水なり。

という言葉があります。
私たちはみな、山は山でなく、水は水にあらず、段階にいるのではないでしょうか?

 しかしあなたはなお、あたりまえの性質を強調していられます。本当にあたりまえのである状態に達するためには、私たちはこの「あたりまえでない」段階を通り抜けなければならないのではありませんか?


A―――マルパは自分の息子が死んだとき、気も転倒せんばかりの落胆ぶりだった。

弟子のひとりが、「あなたはすべてが迷妄であることを私たちにおしえていたではありませんか? 息子さんの死はどうなのです? 迷妄ではないのですか?」と聞くと、マルパは、「そのとうり。しかし、息子の死は超迷妄だ」と答えた。

 あたりまえであることを、はじめて本当に体験するとき、それは実に異常なまでに当たり前であることから、もはや山は山でなく、水は水にあらず、といことになる。

なぜなら私たちは、ものごとを本当にあたりまえに、精密に、〈ありのまま〉に見るからだ。
そのあたりまえさを本当に発見したとき、それはあたりまえでなくなる。

しかし最後にまた、そのあたりまえでない精密さは、日常的なことがら、つねに私たちとともにある実にあたりまえなこととなり、私たちは出発点に戻る。

山は山なり、水は水なり。

そうして私たちはリラックスすることができる。




Q―――どのように鎧を脱ぐのですか? どのように自己を開くのですか?


A―――それは、どのようにという問題ではない。
開くための儀式や公式はないのだ。どのようにという疑問こそ、開くことへの第一の障害だ。

自分に問うことも自分を見張ることもなく、ただ開くことだ。

どのように反吐を吐こうか、と考える人はいないだろう。

ただ吐くほかはない。
それについて考える暇はない。

それはただ起こる。

緊張しすぎると、苦しさが増すばかりでうまく吐けないものだ。
反吐をのみこもうとしたり、苦痛と戦おうとするからだ。

調子の悪いときには、リラックスすることを学ぶべきだ。



Q―――人生の状況がグルになりはじめるとき、それがどのような形で現れても変わりないのでしょうか? 
それとも、どのような状況にいるかが問題になるのでしょうか?


A―――私たちの選択の余地はまったくない。
何が起ころうとも、それはグルの現われなのだ。苦しい状況もあれば、美しい状況もあるだろう。

しかし、自己を開いて状況をグルとしてとらえるとき、楽と苦はひとつのものだ




※ 1 後世、チベットの光と尊敬されたミラレパも、若い頃には数々の罪業を重ねている。父の死後、その遺産を奪った伯父夫婦に復讐するため、魔術を習い、多くの人を殺し、また、雹嵐を呼ぶ術により、畑の麦を全滅させたこともあるという。

※ 2 チベット仏教には多くのすぐれた詩が残されているが、中でもミラレパは詩聖と称せられ、その作品集「グル・ブム(十万歌)は瞑想と智慧の結実を示すものとして知られる。
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唯我独存

Author:唯我独存
ヨーガ・瞑想暦20年ほど。レイキマスター。日々この瞬間を大切にすることをモットーとする。気付き、寛ぎ、ハートの三つから、今ここにあることを体得し、それを伝えていこうとしている。

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