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タントラへの道 グル4

グルに友だちとして受け入れられるためには、完全に自己を開かなければならない。

そして完全に開く家庭であなたはおそらく〈精神の友〉や一般的な生活の状況によって与えられるさまざまな試練を乗り越えなければならないだろう。

その試練とはつねに失望という形をとって現れる。

あるとき、あなたは〈精神の友〉が感情とかあなたに対する情愛とかを一切もってないのではないかという疑問を抱く。

これはあなた自身の偽善との葛藤なのだ。
偽善はエゴの仮面であり、根本的な歪曲(ゆがみ)であって非常に頑固なものだ。
分厚い皮膚で覆われている。

私たちはその上に幾重にも鎧を着けようとするものだ。
偽善の鎧は一枚はぎ取るとまたその下に一枚あるという具合に、分厚く幾重にも重なっている。

私たちは全部脱ぎ捨てなくてもすむことをつねに願っている。
外の何枚かをはぎ取るだけで、何とか格好をつけようとする。
そしてグルの気に入られそうな顔をして新しい鎧を着け、彼の前に出てゆく。

しかし、〈精神の友〉は鎧などひとつも着けてはいない。
彼は全裸だ。
彼の裸に比べると、私たちはセメントでも着こんでいるような格好だ。
鎧が厚すぎるために、彼は私たちの身体や肌触りを感じることができない。私たちの顔さえはっきりと見ることができないのだ。


 師と弟子の関係を物語る過去の例では、教えに対する弟子の熱情と衝動が最後に消耗してしまうで、長い旅とさまざまな辛苦に耐えなければならなかった話しが数多くある。

それこそがポイントだと思われる。

何かを追求しようとする衝動はそれ自体が妨げとなる。
この衝動が消耗したときにはじめて、根源的なそのままの裸の姿が現れて、二つの心のであいが起こりはじめる。


 〈精神の友〉との出会いの最初の段階は、スーパー・マーケットに行くのに似ているといわれる。
あなたは自分が買おうとしているものを想像してうきうきしている。

それは〈精神の友〉の人格の豊かさであり多彩であろう。

第二の段階は、犯罪者として裁判におもむくようなもの。
あなたは〈精神の友〉の求めに応じることができないと必要以上に意識し始める。

なぜならあなたには自分で自分を知ると同じように、彼もあなたを知っていることがわかっているからだ。
それほど、恥ずかしいことはない。

第三の段階では〈精神の友〉に会うことは、野原で幸福そうに草を食べている牛に会うようなものだ。
あなたはその平和な風景にうっとりと見とれ、そして通り過ぎる。

最後の第四段階になると、〈精神の友〉とともにあることは道端の石ころをやり過ごすことと少しも変わりがない。
あなたはとくに注意も払わずにそのそばを通り過ぎる。


 最初に起こるのは、グルへの求愛であり、恋愛沙汰だ。
関心の的は、相手をどれだけ自分にひきつけることができるかということだ。
より多くを学びたい一心から、あなたはもっと精神のともに近づこうとする。

彼への賞賛であなたの心は満たされている。
同時にあなたは彼を恐れる。彼はあなたを避けている。

ものごとがあなたの期待どおりに運ばなかったり、「自分を完全に徹底的に開くことはできないかもしれない」という自意識に圧倒されてしまったりする。
まさに愛と憎しみの関係が、つまりゆだねることと逃れることの交互のプロセスが展開される。

言い換えれば、ゲームが始まるのだ。
開きたい、グルと恋愛関係をもちたいというという欲求と同時に、彼から逃げ出したいという欲求のゲームが―――。

精神の友にあまりに近づきすぎると、彼に圧倒されるのではないかと思う。
チベットのことわざにあるとおりだ。


 「グルは火のようなものだ。近づきすぎれば火傷をするし、遠すぎては暖まれない。」

 このような求愛の情をもつのは弟子の方だ。師を求めて近づきすぎ、火傷をする。
すると何もかも捨てて逃げ出したくなる。


 しかし、結局二人の関係は非常に充実した堅実なものになってくる。

あなたはグルに近づきたい欲求も、彼から逃げ出したい欲求も自分自身のゲームにすぎないことがわかってくる。
それは現実の状況とは何の関係もない、あなた自身の妄想にすぎないのだ。

グル、あるいは精神の友は、つねにそこに燃えている。それはきえることのない生命の火だ。
彼とゲームを演じるかいなかは、あなたの選択にかかっている。


 やがて、あなたと精神の友との関係は、非常に創造的なものになる。
あなたは彼に呑み込まれることも、彼から離れていることもいとわない。

彼が氷木のように冷たい役を演じようとするならば、あなたはそれを受け入れる。
彼が熱い日の役割を果たそうとするならば、それを受け入れる。
何者もあなたを動揺させることはなく、あなたはグルとの完全な調和に至る。


 次の段階では精神の友がすることをすべて受け入れることによって、あなたは自分自身のインスピレーションを失いはじめる。

あなたは完全にゆだね捨て去ってしまったからだ。
自分が一片の塵になってしまったように感じられる。
取るにも足らない存在だ。

あなたにとって存在するただひとつの世界は、自分のグル、精神の友の世界だ。
それは非常に面白い映画を見ているときのようだ。
画面の興奮にあなたは完全に引き込まれている。
自分も映画館も、坐席も、観客も、そして隣に坐っているはずの友人もすべて消えてしまう存在するのは画面だけだ。

それは〈ハネムーン〉であり、すべてがグルという中心的存在の一部であるかのように見える。
あなた自身は何の役にも立たない無意味な存在であり、この偉大で魅力あふれる中心的な存在からたえず養分をもらって生きている。
あなたは慰められ、元気づけられ、高揚させられる。

この時点では個人崇拝の現象がはっきり現れてくる。
グルが、この世界に在り、生き、脈打っている唯一の存在なのだ。
あなたの人生の意味はグルにかかっている。

死ぬなら彼のために死ぬだろう。
生きるのも彼のためであって、自分自身には何の価値もないのだ。


 しかし精神の友とのこの恋愛関係も永久には続かない。
おそかれ早かれ熱がさめ、あなたは自分の生活と精神の状況に直面せざるをえない。

結婚してハネムーンが終わるのと同じだ。

恋人を自分の注意や関心を向ける焦点として意識するだけでなく、彼、または彼女のライフ・スタイルにも注意をむけはじめる。

彼の個性や人格の限界を超えて、彼を師たらしめているものに、あなたは注意を向けはじめる。

すると〈グルの普遍性〉の原理が登場してくる。

あなたが直面するあらゆる問題は、この結婚の一部だ。

困難にぶつかるたびにグルの声が聞こえてくる。
あらゆる状況が、教え現われになる。

それはあなたが恋人であるグルから独立する第一歩だ。

あなたはまず精神の友に精神の友にすべてをゆだねた。
そしてコミュニケーションが起こり、彼とのゲームが演じられた。

そしていまあなたは完全に開かれた境地に達したのだ。

あなたは生のあらゆる状況の中にグルの本質を見はじめる。

ということは生のあらゆる状況が、グルとともに在るときのように自己を開く機会をあなたに際出している。

したがって、あらゆるものごとがあなたのグルになりうるのだ。


 ミラレパが紅岩宝玉窟にこもって、厳しい瞑想修行をしていたころ、グル・マルパの鮮やかなヴィジョンを見たことがある。

あるとき、薪を集めていたミラレパは、空腹と折からの暴風雨にうちのめされて、洞窟の外で気を失ってしまった。
意識を取り戻した彼が東のほうをながめると、マルパの住んでいるほう尾が国真っ白い雲が浮かんでいる。

マルパへの想いが胸にあふれ、ミラレパはマルパとともに在ることへの熱望を切々と歌う。
すると白い獅子にまたがったマルパのヴィジョンが表れてミラレパに語りかけた。 

 「いったいどうしたことだ? 気でも転倒したのか? ダルマを理解しているならばただ瞑想を続けるのだ。」


 その言葉にミラレパの心は安らぎ、瞑想を続けるために洞窟に戻った。

ミラレパのマルパに対するこのような辛抱と依存は、彼がグルをひとりの人間として、個人的な友として認める状態から脱していないことを示している。


 さてミラレパが洞窟に戻ってみると、中は、親指ぐらいの体にフライパンのような眼をもった魔物たちでいっぱいになっている。

ミラレパは、あらゆる手段を用いて、彼らが自分をなぶり、さいなむのを止めさせようとするが何の効果もない。

ついにミラレパのほうからゲームを止め、自分の偽善を認めてそれを放棄し、魔物たちに向かって心を開くことができるようになったとき、魔物たちは消え去った。

このとき以来、ミラレパの ※2 詩には大きな変化が見られる。

ミラレパはこの経験によって個人的な存在としてのマルパに関わるだけでなく、グルの普遍性を見きわめることを学んだのだ。


 精神の友はひとりの人間であり、外的な存在であると同時にあなたの一部になる。

外に在り、内に在る、このようなグルは、私たちの偽善を見抜き、あばくのに重要な役割を果たす。

グルとはあなた自身を映す鏡だと言える。

あるいはあなた自身がもっている根源的な知性が精神の友という形をとって現れるのだ。

内なるグルが働きはじめるとき、あなたは開くことへの要求から逃れることができない。

根源的な知性がどこまでもあなたにつきまとい、あなたは自分の影から逃れられない。

「ビッグブラザーが見張っている」のだ。
しかし私たちを見張り、私たちにつきまとっているのは、外にある存在ではなくて私たち自身だ。自分が自分の影を見張っているのだ。


 二つの見方ができる。ひとつはグルを私たちにつきまとい、偽善を侮る幽霊と見なすことだ。
自己の本性を悟る過程に魔性が存在していけないはずはない。

もちろん創造性という精神の友のもうひとつの性質はつねに私たちの一部分としてある。
根源的な知性は、生の状況の中にたえず存在する。

それは鋭く、浸透性をもち、ときにはそれを避けたいと思っても避けられない。

それはあるときには厳しい表情をもち、あるときには霊感に満ちたほほ笑みをたたえている。

タントラの教えに、「グルの顔は見なくても、その表情はつねに知ることができる」という言葉がある。

笑っているか、歯をむいているか、それとも怒って眉をひそめているか。とにかくそれは人生のあらゆる状況の一部なのだ。

根源的な知性(タターガタ・ガルバ)すなわち仏性は、生が私たちにもたらすあらゆる体験の中に存在する。
それから逃れることはできない。

また教えの中にこういう言葉がある。


 「始めない方がよい。ただし、いったん始めたらやり遂げることだ。」

 つまりどうしても避けられないかぎり、精神的な道などに踏み込まない方がよい。

しかしいったん踏みこんだら、完全にやり遂げるまで引き返すことはできない。
逃げ道はないのだ。
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コメント

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教えてください

初めまして。
時々読ませていただいています。

「精神の友」はどういう存在というか、自分の中のどういうものだと理解すればいいですか?
「タントラへの道」を読んでいると、途中でグルと「精神の友」が同じものなのかと勘違いしてしまいます。

この場合ですが

ルーチェ さん

初めまして。コメントありがとうございます。

「精神の友」とグルは同じものですが、
グルという言葉が独り歩きしてしまって
おり、意味を取り違えてしまうこともある
ので、「精神の友」という表現をリンポチェ
は使っているようです。

お返事ありがとうございました。
「精神の友」と「グル」は同じだったんですね。
これで少し読みやすくなりました。
「タントラへの道」は繰り返して読んでいる本の1冊です。
又教えてください。
よろしくお願いします。

Re: タイトルなし

ルーチェさん

先日、「タントラへの道」は、とてもすばらしい内容ですね。
おそらく今は絶版になっているのだと思いますが、こういった
ものがもっと日本語で読めるようになるといいと思います。

どうぞまたお越しください。よろしくお願いします。

> お返事ありがとうございました。
> 「精神の友」と「グル」は同じだったんですね。
> これで少し読みやすくなりました。
> 「タントラへの道」は繰り返して読んでいる本の1冊です。
> 又教えてください。
> よろしくお願いします。
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プロフィール

唯我独存

Author:唯我独存
ヨーガ・瞑想暦20年ほど。レイキマスター。日々この瞬間を大切にすることをモットーとする。気付き、寛ぎ、ハートの三つから、今ここにあることを体得し、それを伝えていこうとしている。

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