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タントラへの道 精神の物質主義 前半

私たちは精神性について学ぶためにここに集まってきた。

その探究心の純粋さについては疑いの余地がないとしても、なおその本質が問われなければならない。

エゴは、あらゆるものごとを自分に都合のよいようにかえることができるという厄介な問題があるからだ。
精神性さえその例外ではない。
エゴは精神的な教えを学び、それを自分の利益のために使おうとつねにねらっている。

そのとき、教えは外的なもの、(自分)の外にあるもの、よりどころとすべき哲学として扱われる。

私たちは、本当にその教えと一体になり、あるいは教えそのものになることを欲しているわけではないのだ。

だから、師がエゴの放棄を説けば、私たちはエゴの放棄を真似ようとする。
それらしい動作やジェスチャーをしてはみるものの、本当は自分たちのどのような部分も犠牲にしたくはないのだ。
演技派の役者を気取り、教えが本当に言わんとすることには目も耳もふさいで演技をしているうちに、私たちはみちにしたがうふりをすることに慰めを感じはじめる。


 私たちは、自分の行為と教えの間に矛盾や食い違いを感じるたびに、その食い違いが和らげられるように状況を解明しようとする。

その解明者は、精神的アドバイザーを装うエゴにほかならない。

それは政治と宗教が分権された国家の状況に似ている。
政策が協会の教えにそぐわない場合には、必ず国王は、彼の精神的アドバイザーである司教のところにおもむいて祝福を求める。

司教はといえば、国王が宗教の保護者であることを口実に国王の政策を正当化し、祝福を与える。

私たちひとりひとりの心においても、これと同じように巧妙にことが運ぶ。

エゴは国王と司教の二役を演じるのだ。


 真の精神性を悟るためには、精神的な道と自分の行為とのこのような馴れ合いを断ち切らなければならない。
しかしこの馴れ合いをきっぱりと処理することは容易なことではない。
なぜなら、エゴ特有の哲学と理論と言うフィルターを通すと、すべてが整然として正確、そして論理的に見えてくるからだ。私たちは、あらゆる疑問に対して自分を正当化する答えを見いだそうとする。

混乱を免れない人生のあらゆる側面を、自分の知能的設計図にはめこんで自分を安心させようとするのだ。
そのための努力はあまりにも真剣で厳粛でもっともらしく、疑いをさしはさむ余地がない。私たちは精神的アドバイザーの〈高潔さ〉をつねに信じてやまないのだ。


 自分を正当化することに利用するもの何であろうとかまわない・・・・・・聖典の※1智慧、図表化、数学計算、秘儀、正統派宗教、深層心理学、その他のさまざまな方法。

自分がある修行をするべきか否かを決めえようとするとき、つまり精神的な道を評価しはじめたとき、私たちはすでに、自分の修行や智慧をこれとあれとの対立という視点から分類してることになる。

これこそ精神の物質主義であり、われらが精神的アドバイザーの唱える偽りの精神性なのだ。

「これこれの意識的境地、あるいは状態に達するために、自分はこの修行をしているのだ」という二元的な観点に立つ限り、私たちは自動的にありのままの自分と言うリアリティーから自分を切り離しているのだ。


 「価値づけることや一方を選ぶことが、なぜいけないのか?」という疑問への答えはこうだ。

 「自分はこの修行をするべきで、あれは避けるべきだ」という二義的な判断を公式化しようとするとき、私たちはすでにあるがままの本来の単純さからほど遠い、複雑な状態にある。

瞑想の単純さとは、エゴの猿的な本能をただ体験することだ。
瞑想の心理にそれ以上を求めることは、自分の心に分厚い仮面や鎧を着せる結果になるだろう。


 あらゆる精神修行の主要なポイントは、エゴの官僚制度からの脱出にあることを理解する必要がある。

それは知識、宗教、道徳、分別、慰めなど何であれ、自分が求めるものについてのより高い、より精神的な、より超越した翻訳をたえまなく探し求めるエゴの欲望から抜け出すことだ。

私たちは、精神的なの物質主義から脱け出さなければならない。
もし私たちが精神の物質主義から脱け出すのではなく、実際にはそれを収めているのだとしたら、最後に私たちが見いだすのは精神の道の巨大なコレクションの虜になった自分の姿に違いない。

精神的なコレクションは、非常に価値あるものに思われる。自分は多くを学んだ。
西洋の哲学や東洋の哲学を修め、ヨーガもやり、おそらく一ダースにものぼる師たちのもとで修行した。
多くを学び、自分の目的を達した。
おびただしい量の智慧を貯めることができたと信じている。

しかし、これだけのことを成し遂げたにもかかわらず、なお放棄すべきものがあるとは不可解だ! なぜそんなことがありえよう? 不可能だ! しかし、残念ながらそれは事実なのだ。

知恵と体験の膨大なコレクションは、エゴの展示品の一部であり、その虚飾を好む性質の一面に過ぎない。

私たちは、世間に向かってこれらのコレクションを展示することによって、自分が「精神的な」人間として平穏無事に存在してることを自分に証明しようとするのだ。


 だが、本当はただ骨董屋を開いたにすぎない。専門の収集分野が東洋の骨董品であれ、中世キリスト教の美術品であれ、その他の時代や地方の遺品であれ、骨董屋には変わりがない。

私たちが多くのものを持ちこむ前、その部屋はとても美しかった―――真っ白な壁、簡素な床、ランプの灯が燃える天井。
部屋の中央にオブジェがひとつだけ置かれていて、それは実に美しかった。
自分はもちろん、人々もやってきてその美しさを賞でた。


 しかし、私たちはそれだけで満足できずにこう考える。
「ひとつのオブジェが、こんなにも部屋収を引き立たせるのだから、もっと骨董品を集めたらさらに豪華な部屋になるだろう」。
そして、早速収集にとりかかり、持ちこんでくるのは結局混乱だけだ。


 わたしたちは、美の対象を求めて世界中を歩き回った。インド、日本、その他さまざまな国々。
行く先で見つけた骨董品は、それひとつだけを見るかぎり、実にすばらしい。
ぜひ自分の店に持ち帰りたいと思う。
ところがはるばる持ち帰って店に置いて見ると、それはガラクタのコレクションに加えられた、もうひとつのものにすぎない。

あまりにも多くの美しいものに取り囲まれているためにそれ自体の美しさが輝き出ないのだ。
何の変哲もないひとつのものになってしまう。
私たちが、作ったのは、優美な骨董品で満たされた部屋ではなく、ガラクタ屋に過ぎなかった!


 適切な買い物とは、美や情報をたくさん買い集めることでなく、ひとつひとつの対象を丹念に味わうこと。
これは重要なことだ。
対象の美しさを真に味わうとき、あなたはそのものと完全に一体となって我を忘れる。
非常におもしろい映画を見ていて、自分が観客のひとりであることをわすれてしまうのに似ている。

一瞬世界は消えうせ、あなたは映画のシーンになりきっている。
それは、このような一体化、ひとつのことへの完全な熱中であるべきだ。

ひとつの美の対象、ひとつの精神的な教えを、私たちは本当に味わい、噛みくだき、すっかり飲みこんだだろうか?
それとも、ますますふくれあがる巨大なコレクションの一部につけ加えただけだろうか?


 精神性を学び、瞑想修行をするためにここに集まってきたあなた方は、金銭的な欲や得を離れた純粋な探究心と向上心をもってやって来たことをしっているからこそ、私はとくにこのことを強調したい。

しかし、知恵を骨董品に見たて、収集すべき〈古い智慧〉とみなすならば、それは誤った道だ。


 指定の系譜をたどってみても、知恵は骨董品のように手渡されはしなかった。

そうではなく、師が教えの真理を体験し、それをインスピレーションとして弟子に伝える。
そのインスピレーションが弟子を目覚めさせる―――かつて、師の師が彼を目覚めさせたように。
弟子はそれをまた自分の弟子に伝え、教えは伝授される。

教えは、つねに今日的だ。〈古い智慧〉や伝説ではない。それは情報としてつたえられるのでもなく、おじいさんが孫に話す昔話のように語り継がれるのでもない。
そのようなわけにはいかない。

教えとは、リアルな体験なのだ。


 チベットの経典にはこんな言葉がある。
 「知恵は純金のように焼かれ、たたかれ、そして鍛えられるべきもの。そうしてこそ、飾りとしてみにつけることができる。」


 つまり、師から授けられた精神的な教えは無批判に受け入れられるのでなく、焼かれ、たたかれ、鍛えられて、はじめてその純金の光が輝きだす。
そのとき、あなたは好きなデザインの装身具を造り、身に飾ることができる。そのように、ダルマ(法、教え)は年齢を問わずすべての人に適用される。

それは活きた教えなのだ。
師やグルを真似るだけでは何の意味もない。
あなたは師の複製になろうとしているのではないはずだ。
教えは個人の独自の体験として、教義の保持者に現在まで引き継がれてきたのだ。 


 おそらく読者の大部分が、ナロパ、ティロパ、ミラレパ、ガムポパといった※2 カーギュ派の師たちにまつわる話を聞き慣れていることと思う。

彼らにとって教えは活きた体験であり、それは現在の教義の保持者にとっても同じことだ。
ただ彼らのひとりひとりが生きてきた状況の細部が違うだけだ。

教えは、暖かい焼きたてのパンの特徴をそなえている。
まだ熱くホカホカのパンだ。
焼き手はパンの作り方一般の知恵を、それぞれの原料とオープンに応用しなければならない。
それから、パンのやけ具合を自分で確かめ、温かいうちに切って食べる。

彼は自分自身で教えを創り出し、実践する。
それはまさに生きたプロセスだ。
知恵を寄せ集めるという欺瞞はそこには存在しない。

私たちはつねに独自の体験と取り組むべきだ。
困ったときに知恵のコレクションをもちだしてきて確証や慰めを見つけようとすることはできない。
「やっぱりグル(師)も教えも、みな自分の味方だった」というふうには!
 精神的な道は、そのような具合にはいかないのだ。

それは孤独で独自な道なのだ。








※ 1 のちの章でトゥルンパはprajnaが依然として相対的な知恵であるのに対し、jnanaは相対性を超越した至高の知恵であると言う。そして、それぞれのサンスクリット語に、knowledge、wisdomはいいとしてknowledgeには問題もあろうが、英語に適語がないといおう事情によるのだろう。邦訳に際して、knowledgeは「知識」、wisdomは「知恵」と訳されることも多いが、本書ではそれぞれ「知恵」「智慧」と訳し分けてそのニュアンスの相違を示すことにした。314ページ注1参照

※ 2 チベット仏教には四つの宗派がある。ニンマ、サキャ、ゲールク、カーギュ派などがそれである。カーギュとは「教えの継承」を意味する。この派は十一世紀、インドのナロパ、マイトゥリパなどに学び、密教経典(タントラ)を持ち帰った訳経僧マルパによって開かれ、ミラレパ、ガムポパらへと受け継がれる。密教的色彩が強く、「大印(マハムドラー)成就」すなわち、般若の智慧と生命の合一が目的とされる。
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唯我独存

Author:唯我独存
ヨーガ・瞑想暦20年ほど。レイキマスター。日々この瞬間を大切にすることをモットーとする。気付き、寛ぎ、ハートの三つから、今ここにあることを体得し、それを伝えていこうとしている。

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