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タントラへの道 序章 後半

このような疑問に悩まされた仏陀は、三大王が支配するプロセスを深く内省してみた。
なぜ私たちの心が三大王に従おうとするのか、それから抜け出す方法があるのかどうかと―――。

そして仏陀は、三大王が、私たちが固定した存在であるという根本的な神話を創り出すことによって私たちを欺くことを発見した。

しかし、究極的には、この神話こそまやかし、冗談、そしてとんでもない詐欺(ペテン)なのであって、それが私たちの苦しみの根源になっているのだ。

これを発見するために仏陀は、三大王がその力の源にしている根本的な詐欺に気づかれることのないよう巧みに築き上げた防壁を切り崩してゆかなければならなかった。

私たちもまた、大王たちの精巧な防壁を一層ずつ切り崩してゆかないかぎり、けっして大王たちの支配を脱して自由になることはできない。


 大王たちの防壁は、私たちの心を材料にして作られている。
私たちの心という素材が大王たちの手にかかると、固定性という最初の神話を維持するために使われてしまう。

その過程がどのように作用するのかを知るには、自分自身の体験をくわしく調べてみなければならない。

「しかし、どうやって?」という疑問が湧くかもしれない。

「どうして調べたらよいのだろう?」そこで仏陀が発見した方法が瞑想なのだ。

答えを見つけるためにあがくことは、何の役にも立たないことを仏陀は悟った。

あがきの合い間にできたすきまができたときにだけ、そのような内観が生まれた。
あがきのないときにだけ、その姿を現す、健全な目覚めた本性が、自己の内部に存在することを仏陀は悟りはじめたのだ。

こうして瞑想は、〈あるがままにあらしめる〉ことに関わっているのだ。


 瞑想に関してはこれまでに数多くの誤解があった。ある人々はそれを心の恍惚鏡(トランス)だとみなす。
ある人々は心の体操とでもいうようなトレーニングが瞑想なのだと考えている。
しかし瞑想は、そのどちらでもなく、ノイローゼ的な心の状態と真っ向から取り組むことなのだ。

ノイローゼ的な心の状態に対処することは決して困難でも不可能でもない。
その状態にはエネルギーやスピードや、一定のパターンがある。

瞑想の修行は〈あるがままにあらしめること〉と、つまりそのパターンに調和することに関わっている。
そうすることによって、私たちはそれらの要素とどのように取り組み、どのように関わったらよいのかを学ぶことができる。

それらの要素を自分の望みどおり育てるためにでなく、それらが何のために存在するのかを知り、そのパターンに調和してゆくためにこそ、それを学ばなければならない。


 仏陀があるとき、瞑想を学びにやって来た有名なシタール奏者にどのように教えを授けたかという話がある。

その音楽家がたずねた。「自分の心をコントロールすべきでしょうか? それとも完全にあるがままにまかせるべきでしょうか?」 すると仏陀は答えた。

「あなたは偉大な音楽家だ。シタールを調整するときはどんなふうにするのか、聞かせてほしい」。

そして「音楽家が、絃がたるみもせず、はりすぎもしないようにします」 と答えると、仏陀は、「それと同じことです。瞑想の修行においても、あまり押しつけがましく自分の心に何かを強いてもいけないし、かといっていたずらに心をさまよわせてもいけない」 と言った。


 これこそ、開かれた状態で心をあるがままにあらしめること、つまり心を征服しようとしたり、反対にコントロールをなくしてしまうこともなく、そのエネルギーの流れを感じること、そしてそのエネルギーのパターンに調和してゆくことに関する教えだ。

これが瞑想の修行なのだ。 


 このような修行は、一般的に言って誰にとっても必要なものだ。
なぜなら、私たちの思考パターンや、この世界での生き方はこうあるべきだというような概念は、非常に巧妙なやりくちでそれ自身を世界に押しつけるか、さまなくば、まったくワイルドで自制ができないものになってしまうからだ。

したがって瞑想の修行は、まずエゴの一番外側の皮である、私たちの心をたえまなく通り過ぎる散漫な思考、つまり心の中の無駄話に取り組むことから始めるべきだ。

例の大王たちは、散漫な思考を自己防衛の最前線として、また私たちを欺くための手先として利用する。
次々に思考が生まれれば生まれるほど、私たちは心理的に忙しくなり、自分自身が存在すると言うことに強固な確信をもってしまうものだ。

そこで大王たちは、たえまなくそのような思考を活動させ、次から次へと思考を重ねてゆくことによって、私たちがそれらを超えてものごとを見るのを妨げようとするのだ。

真の瞑想修行は、それらの思考をかきたてようという意図も抑制しようという意図ももたない。
それらは自然に起こり、やがて根本的な健全さのひとつの現象になってゆくのにまかせられる。
思考は目覚めた心の状態の精密さと明快さの表現となるのだ。


 もし重複する思考をたえまなく創造するという戦略が見破られようものなら、大王たちは私たちの感情をかきたてて私たちの注意をそらせようする。

私たちを興奮させる多彩で劇的な感情が、おもしろい映画のように私たちの注意を引きつける。

瞑想の修行においては、私たちは感情をあおることも抑えつけることもしない。

それを明確に見つめ、ありのままにあらしめることによって、それ以上感情が私たちを喜ばせたり、取り乱させる手段となることを許さないのだ。

そのとき感情は、無私の行為を満たす尽きることのないエネルギーに転ずる。


 思考や感情が働かないときには、大王たちはより強力な武器である概念というものをもちだしてくる。

現象にラベルを貼ることは、固定した確かなものの世界が存在するという感覚を生み出す。
そのような固定した世界は私たち自身もまた固定した継続的な存在であることを保証する。
世界が存在するゆえに、世界を知覚する〈私〉たちもまた存在するのだ。

瞑想は概念を透明に見通すことに関わっている。

したがって、ものごとにラベルを貼ることが、私たちの世界と自己のイメージを固定化するための手段として役立つことはなくなる。

ラベルを貼ることは、単にものごとを識別するための行為となる。

大王たちはさらに進んだ防衛機制をもっている。しかし、それはここで語るには複雑すぎるだろう。 


 仏陀は、自分自身の思考・感情・概念その他の心の働きをくわしく調べることによって、自分の存在を証明しようとあがいたり物質主義の三大王の支配の対象になることは避けられるのだということを発見した。

自由になるためにあがく必要はない。

心という素材をエゴの野心の表現から、根本的な健全さと悟りの表現に変えてゆくこと―――これこそ、真の精神の道と呼ばれるべきものなのだ。
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唯我独存

Author:唯我独存
ヨーガ・瞑想暦20年ほど。レイキマスター。日々この瞬間を大切にすることをモットーとする。気付き、寛ぎ、ハートの三つから、今ここにあることを体得し、それを伝えていこうとしている。

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