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~~にも関わらず

悟ったり、解脱した人というと、みんな過剰な思いを抱くみたいだね。覚醒した人は完全無欠で、煩悩やエゴなどないものだと崇め奉ったり、あるいはそんな人間はいない、インチキに違いない、と否定するというように両極端の反応が多いかな。だけどそれらはありのままに見ている姿勢とは言えないと思うなあ。目覚めた人だってこの世に肉体を持っている以上は、どうしたってある程度の欲というものはあるし、エゴも少ないながらも残っている。見事にそういうものがない覚者もいるかもしれないけど、それはほとんどまれなことだね。そして悟ったという人を崇め奉っていた人が、その人のちょっとしたエゴの要素を見い出して、「あの人は堕落した」などと失望して去っていったり、攻撃に転じたりという話しを聞くこともある。でもそれは自分の過剰な幻想が崩れてしまったからで、もっと冷静に見ていれば、そんなことにはならないと思うんだけどな~。


それと何でもインチキだとする人も多いね。今は疑心暗鬼の人が多いようで、ネットの書き込みとかを見ても、えらくシニカルでひねくれたものの見方をする人が目に付く。僕だってひねくれた面もあるが、あまりにも斜に構えてばかりだと、やはり物事を正確に見ることができないよ。確かに自称覚者でインチキ野郎は多いけど、みんながみんなそういうわけじゃない。中には本当に目覚めた人もいるよ。見つけるのは簡単じゃないけどね。でもこれからは少しずつそういう人が増えてくるんじゃないかな。有名だとか人がいっぱい集まっているとか、そういうことは関係ないよ。むしろその辺にいるような、何の変哲もない人たちの中に、目覚めた人たちがいるように僕は思うんだな。人間は肩書きや、地位や権力といったものに弱いからね。それらを振りかざして「私は悟った、私についてきなさい」みたいなことを言ってるインチキ野郎に惑わされる人がどうしてもいるんだな。でもそんなのに引っかからないようにしないとね。まあ全部とは言わないが、肩書きにこだわったり、料金が高すぎたり、人がたくさん集まっていることを豪語しているようなのは、大抵はインチキだよ。目覚めることはそういうことと関係ないからね。


インチキ野郎たちのことについてはまた別の機会に話すとして、今回は目覚めることについて少し話してみよう。悟ったり解脱したりというと、最初にも書いたように完全無欠になるようなイメージを抱く人も多い。少なくとも僕はそうだった。「この人は悟ったんだ」と思った人に心服し、その人の言動を一から十まで肯定し、自分の都合の良いように解釈してきた。周りにもそういう人が多く、自分の作り出した幻想の世界に埋没していたな。そしてそれが崩れ去って精神的に相当不安定になった人もいるし、恨みを抱いている人もいたな。それも悟ったらこうなるんだ、という思い込みがもたらしたものに過ぎないと、冷静になって振り返るとわかってきた。


色々と調べてみたり、自分自身で見聞したことを総合すると、完全に悟った人というのはまれで、大概がある程度目覚めている人でもエゴは残っているというのが見えてきた。そういう部分に触れて幻滅する人もいるけど、それは思い込みが激しすぎるからで、目覚めたとしてもまだエゴが残っている部分もあるのだ、と認識すればいいことなんだけど、どうもそう受け取れない人もいるんだな。私の知っている熱心な修行者で、セックスをするような人を自分の師匠としたくない、というようなことを言ってた人がいたが、僕は自分の師匠がセックスをしようが、大食らいであろうが、そんなことは気にしないな。もちろん物事には程度というものがあって、師匠がセックスに耽溺しているようならそれはどうかと思うが、多少するくらいは全然問題ないよ。それはそれとして、本質を掴み取っているならば、教わるに値するというのが僕のスタンスだな。


僕の知り合いで、瞑想に長けた人がいるんだけど、その人が面白いことを言っていて、普通は○○の状態だから私はあると考えてしまいがちだけど、~~にも関わらず私はあるのだ、これでもいいのではないか、とのことで、僕はそれに共感して、とても良い見解だと思ったんだよ。「I Am」を体得すると、ジャッジをしなくなるとか、食べなくてすむようになるとか、煩悩が消えてしまうとか、そんなイメージを持ったりするけど、「I Am」はもっとシンプルなもので、「今ここにただある」それ以上でもそれ以下でもないみたいだ。ジャッジをしなくなるとか、寝なくてもよくなるとか、修行の結果としてそのようなことが発生することもあるけど、それはあくまでも副産物で、それらにこだわっていたら、大切なことを見失ってしまうことになるよ。


マインドが動いていても、大いなる存在と共にあることは可能だよ。実際のところ、マインドが動いていようがいまいが、それは常にそこにある。ただそのことを私たちは忘れていて、「まだまだマインドが動いているからダメだ」「煩悩がいっぱいだから、まだダメだ」「目覚めたらこんな風になるはずなのに、まだ自分はそうなっていない。。」などというマインドのささやきに惑わされているんだな。僕らは覚醒するとか悟るというと何か特別なこととか、今の状態から何か別のものに変容すると思い込んでいる。


でも何かになるんじゃなくて、「今ここにある」ことを理解することなんだな。僕はずっと勘違いしていたし、以前の僕と同じように思っている人も多いだろうけど、目覚めることはとてもシンプルなことみたいだね。悟るって案外「なーんだ、こんなことなのか」みたいなものなんだろう。どうやら複雑怪奇にしているのは、僕らのマインドみたいだね。とにもかくにも「こうならなければ私は目覚めていない」とか、「まだこんなんだから、私はいまここにあるの状態ではない」という思い込みから離れて、「~~にも関わらず、私はある」とすることでとても楽になるし、人生が一変することになるよ。僕はこの見解を聞いてとても楽になった。みんなもそうなってくれるといいな。
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こんにちは。
いささかお久しぶりでしょうか?
その後はお元気にお過ごしでしたでしょうか。
お風邪を召されずいらしたとのこと、嬉しく思います。
まだ寒さも厳しく、しかし春の息がひそめられている気運に
心はやる日々でございます。

すみません、文章だとつい堅苦しくなってしまいます、ごめんなさい。
私はしっかり者の天然っぽいねとの評を先日友人に頂きましたので、
そんな雰囲気で読んで頂けたなら嬉しいです!

更には説明が下手だねとの評も頂き、
誰かに何かを指導するためにここにいるわけではないのですが
ちょっぴりしょんぼりいたしました……。
ですので、誤解やご不快を与えるようでしたらお申し付け下さいませ。
何分寂しがりな性分であります故、お返事がなくとも
くどくどと足を運んでしまう非礼を、お許し願えれば幸せに存じます。

さて、
悟りの段階についてですが、
『悟ってからが悟りの道のはじまり』なんて表現がございます。
悟りの一瞥はあくまで「贈り物」です。
悟りが入り、「いまこの瞬間」に生きられるようになると
時間軸に関係のない「縦の次元」を生きることになります。
ですから、悟りの道は「梯子を登る」ようなものということですね。
上に、上に行くわけです。
一段ずつ登っていくわけですから、悟り人であろうとも“ただの人”なんですね。
更には、全覚醒者であっても“人は人”なんですね。
笑い、歌い、ときには怒り、そして泣き。
誰よりも人間らしい人間のことを、世間は悟り人と呼んでいます。

悟ったからといって、何も変わらないです。
だからこそ、美しい。
素敵なことですね。
悟りを歩むということは、美を追求する道と似ています。
愛に生きる人。
私は、そんなふうに感じました。
『会いたい』、と
神に恋焦がれてしまった者の紡ぐ詩かと。

直接に伝えられたなら瞬間で終わる情報の伝達を、文字だけにすると
こうも長引いてしまうもどかしさにもぐもぐいたします。

私のような者が何度も長文を書き込みますのは、
やはりご不快を与えるものかと拝察いたします。
これにて最後といたします故、何卒お納め下さいませ。
お邪魔いたしました。

この出会いに感謝を捧げます。
ありがとう。
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唯我独存

Author:唯我独存
ヨーガ・瞑想暦20年ほど。レイキマスター。日々この瞬間を大切にすることをモットーとする。気付き、寛ぎ、ハートの三つから、今ここにあることを体得し、それを伝えていこうとしている。

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