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浮かんでくるもの

ここの管理人が何だか堅苦しくえらそうに色んなことを言ってるけど、僕は堅苦しいことは嫌いなんだな。だからざっくばらんに好き勝手に話させてもらうよ。えっ?「いきなり登場して名前も名乗らないのは何事だ。お前の名前はなんなんだ?」だって?名前ね~。僕は名前にあまり意味を見い出してないから、名乗るのも忘れちゃったよ。それも失礼なことではあるから、適当に名乗っておくか。ここでは別に本名を名乗らくてもいいよね?だったら何か適当に考えておこう。う~んと。。考えるのもめんどくさい。僕は思考にとらわれないことを周りには語っているのに、ごちゃごちゃ考えているのも自己矛盾だな。もうこれでいいや。ハンドルネーム黄金の源泉、これでいこう。一応何でこんな名前にしたか意味があるといえばあるんだが、そんなものはどうだっていい。みんなもあまり気にしないで欲しい。


さて、生えある第一回目の登場では何を話そうかな?思いつくがまま、空に浮かぶ雲のごとくやっていくかな。浮かぶと言えば、座ってじっとしていると、色んな雑念や思い、思考といったものが浮かんでくるよね?瞑想を一度でもやったことがある人はよくわかると思う。これは最初のうちはびっくりするよね。思いもよらぬことが浮いてきて、「何なんだこれは!?」と慌てふためいた人もいるだろう。そして自分は瞑想などできないとか、難しいなどと考えてしまい、やらなくなってしまう人も少なくないと思う。それに雑念の中には、喜ばしいものや心地よいものもあるし、喜びも悲しみもないニュートラルなものもあるけど、中には思いも掛けないものや、とんでもないものも多くある。人はどうしても、自分自身の醜い面や、ドロドロしたところを観たくないものだよね。でも、己を見つめていくと、自分自身の影に直面するのは避けられないことなんだな。


人間には色んな要素がある。神や仏のような素晴らしいものもあれば、見るも無残な悪魔のごとき要素もある。多くの人々はどちらか一方しか見ようとしない。それも仕方ないことかもね。誰だって自分の嫌な面は見たくないものだから。だけどそれをしっかりと見すえることはとても大事なことなんだ。なぜってきちんと見ていくことで、自分のドロドロとした目を背けたいものも少しづつ弱まっていき、いずれは落ちていくからなんだよ。


僕も修行や瞑想を始めたばかりのころは、様々な想念が後から後から湧いてきて、どうにもこうにもならずに困っていたよ。僕は食べ物にそれほどとらわれがないと以前は思っていたんだ。食べることが嫌いはではなかったけど、それほどこだわってはいないと思ってた。ところが長い間内面を見つめる機会があったんだけど、その時には食べ物がありありと浮いてきて、びっくり仰天した。「自分の中には、これほど食べ物に対するとらわれがあったのか?!」と一時期は途方に暮れてしまったよ。夢うつつの状態になって、目の前にくっきりち食べ物がヴィジュアル的に現れてくるんだ。


僕はチョコレートが大好物で、この世のあらゆる食べ物の中で、一二を争うほどの好物なんだが、その当時は修行の妨げになると食べるのを辞めていたんだ。だけど夢うつつの時に、目の前にありありとチョコのヴィジョンが見えた時には、「やった!思う存分チョコが食える!」と狂喜乱舞したものだった。意識が戻ってきてからそのことを思い出して、「一体自分は何をやってるんだか。。」と愕然とした。他にもありとあらゆる食べ物のイメージに翻弄されて、いかに自分は食べ物にとらわれていたかよくわかったよ。その時は落ち込んだりしたけど、そういうことを何度も体験して、自分の中にどのようなものが内在しているか理解できて、今では必要なことだったのだなと思っているよ。


瞑想を始めて間もない人がよく言うことで、「瞑想中は雑念だらけで、全然瞑想できなかった」というのがある。これは雑念が悪いこと、障害であるかのごとく考えてしまうのが背景にあるんだろう。そう思うのも最もだけど、それが果たして悪いことかといえば、全くそんなことはない。様々な雑念や想念が浮いてきて当たり前なんだな。むしろそれで自分に内在しているものを理解できるから、いいことだと言うこともできる。まあ物事にいいも悪いもないと言ってしまえばそれまでだけど、少なくとも「また雑念に翻弄された。自分はダメなんだ。。」と落ち込むことはないということになる。


僕自身も未だに静かにしていると、よく雑念が出てくるし、僕の知り合いで僕よりずっと瞑想ができる人でも、雑念は湧いてくると言ってる。でも僕らは雑念や想念に振り回されることがなくなってきている。湧いてきたら湧いてきたで、「ああ、また出てきたな」と冷静に眺めていられる。翻弄されるのと冷静であることの違いは大きいよ。大抵は浮いてきたものに同一化するか、無理に押しのけようとするかで、冷静に眺めていることが難しいんだな。だけど同一化していたら雑念に支配されていることになるし、無理矢理押しのけようとしても、かえって雑念にとらわれてしまうことになる。雑念を否定しようとすると、その雑念に関わりを持つこととなり、より一層雑念を増大させてしまうんだな。だから色々と浮かんできても、押しのけることもなく、当然同一化してしまうこともなく、ただ眺めていることが大切なんだよ。ただそこにあるだけで、雑念は勝手に落ちていく。余計なことをしてしまうと、かえって雑念に翻弄されることになってしまう。


雑念が出てくるのは、思考や感情を自分のものだと無意識下で感じており、それらにとらわれているからに他ならない。でも思考や感情は来ては去っていくもので、本来は自分自身ではない。それらを超えたところに、本当の私がある。仏教徒は「私などないのだ」と言うかもしれないけど、肉体や思考や感情は私ではない、というのは間違いのないところで、それらを超越したところに本来の私があるとするか、それとも私がないとするかという見方の違いに過ぎず、根本的には同じことを指していると僕は思うな。まあそれは兎も角、ほとんどの人は、思考や感情といった実体がなく来ては去って行くものを、あたかも実体があるかのごとく思い、それに埋没しているけれども、それらの背景にある本当の私というもに気づいていくことが大事なんだ。


普通は「私は○○である」「私は××だ」となるけど、本来の自分とは「私は在る」英語でいうと「I Am」になる。「今ここにただある」というのが本当の姿だけれども、普段の感覚と全く違うものだから、シンプルなことだけどわかりにくくなってしまってる。でも思考や感情の背景にあるものに気付き、それに同化していき、そこに溶け込んでくると、「私はある」が頭だけの理解ではなく、段々と体得できるようになってくるんだな。そのためにまずは外側に向いている意識のベクトルを、内側に向けていくことがポイントとなる。


僕らが生きていくうえで、意識を外側に向けることは避けられないだろう。そうしないと危険でもあるからね。外を歩いていて内面にばかり意識を向けていたら、何かあった時に対処できずにえらいことになっちゃうよ。車が前からやってきても外部にある車を認識できず、避けることがなければ、車とぶつかって大変なことになる。だから外側に意識が向くのは生きていくうえで必要なことではあるけど、それによって「私はある」とか「今ここにただある」といったことを見失ってしまうことにもなった。だから静かにして意識を内側に向けていくことに取り組む必要があるよ。


「私はあるとか、今ここにただあるとか、そんなことはようわからん」という人もいるかもしれないが、少なくとも静かにしていて浮かんでくる雑念や想念は、単純に悪いものだと思わないで欲しいな。そのように認識してもらうだけでも、僕がああだこうだと戯言を並べた甲斐があろうというもんだ。そして何かをすることではなく「ただある」ことの素晴らしさがわかってきたら、更に素晴らしいことだよ。これは知識ではないし、頭で理解したつもりになっても違うものだからね。それは思考の産物であり、マインドのものだよ。まあ兎に角僕は色々と語れて楽しかった。また戯言を並べにくるかもしれないけど、その時はどうぞよろしくね。
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唯我独存

Author:唯我独存
ヨーガ・瞑想暦20年ほど。レイキマスター。日々この瞬間を大切にすることをモットーとする。気付き、寛ぎ、ハートの三つから、今ここにあることを体得し、それを伝えていこうとしている。

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