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タントラへの道 菩薩の道 1

The Bodhisattva Path

私たちは単純さと精密さを旨とするヒーナヤーナの瞑想法について話し合ってきた。

間、つまりものごとがありのままに存在できる空間をもたせることによって、私たちは自分の生活の澄みきった単純さ、精密さを味わいはじめる。

それが瞑想の修行の始まりだ。

忙しく次から次へと湧いてくるとりとめのない思考や、心を満たしている無駄話の厚い雲を切り払いながら、私たちは第五スカンダ(識蘊)を通り抜ける。
そして次のステップは感情に取り組むことだ。


 感情を私たちの身体の筋肉と考えるなら、とりとめのない思考は、それにたえず養分を送っている血液循環にたとえられるだろう。

思考がさまざまな感情をつなぎ支える。

そこで私たちは、日常生活の中で心の中にとめどなく湧いてくる無駄話の合間の句読点のように、激しい多彩な感情が爆発するのを体験する。

思考と感情は、社会に対する私たちの基本的な態度とかかわり方を表わし、私たちが住む幻想の世界という環境をかたちづくる。これらの〈環境〉が六道なのだ。

ひとりひとりの心の状態は、六道のうちの特定の世界によって象徴されると言うことができる。
しかし、同時に他の世界につながる感情をもたえず経験してるのだ。


 これらの世界に取り組むためには、より広い視野から状況をながめることを始めなければならない。
それがヴィパシュヤナ(パーリ語ではヴィパッサナ)瞑想法だ。
ひとつの行為の緻密な細部だけではなく、状況を全体として意識するようにしなければならない。

ヴィパシュヤナは空間、つまり緻密さの起こる周囲の〈空気〉を意識することに関わる瞑想だ。
行為の緻密な細部を見ることができれば、その意識自体がある空間を作り出すとも言える。

小さな規模で状況を意識することが、より大きな規模での意識をもたらす。
ここからパノラマ的な意識、マハーヴィパシュヤナが発達する。

それは細部に意識を集中することよりも、むしろ全体のパターンを意識することだ。
私たちは自分の幻想に浸ってしまうのではなく、そのパターンに目を向けはじめる。

自分の投影による像と戦う必要はないこと、そして自分とその像を隔てている壁もまた自分が作り上げたものであることに気づく。
エゴの存在を支える必要のないことを悟るからだ。

そして開かれた寛容な心を持つことができる。
自分の投影による像に対処する別のやりかたを見つけることは私たちに大きな悦びをもたらす。

これが菩薩の達する最初の精神的な段階=第一のブーミ(「地」の意)だ。
私たちは菩薩の道、マハーヤーナの道、開かれた道、暖かみと開放の道にはいってゆくのだ。


 マハーヴィパシュヤナ瞑想では、自分と対象の間には大きく広がった空間がある。
状況と自分の間の空間が意識される。
その空間ではどのようなことも起こりうる。
関係とか戦いとか呼ばれるべきものはどこにも起こっていない。
言いかえれば、私たちは自分の体験に、概念化された考えや名前や分類をむりやりあてはめるのではなく、あらゆる状況に空間の広がりを感じるのだ。
このようにしてその意識は非常に緻密ですべてを抱合するものとなる。


 マハーヴィパシュヤナ瞑想は、ものごとがあるがままにあることを妨げないようにしようとするものだ。
そのためには、私たちの側からはどんな努力もする必要もないことがわかってくる。
なぜならものごとはすでにあるがままに存在しているからだ。
ものごとをあるがままに見ようとする必要すらないー――ものごとはすでにあるがままなのだ。
そうして私たちは開放と空間を真に味わう。
つまりその中で動きまわることのできる空間があるということ、そして自分はすでに意識しているのだから、意識しようと努力する必要のないことに思い至るのだ。

だからこそ、マハーヤーナの道は開かれた道、広がりのある道だ。
それは自分を目覚めさせ、自分の本能が湧き出てくるのを可能にするために、みずからすすんで心を開くことに関わる道だ。


 先に私たちは、コミュニケーションのために間をもたすことについて話し合った。
しかしそのような修行は非常にわざとらしく、自意識的なものだ。

マハーヴィパシュヤナ瞑想の実践では、故意に間を置き、故意に待ちながら、自分がコミュニケートするのを見守るだけでなく、コミュニケートしてあとはただスペースアウトするのだ。

あるがままにまかせてあとは気にしない。
あるがままにあることを自分の所有物か、自分の創り出したものであるかのように考えないことだ。
そうすれば目覚めた状態の自然な動きが湧き出してくる。


 マハーヤーナの経典には、自己を開く準備が完全にできている人々、もう少しで準備ができる人々、そして開く可能性をもっている人々について語られている。

開く可能性を持つ人々とは、そのことに関心をもってはいるものの、その本能が湧き出るのにじゅうぶんな間をもたせようとしない、知的な人々を指す。

もう少しで準備ができる人々とは、かなり開かれた心をもちながら、必要以上に自分を観察している人々だ。

そして開く準備が完全にできている人々とは、秘密の言葉、タターガタ tathagataの合言葉をすでに耳にした人々のことだ―――「誰かがすでにやってのけた。誰かがすでに超えて行った。それは開かれた道、可能な道、タターガタの道なのだ」という言葉を。

したがって、どのように、いつ、どこでということには関わりなく、ただ開く。

それは美しい。

それはすでに誰かに起こったことだ。

どうしてあなたに起こらないと言えよう?
 なぜ自分と他のタターガタを区別することがあろう?

 タターガタ tathagata とは、タタター tathata すなわち、〈あるがまま〉を体験した者、という意味だ。
〈あるがまま〉を体験した者、言いかえれば、タターガタという考えは、インスピレーションを与える方法、つまり出発点だ。

それは私たちに誰かがすでにそれを成し遂げたこと、誰かがすでにそれを体験したことを教えてくれる。
この本能がすでに誰かを奮い起こしたのだ。
それは目覚め、開き、そして知的であるという意味でクールな本能だ。


 菩薩の道は勇気ある者、タターガタの本性が力強く現に自分のうちにあることを確信する者の道だ。

タターガタのような考えによって実際に覚醒をおぼえる人はすでに菩薩の道にある。
その道は仏性を信じ旅を最後までやり遂げる力が自分の中にあることを信じる、勇敢な戦士の道なのだ。

ボーディ・サットヴァ bodhisattva(菩薩)とは、ボーディの道を歩むに足る勇気をもつ者、の意だ。

ボーディは目覚め、または覚醒の境地。
これは菩薩がすでに目覚めていることを意味するのでなく、すでに目覚めた者が歩いた道を歩む意志をもつ、ということだ。


 この道は自然に起こってくる六つの超越的な行為から成る。
それらは超越した寛容(ダーナ)(布施)、持戒(シーラ)、忍耐(クシャーンティ)(忍辱)、精進(ヴィールヤ)、瞑想(ディヤーナ)(禅定)、そして知恵(プラジュナー)の六つだ。

これらの徳行は六つのパーラミター(六波羅蜜)と呼ばれる。

パーラム param は、彼岸または岸、川の向こう岸、の意。イタ ita は、至った、の意。

だからパーラミター paramita は、彼岸に至ること、を意味し、菩薩の行為はヴィジョン、つまりものごとに対するエゴの自己中心的な考えを超越した理解をもたねばならないことを示す。

菩薩は親切な善人になろうとしなくても、自然のままに慈悲に満ちているのだ。
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唯我独存

Author:唯我独存
ヨーガ・瞑想暦20年ほど。レイキマスター。日々この瞬間を大切にすることをモットーとする。気付き、寛ぎ、ハートの三つから、今ここにあることを体得し、それを伝えていこうとしている。

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