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タントラへの道 四つの貴い真理 Q&A

▼ Q&A

Q―――間を置くことについてもう少し話していただけますか?

 あなたの言われることは理解できますが、それがどのように起こるのか、どのように間を置くのかがわかりません。
どのように〈ありのままにまかせる〉のですか?


A―――実はこの質問は次で取り上げる話題、つまり菩薩の道=慈悲と自由のマハーヤーナの道=広い道の問題につながっている。

しかも、ヒーナヤーナの単純さという視点からそれに答えるならば、私たちはそこに生まれた状況がどのようなものであろうと、それに満足し、外部からの慰めを探してはならないということだ。

ふつう私たちが話をするとき、私たちは相手に情報を伝えるだけでなく相手からの反応も得たい。
相手からも何かを得たいと思う―――これは非常に利己的なコミュニケーションのしかただ。

この相手からも得たいという欲望を捨てさえすれば間は自然に現われる。
努力して間を作り出すことはできない。



Q―――道に入ってゆく準備をしなければならないといわれました。
性急に飛びこんではいけない、いったん立ち止まらなければならない、と。

この準備についてもう少し話してくださいますか?


A―――私たちははじめ、精神的な探求をすることは非常に美しいことであり、自分のもっている疑問のすべてに答えてくれるものだと思っている。

このような希望と期待を同時に超えることが必要だ。
私たちは師が自分の問題をすべて解決してくれ、疑問に答えてくれることを期待するかもしれない。

しかし実際師に向かい合ってみると、あらゆる質問に答えてはくれない。
ほとんどのことを自分自身で解決するようにまかせられるだけだ。
それは私たちを非常に落胆させ、失望させる。


 私たちは多くの期待をもっている。
精神の道を求め、精神の物質主義に巻きこまれていればなおさらのことだ。

精神性が、幸福と慰めを、智慧と救済をもたらしてくれるものと期待する。
精神性に対するこのような、文字どおり利己的な見解は、完全にくつがえされるべきだ。

最後に、悟りなどというものに達するという希望をまったく捨てたときにはじめて道は開かれる。

それは、人が来るのをまつときに似ている。
相手が来るという希望がほとんどなくなり、彼が来ると思ったのは自分の一方的な想像にすぎなくて、最初から彼には来る気などなかったのだど思いはじめる。

そして希望を放棄した瞬間に彼が現われる。
精神の道も同じようなものだ。

あらゆる期待をそがれることがまず必要だ。
それは忍耐力を必要とする。
あまりエネルギッシュに自分自身を精神の道に押しやるのではなく。
しばらく待つことだ。

あまり性急に〈現実〉(リアリティー)を理解しようとしてはいけない。
精神性を探求しようとする自分の動機をまず見つめることが必要だ。
心を開いて〈善〉と〈悪〉をこえたところから道にはいってゆくならば、大望を持つ必要はない。


 ドゥッカの原因が何であるかを悟りはじめると、知識を求める旺盛な飢えを感じる。
苦しみを超越しようというあせりがある。

自分を救おうとあせって自分を精神の道に向かって押しやるならば、それは苦痛と混乱の道、サンサーラ(輪廻)の道になってしまう。
何かを学ぼうと熱心になりすぎたり、道において進歩しようとする野心に忙しくふりまわされる。
すると私たちは、ありのままの自分であることやプロセスの全体を前もって調べることを忘れてしまう。

精神の道に急いでとびつくのではなく、正しく徹底して自分を準備することが必要だ。

待ちなさい。
待って、〈精神の探求〉のあらゆるプロセスを調べてみることだ。
間を置きなさい。


 要するに、私たちには混乱を貫き通して光り輝く根源的な知性がそなわっているのだ。

例の猿の話の最初のたとえを考えてみよう。
あの家から脱け出そうとする猿は、壁を昇り降りして壁や窓を調べ、忙しく逃げ道を探す。

猿を駆り立てるその測り知れないエネルギーは、私たちを外に向かって押しやる原始的な知性だ。

この知性は私たちが播いて育てる種のようなものではない。
それは雲の合い間から輝く太陽のようなものだ。

間を置きさえすれば、どのように道を歩むかについての自然で直感的な理解が、突然そして自動的に得られるものだ。

これが仏陀の体験だった。

多くのヒンドゥー教の師について数え切れないほどのヨーガ法を学んだ後で、仏陀はただそれらのヨーガ法を応用しようとするだけでは完全な目覚めの状態に達することはできないことを悟った。

そこで彼はそれらのヨーガをやめ、ありのままの自分自身と取り組む決心をしたのだ。

それは道を貫きとおす、根源的な本能だ。

この根源的な本能を認めるのは重要なことだ。
それは私たちに自分が、罪深い人間でもなければ、本質的に悪人でもなく、何かを書いた人間でもないことを知らせてくれる。



Q―――単純であり、空間を経験しようとしながら同時に、実際的な生活の状況と取り組むにはどうしたらよいでしょう?


A―――わかるかな? 開かれた空間を経験するためには、大地の、そして形(色)の堅固さも経験しなければならないのだ。

それらは互いに関わり合っている。

開かれた空間をあまりロマンティックにとらえると、罠にはまってしまう。
開かれた空間を、世にもまれな不思議なところとして空想化するのではなく、むしろそれを大地に結びつけてとらえれば、そのような罠にはまることは避けられる。

空間はそれを枠で囲む土の輪郭がなければ経験することはできない。
もし開かれた空間を絵に描こうとするなら、それえは地平線として表現しなければならないだろう。

だから生の日常的な問題、台所の流しの問題につねに戻ってゆくのは必要なことだ。

日常的な行動の単純さと精密さが非常に重要だという理由もそこにある。
もし開かれた空間を知覚したならば、自分の古い慣れきった閉所恐怖を感じるような生活の状況に立ち戻り、その状況を間近にながめ、調べ、そしてその中に溶けこまなければならない。

そうすれば最後には状況の堅苦しさのもつ愚かさが、あなたの心を動かし、あなたはその状況の中に広大な広がりをも見ることができるようになる。



Q―――忍耐強く待つことができないときはどうしたらいいのでしょう?


A―――忍耐ができないというのは、そのプロセスの全体を理解していないからだ。
あらゆる行為はそのひとつひとつにおいて完全なものであることがはっきりわかれば、忍耐できないということはなくなるはずだ。



Q―――おだやかな思考と同時にノイローゼ的な思考も湧いてきます。
自分で培わなければならないのはこのような穏やかな思考なのでしょうか?


A―――瞑想の実践においてはあらゆる思考は同じものだ。

敬虔な思考、美しい思考、信心深い思考、そして穏やかな思考―――これらはみな思考であることに変わりない。

穏やかな思考を培い、いわゆるノイローゼ的な思考を押しのけようとしてはならない。

そこが興味深い点なのだ。

第四の貴い真理であるダルマの道に踏み入るということは、信心深く穏やかな善人になることを意味するのではない。

穏やかになろうとしたり、善人になろうとすることは、依然としてあがくことでありノイローゼの一面に過ぎない。

宗教的な方向に傾いた思考は見張り任、判事であり、一方混乱した世俗的な思考は行動派であり実行家なのだ。

例えば瞑想中に、日常的で家庭的な思考が浮かんでくるとする。
すると同時に見張り人が出てきてこう言うのだ。
「こんなことをしてはいけない。あんなことをしてはいけない。瞑想に戻ってくるのだ」と。

このような敬虔な思考もやはり思考にすぎないのであって、それを培う必要はない。



Q―――人とコミュニケートするときに、話と同様に間を使うことについてもう少し話してくださいますか? そのプロセスとエゴとどういう関係があるのですか?


A―――ふつう、人とコミュニケートするとき、私たちは一種のノイローゼ的なスピードに駆りたてられる。
このスピードに自然さを沁みこんでゆかせなかればならない。
そうすれば、コミュニケートしている相手に向かって自分を押し出したり、強いたりあるいは相手の重荷になったりすることはないだろう。

とくに、何か非常に興味深いことを話しているときには、ただ話すのではなく、相手にとびかかっていくようなことがしばしばある。

自然さはつねにあるにもかかわらず、思考によって曇らされている。

思考の雲の層に切れ目ができさえすれば、それは輝き出る。

手を伸ばしてあの最初の開放を見いだすのだ。
その開放をとおしてこそ根源的な知性は働きはじめる。



Q―――多くの人が苦しみの真理には気づくのですが、次のステップである苦しみの原因の真理、つまり苦しみの源を知ろうとしません。それはなぜでしょうか?


A―――私はその大きな原因はパラノイア(妄想)だと思う。

逃れたいのだ。
苦しみから逃げ出すことだけを考えて、苦しみをインスピレーションの源として見ようとはしないのだ。

苦しみというだけでじゅうぶんな悪という感じがするのに、なぜそれをさらに調べる必要があるのか、というわけだ。

非常な苦しみを経験して、それから逃れられないことに気づいた人々だけが、本当にそれを理解しはじめる。

しかし大部分の人々は、いらだちから脱け出そうとすることに忙しく、また自分で気晴らしを探すことに忙しくて、すでに自分が持っている素材である苦しみを見つめることができない。
それを見つめるのはあまりにも厄介だ。
あまり近くで見つめると、何か恐ろしいことを見いだすのではないか、というのが、パラノイア的な態度だ。

しかし、ゴータマ・ブッダともあろう人物から完全なインスピレーションを受けるためには、あなたは完全に開き、知性と強い好奇心をもっていなければならない。

たとえ、醜いものであろうと、苦痛に満ちたぞっとするようなものであろうと、あらうることを探求したいという気持ちをもっていなかければならない。
このような精密さを求めるこことが非常に大切だ。



Q―――目覚めた心にとっては、動機はどこからやって来るのですか?


A―――霊感による動機は思考を超えたところ、つまり〈善〉と〈悪〉や〈好ましい〉〈好ましくない〉という頭で作りあげた考えを超えたところから来る。

思考を超えたところには、私たちの本来の性質であり基盤である一種の知性がある。
それは直感的で原初的な知性、空間の感覚、そして状況に関わっていくための創造的で開かれた道だ。
このような動機は頭で考えるものではない。それは直感的で精密なものだ。



Q―――物質的な状況をコントロールすることによって精神を鍛えることができるのでしょうか?


A―――人生の状況におけるあなたの行為が何であれ、そこには精神と物質の関わり合いが、つねにある。

しかし、ただ物質という機械だけに頼ることはできない。
つまり、心の外にあるものを操ることによって心の問題を解決しようとしても無理だ。

私たちの社会には、ただそれだけをやろうとしている人々が実に多い。

人々は長い衣をまとって俗世物を捨て、人間としての常識的な習慣まで全部捨てて、非常に
厳しい生活をしようとする。しかし最終的には誰もが自分の混乱した心に取り組まざるをえなくなる。

混乱は心から生まれる。
だから、そのまわりであれこれ試みるのではなく、直接に心と取り組むことから始めなければならないのだ。
現象の世界を操ることによって心の混乱をなんとかしようとしても、そうはいかないだろう。


 生のダンスでは、物質は心を反映し、心は物質に反応する。
両者の間にたえまない交換が行われている。

ひとかたまりの石を握れば、その石の堅固な大地の感覚が手に伝わってくるはずだ。
その石の意思的な性質とどのようにコミュニケートするかを私たちは学ばなければならない。

もし花を持っているとすれば、その花の形や花びらの色が私たちの心の状態にもつながってくる。
外部の世界の象徴的な性質をまったく無視することはできない。


 しかし、はじめに自分自身のノイローゼにまっすぐに向かい合おうとしたように、私たちは直接的に心に向かうべきであり、物をもてあそぶことによって心の問題を避けることができるなどと思ってはならない。

例えば私たちが話し合ってきた例の猿のように、心の状態が非常にアンバランスで完全に混乱した人がいるとする。
彼にブッダのような着物を着せて瞑想の姿勢をとらせてみたところで、彼の心は同じようなきりきり舞いを続けるだけだろう。
しかしのちになって、彼の状態が安定し、単純な猿になることができれば、彼を静かな場所に連れていったり、あるいはどこかにこもらせることは少しは効果があるだろう。



Q―――自分の中に醜さを見つけると、どうしてそれを受け入れたらいいのかわからないのです。それを受け入れるよりは、避けるか変えたいと思うのです。


A―――そう、そういう気持ちを隠す必要はない。
またそれを変える必要もない。もっとよく調べてみなさい。

自分の中に醜さを見るというのは、ただの先入観にすぎない。
あなたがそれを醜いと思うのであって、その感覚はまだ〈善〉と〈悪〉という考えに結びついている。〈善〉や〈悪〉という言葉さえ超えるべきだ。

言葉や、頭で考えるさまざまな概念を乗り越えて、ただあるがままの自分に深く、より深くはいってゆくのだ。

最初の一瞥だけではじゅうぶんではない。
評価したり、言葉や概念を使うことなく、くわしく調べてみなければならない。

自分自身に向かって完全に自分を開くことこそ、世界に向かって自分を開くことだ。
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唯我独存

Author:唯我独存
ヨーガ・瞑想暦20年ほど。レイキマスター。日々この瞬間を大切にすることをモットーとする。気付き、寛ぎ、ハートの三つから、今ここにあることを体得し、それを伝えていこうとしている。

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