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タントラへの道 六道

The Six Realms


私たちが例の猿の話を切り上げたのは、猿が地獄界で家の壁を足で蹴り、爪でかき、体当たりしてそこから脱け出そうとしていたところだった。

地獄界での猿の経験は恐ろしいぞっとするようなものだ。
赤く焼けた鉄の大平原を歩き、鎖につながれ、焼きごてを当てられ、切り裂かれる。
熱い鉄の部屋で火あぶりに会い、大きな科まで釜ゆでにされる。

猿はこうした自分の姿を目のあたりにする。
これらの、そして他のさまざまな地獄の幻覚は、閉所恐怖の状況とそれに対する攻撃から生まれる。
そこには吸いこむ空気も動きまわる余地もないという感覚がある。
こうして囚われの身にある猿は、閉所恐怖の牢獄の壁をくずそうとするだけでなく、たえまなく自分を責めさいなむ苦痛から逃れるために、自分の命を断とうとさえする。

しかし、実際に命を断つこともできず、むしろ自殺の企てが猿の苦痛に拍車をかけるだけだ。
壁をくずすか、あるいは思いのままにしようともがけばもがくほど、壁はより強固になり重苦しく迫ってくる。

ついに疲れはて、猿の攻撃も少しおさまり、壁と戦う代わりにそれに背を向け、壁と自分との関わりを断とうとする。
苦痛から逃れようともがくことなく、苦痛の中に閉じこめられたまま麻痺し、凍りついてしまうのだ。
ここで猿は、人気のない厳しい不毛の地に凍りついたまま住むことに関わるさまざまな拷問を経験する。


 しかし、猿もついには戦いに疲れはてる。
激しかった地獄界の緊張感もややおさまり、猿はリラックスしはじめる。すると突然、より開かれた広がりのある状態への可能性が見えてくる。
猿はその新しい状態に飢えにも似たあこがれをいだく。

これはプレタ・ローカ=餓鬼界だ。
もう自分はだめだという思いから切に救済を求める心だ。

地獄界では戦いに明け暮れ、救済の可能性など考えるいとまもなかった。
ここで猿はもっと快い、ゆったりした状態への強烈な飢えを感じ、それを満たす方法をあれこれと空想する。
はるかかなたに広々とした場所が見えると想像するかもしれない。
しかし近づいてみれば、それは震えあがるほどの広大な砂漠だ。
また遠くに実がなった大きな果樹を見ることもあるだろう。しかし、近づくにつれて、その木には全然実がなっていないか、あるいはそばに見張りの者が立っていることに気づくだけだ。
また緑滴る豊かな谷に飛んでゆくこともあるだろう。
しかしそこも、毒をもつ虫や腐った草のにおいに覆われていることがわかる。

猿はそれぞれの空想が自分を満足させてくれる可能性を垣間見る。
しかし、手を伸ばすとたちまち失望の痛手を負う。
楽しみにもうひと息でたどり着くと思うたびに、そのロマンティックな夢から荒々しくたたき起こされるのだ。

それでも心の飢えに駆りたてられた猿は、くじけるどころか、満ち足りた未来への夢をたえまなく魅せられる。
しかし失望の痛手のひどさから同時に幻想への反発も生まれてくる。


 餓鬼界の苦しみは、自分が欲するものを得られないという苦痛ではない。
苦痛をもたらしているのはむしろ、あくことのない渇望そのものなのだ。
おそらく大量の食料を見つけたとしても、猿はまったく手をつけないか、全部たいらげたうえでもっと欲しがるかのどちらかだ。
なぜなら、猿は心の底で飢えを満たすことよりも、飢えているということに、夢中になっているからだ。
飢えを満たそうとしてはまたすぐに失望する。
その失望が猿を再び飢えさせる。

こうして餓鬼界の飢えと苦しみは、地獄界の責苦や他の世界で猿の頭をいっぱいにするさまざまなものと同じように、猿の心を占め、刺激を与え、かかわりをもつことのできる確固としたものを猿に供給する。
それによって猿は、自分は現に一個の存在としてここにあるという安心感を持つのだ。

猿はその安心感と慰めを捨て、勇気をもって開かれた空間という満ちの世界に乗り出すことを恐れる。
それよりも、どんなに重く苦痛に満ちていようと、自分の住み慣れた牢獄にとどまろうとする。


 しかし、夢を満たそうとして幾度も失敗をくりかえすうちに、猿は憤りと同時にあきらめを感じはじめる。
強烈だった飢えからはなれ、世界に対して型にはまった習慣的な反応を示すほどにリラックスしてくる。
人生のさまざまな体験に対処する他のやりかたを無視し、一連の同じような反応のしかたに頼る。

こうして、自分の世界の限界を定めるのだ。
犬が触れるものすべてを嗅ぎまわり、猫がテレビに興味を示さないのと同じことだ。

これが、畜生界、愚かさの世界だ。
新しい領域にはけっして足を踏み入れようとしないのだ。
よく知りぬいた、安全で、閉じた世界に陶酔し、なじみのゴールに注意を集中し、迷いなく頑固な決意をもってそれを追う。
このような畜生界は豚によって象徴される。
豚は鼻先にやって来るものなら何でもかまわずむさぼり食べる。
右にも左にも目を向けず、ただ一直線に突き進む。ただそうするだけだ。
巨大な泥沼を泳ぎ渡らなければならなくても、また他の障害にぶつかることになっても豚はいっこうにかまわない。
ただかきわけて進み、目の前に現れるものをむさぼり食べるだけだ。


 しかし、ついにこの猿も、楽しみと苦しみを取捨選択できることに気づきはじめる。
猿は前よりもいくらか知的になり、楽を最大に苦を最小にしようとする努力の中で、苦楽の体験を識別しはじめるのだ。
これが人間界、つまり識別力をそなえた熱情の世界だ。

この世界では、猿は立ち止まり、自分が手に入れようとしているものが何であるかを考える。
ものを識別する力がついてきて、他の可能性をも考慮し、より深くものを考えるようになり、それにしたがって、期待と恐怖も大きくなる。
これが人間界、熱情と知力の世界だ。

猿はより知的になる。
ただつかみとるのではなく、ものごとを調べ、その肌ざわりを感じとり、他のものと比較する。
それが欲しいと決めたうえでつかみ、引き寄せ、自分のものにしようとする。

例えば、美しい絹の生地が欲しいとなれば、自分が欲しいものとぴったり同じものがあるかどうかをあちこちの店にいき、布地にさわってみる。
そして自分の考えていたものとぴったり一致するか、それに最も近い布地が見つかれば、それをなでながらこうつぶやく。

「ああこれだ。きれいじゃないか。これなら買っても損はないだろう。」猿は代金を払い、それを家に持ち帰る。
そして友人に店、彼らにもさわってその美しい絹の手ざわりを味わうよう勧める。
人間界で猿がつねに心に思うことは、いかにして楽しむことのできるものを手に入れるかということだ。
「たぶん、熊のぬいぐるみを買っていっしょに寝たらいいだろうな。可愛らしくて抱きしめたくなるようなぬいぐるみ、柔らかくて暖かくて毛のフサフサしたのを・・・・・・」という具合いだ。


 しかし、猿は自分が知的であり、自分の世界をうまく操作して楽しみを手に入れることができたとしても、その楽しみを手中にとらえておくことができないこと、また欲しいものがいつでも手に入るとはかぎらないことに気づく。

病い、老い、そして死をはじめとするあらゆる性質の問題が彼を悩ませる。
苦痛はつねに快楽の伴侶なのだ。


 そこで猿は自然のなりゆきとして、天国、つまり完全に苦しみを取り除き、楽しみに達することの可能性をあれこれ考えはじめる。
猿の考える天国とは、莫大な富か、権力か名声か何であれ、自分がこうあって欲しいと願う世界の姿だ。
そして猿は、それを達成することとそのための競争にすっかり取り憑かれてしまう。
これがアシュラ界、嫉み深い神々の世界だ。

猿は人間界に属する苦楽を超えた理想の状態を夢み、他の誰よりも抜きんでてその状態に達しようとたえまなく努力を続ける。
ある理想に到達しようとたえまなくもがく中で、自分の進歩を測ることと、自分を他人と比較することに心を奪われてしまうのだ。

思考と感情をよりうまくコントロールできるようになり、それによって集中力を養った猿は、人間界にあったときよりもたくみに自分の世界を操作することができるようになる。

しかし自分はつねに最高の存在であり、つねにその状況の主でなければならないという考えが彼の心を満たしていて、それが不安と焦燥を生む。

猿は自分の領土を支配するためにつねに戦い、その成功を阻もうとするあらゆるものに打ち勝たなければならない。自分の世界の王であるためにつねに戦いつづけるのだ。


 勝利の獲得を強く望む心と、敗北への恐怖が、生命感と同時に焦燥感をもたらす。
しばしば最終的な目標を見失いながらも、依然としてより優れた存在であろうとする強い望みに駆りたてられる。
猿は競争と成功に取り憑かれているのだ。
自分の手が届きそうにもない楽しみと興味深い状況を探し出して、それを自分の領土に引き寄せようとする。
目標の達成が困難に見えると、猿は尻ごみし、自分に向かって訓練と不足を責めることになりかねない。
結局、猿は満たされぬ理想と自己非難、そして失敗への恐怖の世界にはまりこんでいるのだ。


 ついに猿も、億万長者か、国の指導者か、それとも著名な芸術家になるという自分の目標を達成するかもしれない。
最初は本当に目標を達成したのかどうかまだ不安があるだろう。

しかし遅かれ早かれ、自分はやり遂げた、自分家の天国にいるのだと気づきはじめる。
やがて猿はリラックスして、好ましくないことは避け、自分の成功の味を味わい、そこに安住しはじめる。
それは催眠にかかった状態、自然な精神集中と言える。
この至福に満ちた状態がデーヴァ・ローカ、神々の世界だ。

比喩として神々の姿は光からなっていると言われる。
神々は世俗の関わりに煩わされなくてもよい。もしセックスをしたければただ見つめ合い、ほほ笑み合うだけで満足する。
何かを食べたければ、あたりの美しい光景に心を向けるだけで満腹する。
それは人間がこうあってほしいと願うユートピアの世界だ。
すべてが簡単に自然にそしてひとりでに起こる。
猿が耳にするものすべて、音楽であり、見るものすべて豊かな色彩をもつ。
そして心にふれるものすべてが快い。

彼は一種の自己催眠の状態、つまり自分をいらだたせるものや、好ましくないものが自分の心にはいってくるのを許さない、自然な精神集中の境地に達したのだ。


 さらに猿は、自分が神々の世界の官能的な悦びと美を超えて、禅定、つまり無形の神々の世界(無色界)の精神集中の状態にはいってゆくこともできるのだと気づく。
この世界は六道が最終的に純化されたものだ。

猿は純粋に精神的な悦び、すべての中で最も微妙で最も堅固なものに達することが可能なこと、そして自分の牢獄の壁を打つう全体を包みこむように思えるまでに広げることができることに気づく。
それによって移り変わりと死を克服し、確固とした自己の存在感をたえずもちつづけることが可能なことにもきづく。

最初、猿は無限の空間と言う考えに安住する。
そして無限の空間を見つめる。
自分はここにあり、空間はむこうにある。
猿はそれを見つめる。

自分が前もって考えたことを世界に押しつけて、無限の空間を作り出し、その体験によって満足を得たのだ。

そして次の段階は無限の意識という考えに心を集中することだ。
ここで猿は無限の空間だけでなく、その空間を見定める知性にも安住する。

こうしてエゴは、その中央司令部でさえ領土がどこまで広がっているのか想像できないほどだ。
エゴは巨大な怪獣になってしまった。


 エゴはその領土があまりに遠くまで広がったため、その境界線を見失いはじめる。
どこに境界線を引こうとしても、領土の一部を外に残してしまいそうに見える。
そして、境界を定めるのは不可能だという結論に達する。

その帝国の大きさは、概念と想像の域を越えている。
すべてを抱合しているために、〈これ〉とか〈あれ〉と定義することができない。

そこでエゴはこれでもないあれでもないという考え、つまりそれ自体を心にいだくことも想像することもできないという考えに行き着く。

しかし、最後にこのエゴ自体を心にいだくことも想像することもできないという考えもまた、ひとつの概念にすぎないということにエゴが気づいたとき、その心の状態も越えられるのだ。

そこでエゴが安住するのは、これでもないのでもなく、あれでもないのでもないという考えだ。

何ものも断定することは不可能だという考えは、エゴを養い、エゴに誇りとよりどころを与える。
それは、エゴがそれ自身を持続してゆくことに利用されるのだ。

これが、混乱しサンサーラ(輪廻)をさまよう心が到達しうる、最も高いレベルの精神集中と成果だ。


 猿はどうにかして成し遂げられることの最高のレベルに達した。
しかし依然として二元的な論理を超えてはいない。
何かを成し遂げられるという考え自体が、その論理に依存しているのだ。

猿の家の壁は、いまだに堅固で微妙に〈他〉としての性格を帯びている。
猿は自分の主観の投影と自分とを表面的に同一と見なすことによって一時的な調和と成和そして至福に達したかもしれないが、しかしすべてが微妙に固定され、閉ざされた世界でのことなのだ。

猿自信が壁と同じように硬直し、エゴ境(フッド)という状態に達したにすぎない。
その心は依然として自己の安全を守り、自己の力を高めることにとらわれ、自分自身と世界に冠する固定した観念や概念にはまりこんでいる。
そして五蘊の幻覚を本気で信じているのだ。

意識の状態が、集中すなわち〈他〉に心をとどめることにもとづいているかぎり、猿はつねに自分の成し遂げたことを点検し、維持しなければならない。

「ここ天上界にいることはなんという心の救いだ。ついにやった。本当にそれを手に入れたのだ。だが待てよ。本当に手に入れたんだろうか? いや、大丈夫だ。たしかにここにある。やったんだ。この俺がやったんだ」。

こうして猿は自分が涅槃(ニルヴァーナ)に達したと思い込む。
しかし実際は一時的にエゴ境(フッド)に達したにすぎないのだ。


 遅かれ早かれ、猿はその心の集中を失い、パニックに襲われる。
自分がおびえ、混乱し、そして傷つきやすいと感じた猿は、嫉み深い神々の世界へ落ちこんでゆく。

しかし、嫉み深い神々の世界の不安と羨望が猿を呑みこんでしまい、猿の頭は、何が間違っ
ていたのかを見つけ出すことでいっぱいになる。

こうして猿は人間界に逆戻り。
しかし人間界もまた苦しみに満ちている。
何が起こっているのか、何が間違っていたのかを見つけようとたえまなく考えつづけることによって苦しみと混乱はますます大きくなるだけだ。

そこで猿は人間の知力がもつためらいと批判的なものの見方から逃れて畜生界に跳びこむ。
そこで、自分が慣れた限られた方法に従うことで身の安全をはかり、それを脅かすような情報には耳も口もふさぎ、自分のまわりにあることをまったく無視して、ただこつこつと動きまわる。

それでも周囲からの情報はその平穏を破ってはいってくる。
そして何か他のものを求める飢えが次第に湧いてくる。

天上界へのノスタルジアが急に強まり、そこに戻りたいというあがきはますます激しくなる。
猿は天上界の悦びを味わうことを夢みる。
しかし、自分の飢え満たす幻想によって得られる満足はあっけなく消え去り、猿はふたたび飢えにさいなまれる自分に気づく。
飢餓感は果てしなく続き、ついに猿はくりかえし戻ってくる飢えと欲求不満に呑みこまれ、自分の欲求を満たそうとしてますます激しくあがきはじめる。

猿の攻撃のあまりの激しさに、彼をとりまく環境もそれに匹敵する激しさで反応し、熱気に包まれた閉所恐怖の空気が広がってゆく。
猿は自分がふたたび地獄にいることに気づく。

これで地獄から天国へ天国から地獄へのサイクルを完全に一巡したことになる。
この戦い、達成、幻滅そして苦痛へと永久に続くサイクルが、サンサーラの輪、つまり二元的な固定化から起こる、カルマの連鎖反応なのだ。


 どうしたら猿は、この果てしなく続くように見える牢獄の、切れめのない輪から脱け出すことができるのだろうか?

 このカルマの連鎖、サンサーラの輪を破る可能性が生まれるのは人間界に他ならない。

人間界の知力、そして行為を識別する可能性によって、この戦いの全過程に疑問をいだく余裕が生まれる。

そこにはつねに何かとつながりをもち、何かを手にしなければならないとう強迫観念と、自分が経験する世界の確かさに対して、猿が疑問をいだく可能性があるのだ。

そうするために猿に必要なのは、大きな視野をもつ開いた目と、超越した知識を育てることだ。
大きな視野で目を開く性質を見ることができるようになる。

ただ単純にもがくのでなく、もがくことの内容を真に体験し、その激しさを知りはじめるのだ。

猿は幻覚を笑い抜ける。

自分が壁と戦わなければ、壁は冷淡でも固くもなく、実は暖かく柔らかで、それを通り抜けることもできるのだと気づく。

五つの窓から飛び降りる必要も壁をくずす必要もなく、またそこにとどまる必要さえないのだと猿は気づく。
壁を通り抜けてどこにでも行くことができるのだ。

慈悲、カルナーが〈柔軟な高貴な心〉と呼ばれるのはこのためだ。
慈悲とは柔らかで暖かい開かれたコミュニケーションの過程のことだ。


 超越した知恵のその澄みきった精密さは、壁を違った視点から見る可能性を猿に与える。

猿は、世界はけっして自分の外にあったのではないこと、そして問題を作り出していたのは自分自身の二元的な態度、つまり〈自己〉と〈他〉を切り離していたことだと気づきはじめる。

自分自身が壁を強固なものにし、何かを強く求めることによって自分を牢獄に閉じこめていた事実を理解しはじめる。

そこで猿は、牢獄から抜け出すには、脱走しようという大望を捨てて壁をあるがままに受け入れなければならないことに気づきはじめるのだ。
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コメント

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とても参考になります。ありがとうございますv-237

仏教って科学的ですよね!
脳科学とか心理学的というか
メルヘンが一切ないので私は好きです。
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プロフィール

唯我独存

Author:唯我独存
ヨーガ・瞑想暦20年ほど。レイキマスター。日々この瞬間を大切にすることをモットーとする。気付き、寛ぎ、ハートの三つから、今ここにあることを体得し、それを伝えていこうとしている。

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