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タントラへの道 エゴの発達 後半

これがエゴの全貌。
ここでやっと私たちは仏教の心理学と瞑想の探求に到達したことになる。


 仏教文学に、このエゴの誕生と発達の全過程を表すために使われる広く知られたたとえ話がある。
空き家に閉じこめられた猿の話だ。

その家には五感にあたる五つの窓がある。
猿は好奇心が強く、五つの窓から落ち着きなく顔を突き出し、上に下へとくりかえし跳びはねている。

猿は空き家に捕らえられている。
そこはかつて猿が跳ねまわり、木にぶらさがって遊んだジャングルでもなく、枝葉が風にそよぐ木立ちでもない、がっしりした家なのだ。
すべてがまったく固定されている。

実は、ジャングルそのものがこのがっしりした家、つまり牢獄に変わってしまったのだ。
この好奇心に満ちた猿は、木の枝に腰かけて遊ぶ代わりに、固定した世界に閉じこめられてしまったのだ。
ちょうど、ダイナミックで美しい滝のように流れるものが突然氷結してしまったように―――。

凍った色彩と凍ったエネルギーで創られたこの凍りついた家には、動きがまったくない。
この時点で時が〈過去〉〈現在〉〈未来〉として現れはじめるように思われる。
ものごとの流れが、時の固定した形、つまり時間という固定観念になるのだ。


 好奇心の強い猿は、無意識状態から目を覚ます。
しかし完全に目覚めるわけではない。猿は目覚め、自分が壁が五つあるだけの、がっしりした、閉所恐怖を催させる家に閉じこめられていることに気づく。
動物園の檻に閉じこめられたように退屈し、昇り降りして鉄柵を調べようとする。

捕えられたということ自体は特別重要ではない。
しかし、捕われたという思いに心を奪われることによって、その思いは千倍にも拡大される。

それに心を奪われるならば、閉所恐怖の感覚は、ますます生々しく強烈なものとなる。
自分が囚われの身であることについて、あれこれ詮索を始めるからだ。

実際、心を奪われることが、囚われの身のままでいなかればならない理由のひとつだ。
猿は心を奪われることに捕らえられているのだ。

もちろんはじめに突然の意識喪失があり、それが固定した世界に対する猿の信念を確かなものにした。
しかし、それが固定していることを当然のこととして受け取った猿は、それに巻きこまれ、罠にかかってしまったのだ。


 好奇心の強い猿も、つねに詮索を続けるわけにはいかない。猿の心は動揺し、おもしろくもないことのくりかえしに飽き飽きし、次にはノイローゼになってしまう。
慰めに飢えた猿は、自分を取り囲む壁の手ざわりを感じ、それに楽しみを見いだそうとする。硬そうに見える壁が、本当に硬いことを確かめようとする。

そして、その空間がたしかに固定していることに安心した猿は、それをつかみとるか、はねつけるかまたは無視するかして、それに関わりはじめる。

空間を自分自身の体験、発見、理解として所有するために、つかみとろうとするならば、それは欲求だ。

その空間を牢獄と感じ、壁を叩き床を蹴り、そこから脱け出す闘いの度を増していくならば、それは憎悪だ。
憎悪とは、ただ破壊的な心理だけを指すのではない。
むしろそれは、閉所恐怖から自分を守ろうとする防御の感覚なのだ。
猿は必ずしも、自分に向かってくる敵がいると感じるわけではない。
ただ牢獄から逃れたいだけだ。


 ついに猿は、自分が囚われの身であることも、自分の環境にも何らかの魅力があるはずであることも無視しようとする。
彼は、耳をふさぎ口を閉じ、自分の周囲に何が起こっていることに対して無関心で怠惰になる。
これを愚かさと呼ぶ。


 少し前に話を戻せば、猿は無意識の状態から目覚めた瞬間にこの家で生まれたのだとも言える。
猿は自分がこの家にどうやってたどり着いたのかを知らない。
自分はずっとそこにいるのだと思っている。
空間を壁に固定したのは自分自身だということを忘れてしまったのだ。

そして猿は壁の肌触りを感じる。
これが第二スカンダ(受蘊)=感覚。

それから猿は第三スカンダ=知覚衝動の欲求、憎悪、愚かさによってこの家と関わりをもつ。
「これは窓だ。この一隅は居心地がよい。あの壁は恐ろしい悪い奴だ。」という具合だ。

それを欲するか嫌うか、または無関心であるかにしたがって、自分の家や自分の世界に名前をつけ、分類、評価するために使う概念的な骨組みを作りあげる。
これが第四スカンダ=概念だ。


 第四スカンダによる猿の内的展開はそれなりに論理的で、予想することもできるものだ。
しかし、第五スカンダ=意識に入ると、この展開のパターンはくずれはじめる。
思考のパターンが不規則になり、それを予測することができなくなる。
猿は幻覚や夢を見はじめる。


 ここで言う、〈幻覚〉や〈夢〉とは、ものごとやできごとに必ずしもそれにそなわっていない価値をつけ加えることを意味する。

私たちは、ものごとやできごとのありようや、あるべき姿について一定の見解をもっている。
私たちはそこにあるものに、それに対する自分自身の解釈を投影する―――これが主観の投影(プロジェクション)だ。

こうして私たちは自分自身で作りあげた世界、つまり対立する価値観やものの見方に満ちた世界に完全にはまりこんでしまう。

この意味で言う〈幻覚〉は、ものごとやできごとを誤って解釈すること、つまり現象的な世界から、そこにそなわっていない意味を読みとることだ。


 第五スカンダの段階で、猿はこれを体験しはじめる。
外に抜け出そうとして失敗した猿は、落胆し、どうしようもなく、やがて完全に気が狂いはじめる。

葛藤につかれきったあげく、猿はリラックスすること、とりとめのない思いや幻覚に身をゆだねることに心を引かれる。
それが六つの境界、または六道の始まりだ。

仏教では、伝統的に、地獄に住むもの、天上界、人間界、地区紹介、その他の心理的な状態についての話がひんぱんに語られる。
それらはさまざまな種類の投影、つまり私たちが自分自身で作り出した夢の世界なのだ。


 どうもがいてもそこから脱け出せず、閉所恐怖と苦悩の中にあった猿は、何かよいこと、すばらしいこと、自分をひきつけるものを望みはじめる。

その猿が見る最初の幻想の世界は、デーヴァ・ローカ=神々の世界、天上界だ。
そこは、美しくきらめく甘美なもので満ちあふれている。
猿が夢見るのは、家を脱け出して草木の生いしげった野原を散策し、熟れた果実を口にし、枝に腰かけたりぶらさがったりする、自由で安らかな生活だ。


 それから猿は、アシュラ(阿修羅)界、嫉妬深い神々の世界の幻想に入ってゆく。
天上界の夢を経験した猿は、自分の無常の喜びと幸福を守り、保ちつづけたいと思う。
そして誰かが自分の宝物を盗むのではないかという心配からパラノイア(妄想)に陥り、そこからねたみの気持ちが起こる。

猿にはプライドがある。
自分で作りあげた天上界で悦楽を味わった、そのプライドが猿をアシュラ界の嫉みへと導いてゆくのだ。


 猿はまた、これらの体験には世俗的な性格があることにも気づく。
ただプライドと嫉みの間を往復する代わりに、〈人間界〉つまり世俗の世界に慰めとくつろぎを感じ始めるのだ。
それはただ、世俗的なやりかたで、あたりまえの生活を営み、平凡なことをやる世界。
つまり〈人間界〉だ。


 しかしそこでまた猿は、何か冴えないもの、わだかまっているものを感じはじめる。
なぜなら天上界、アシュラ界そして人間界へと進み、幻想が次第に固定したものになるにつれて、その過程のすべてが、どちらかといえば重苦しく愚かなことに思えてくるからだ。
その時点で、猿は畜生界に生まれる。

プライドやねたみを享楽するよりも、そのあたりを這いまわり、牛や犬のように鳴いたり吠えたりしている方がましだと考えるのだ。
それは動物の単純さだ。


 その後、このプロセスは強烈なものになる。
ここより下には落ちたくないという切望から、猿は耐え難い飢餓感に襲われはじめる。
猿は天上界の悦楽に戻りたいと願う。
そのために飢えと渇き、つまりかつて手中におさめた憶えのあるものに対する、すさまじいノスタルジアを感じるのだ。
これが飢えた霊魂の世界、餓鬼界だ。


 やがて、猿は突然確信を失い、自分自身と自分の世界に疑いをいだき、凶暴に反応しはじめる。
すべてが恐ろしい悪夢だ。

猿は、このような悪夢が現実ではありえないことに気づき、自分がこの恐怖のすべてを作り出したことに対して自己嫌悪に陥りはじめる。
これが六道の最後の世界、地獄界の夢だ。


 
 六道の過程すべてを通じて、猿は取り留めのない思考、観念、幻想そしてあらゆるパターンを経験した。
五蘊の段階までは、その心理の展開の過程は規則正しく、それを予想することもできた。
その展開は第一スカンダから、屋根に瓦を並べるような整然としたパターンで次々と起こっていた。

しかし、いまや猿の心の状態は非常にゆがめられ、混乱してしまった。
頭のジグソー・パズルが突然爆発したように、思考のパターンが不規則で予測できないものになったのだ。

自分の心がこのような状態になったとき、私たちは教えを求め、瞑想の修行をしようという気持ちをもつものだ。
ここに至って、私たちは修行を始めざるをえなくなる。



 解脱や自由をとく前に、この道の基盤であるエゴや私たちの混乱について話し合うことは非常に重要だと思う。

解脱の体験だけを話し合うのは、非常な危険を伴うことにもなる。

だからこそ私たちはエゴの発達を考察することから始めるのだ。

このような話は、ことさら魅力のあるものではないだろうが、私たちは事実に直面すべきだ。

それこそが道に従って進む過程のように思われる。
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唯我独存

Author:唯我独存
ヨーガ・瞑想暦20年ほど。レイキマスター。日々この瞬間を大切にすることをモットーとする。気付き、寛ぎ、ハートの三つから、今ここにあることを体得し、それを伝えていこうとしている。

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