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タントラへの道 開かれた道 Q&A

Q―――菩薩であることは人を助けることを意味し、人はそれぞれ特定の要素を持っているのではないかと思うのです。

ということは、菩薩が特定の行為を要求されていることだと思うのです。
しかし、完全に開かれていることと特定の行為をすることとは、どのように調和するのでしょうか?


A―――開かれていることとは、無責任で魂の抜け殻になることではない。
それはそれぞれの状況の中で、求められている行為が何であろうとそれをすることができる自由さのことだ。

あなたは状況から何かを得ることを臨んではいない。
だから状況に本当に適ったやりかたで自由に行動することができる。

また同時に人々があなたから何かを求めているとすれば、それは彼らの問題だ。
あなたは彼らの機嫌をとろうとする必要はない。
開くことは〈あるがまま〉でいることだ。
あなたが気持ちよくあるがままの自分でいることができれば、開かれたコミュニケーションのできる環境はひとりでに生まれてくる。

先に話した月と水の入った器の関係と同じことだ。
そこに器があれば、それは必ずあなたの〈月のような本質〉を映し出す。
器がなければ影は映らない。
器が半分欠けていれば半分欠けた月が映る。
それは器次第だ。

月であるあなたはただそこに在る。
開いている。
器がその影を映すこともあれば映さないこともある。
あなたはそれを気にかけもせず気にかけないこともない。
あなたはただそこに在る。

状況は自然に展開する。
自分を特定の役割や特定の環境に押し込める必要はない。
私たちの多くが長い間それをやろうとしてきたと思う。

自分で自分の限界を作り、狭く限られた一連の環境に自分を押しこめてきた。
そしてひとつのところに注意を集中することに大変なエネルギーを使っているので、自分がそれ以外の大きな領域を見すごしていることに気づくと驚いてしまうのだ。



Q―――慈悲をもって行動し、同時に必要なやるべきことをきちんとすることはできるのでしょうか?


A―――あなたの中にスピードと攻撃性がなければ、その中で動きまわりのものごとをかたづける空間が生まれる。
そして必要なやるべき事がより明確に見えるようになる。
あなたはもっと有能になり、あなたの仕事はより正確になる。



Q―――リンポチェ、あなたはたしかに開かれた道と内に向かう道とを区別されたと思うのですが、内向と外向との違いが何であるのかくわしく説明してください。


A―――あなたが使っている〈内向的〉という言葉はつねに自分自身をふりかえり、自分がじゅうぶんに価値があり、働きがあり、体裁の良い人間であるかどうかを考えるという意味でのあがきを指しているように思われる。
こうしたアプローチには度の過ぎた〈自分との取り組み〉、つまり度の過ぎた内向的な心の集中が見られる。

それに対して開かれた道は真にあるがままと取り組むことであり、何かがうまくいかないのではないかとか、ものごとが失敗に終わるのではないかというパラノイアを一切捨てることだ。
私たちは純粋にあるがままの生に対処するのだ。



Q―――暖かみのある態度はどこから生まれるのでしょうか?


A―――攻撃性の不在から生まれる。


Q―――しかしそれはゴールなのでしょう?


A―――同時に道でもあり橋でもある。
橋の上には誰も住まない。
それは渡ってゆくものだ。

瞑想の経験では攻撃性の不在らしい状態が自然に起こってくるのが感じられる。
それがダルマの定義だ。
ダルマは〈激情を離れること〉あるいは〈激情のないことと〉定義されているが、激情のないこととは攻撃性の不在を意味する。

もしあなたが激情をもつならば、自分の欲望をすばやく満足させるものを得たいと望む。
自分を満足させようとする欲望がなければ、攻撃性もスピードも生まれてこない。

そこでもしあなたが瞑想の実践の単純さを本当に自分のものにすることができるならば、攻撃性はひとりでになくなるものだ。
達成しようとするあせりがなければ、リラックスすることができる。
そしてリラックスする余裕ができれば、あなたは自分自身と友達になることができる。

そうすれば思考であれ感情であれ、あなたの心に起こるあらゆることが、たえまなく自分自身と友達になるための行為を強調するようになる。

異なった表現を用いるならば、慈悲とは瞑想修行が含んでいる大地のような性質であり、素朴で堅固な雰囲気なのだ。
慈悲の持つ暖かみが伝えるのは、急ぐことなくそれぞれの状況とあるがままに関わるというメッセージだ。

アメリカインディアンの〈坐る雄牛〉という名前はこの形容にぴったりだ。
〈坐る雄牛〉は非常に確かで実質的な内用をもっている。
あなたは本当に確実に在り、安らいでいる。



Q―――あなたは慈悲とは育ってゆくものであり、それを養う必要はないという意味のことを言われたように思われますが―――。


A―――それはそれ自身で発展し、育ち、そして発行する。
それはなんらの努力も必要としない。



Q―――それは死ぬことがあるでしょうか?


A―――死ぬことはないように思われる。
シャーンティデーヴァが言ったように、慈悲を含まないあらゆる行為は枯れ木を植えるようなものであり、慈悲に結びついたあらゆる行為は、生きた木を植えるのに似ている。

それは終わることなく育ちつづけて枯れることがない。
一見枯れたように見えても、必ず後に種が残り、そこからまた新しい木が生えてくる。
慈悲とは生きているものだ。
それは絶えることなく育っていく。



Q―――誰かと関係をもちはじめたときには、ある種の暖かみが生まれます。
しかしなぜかそのエネルギーが私たちを呑みこみ、とりこにしてしまい、身動きする余裕も空間も感じられなくなってしまうのです。


A―――もしその暖かみに、裏がなく、時運の安全保障のためというのでないならば、それはそれ自体を支えるものであり、根本的に健康なものだ。
ヨーグルトを作るとき、必要以上に温度を上げたり培養菌を入れると、うまくできない。
正しい温度を保ち、後は放っておきさえすれば、おいしいヨーグルトができるのだ。



Q―――どうしたら放っておくべきときが来たことがわかるのでしょう?


A―――たえまなく自分を管理しようとすることはない。
自分に対するコントロールを維持しようとするよりも、それを捨てるべきだ。
自分自身を調べようとするよりも、それを信じるべきだ。
自分を調べようとすればするほど、状況の自然なたわむれや展開を阻む可能性が大きくなる。
たとえ自分のしていることが危なっかしく感じられ、何もかもが破綻し、ゆがめられてしまいそうな兆しが見えたとしても、あなたがそれについて心配することはない。



Q―――心配せざるをえないような状況を、誰かが作り出したらどうしますか?


A―――心配することは何の役にも立たない。
それは事態を悪化させるだけだ。



Q―――ここで話し合われているプロセスには、ある種の大胆さが要求されているように思われるのですが―――。


A―――確かにそのとおりだ。その大胆さとは肯定的な考え方であり、豊かな精神性のことだ。


Q―――必要な暴力をふるうことが究極的には相手のためになると感じられたらどうしますか?


A―――やりなさい。


Q―――しかし私たちが本当の慈悲と智慧をまだもっていないとしたら?


A―――自分の智慧を疑ったり心配することはない。
求められることをただやればよいのだ。
あなたが直面している状況そのものの中に智慧と見なされてもよいほどの深みがあるのだ。

あなたはそれ以上情報の二次的な源を必要としない。
自分の行為の補強主指針も必要としない。
状況が自然にあなたの行為を補強してくれる。

もし荒々しいやりかたでものごとを処理しなければならないときは、状況があなたのそのような反応を求めているのだから、あなたはただそうする他はない。
それは荒々しさを押し付けることではない。
あなたはただ状況の道具として働くのだ。



Q―――慈悲を感じないときは、橋のために何をしたらよいのでしょう?


A―――慈悲を感じなくてもよいのだ。
情熱的な慈悲と本当の慈悲の違いはそこにある。
慈悲を必ずしも感じるとはかぎらない。
あなた自身が慈悲そのものなのだ。
もし開いているならば、あなたには甘えが一切ない。
したがってそこに慈悲が生まれてくるのがふつうだ。



Q―――慈悲の橋はつねに維持されていなければならないのでしょうか?


A―――私はそうは思わない。
それは、維持されることよりもむしろ認められることを必要とする。
そこに橋があることを認めること。
それが豊かな精神性だ。



Q―――もし誰かを恐れていて、おそらくそれ相応の理由があるときはどうしたらよいのでしょう?私の場合、それは慈悲を破壊してしまいます。


Q―――慈悲とは、人の助けや世話を必要とする人々を見くだす心ではない。

それはあらゆることに通じる基本的で有機的な思考、肯定的な思考のことだ。

人を恐れることは、本来あるがままの自分の姿についての半信半疑の気持ちを生み出す。
だからこそあなたはその状況や人を恐れるのだ。

恐れは半信半疑の状態から生まれる。
自分がその恐ろしい状況をどのように扱うべきか知っていれば恐れはなくなる。

恐れは狼狽と半信半疑の当惑から生まれる。
そして半信半疑は、自分を脅かしているその不可解な問題にぶつかってゆくには自分はあまりにも頼りないという感覚、つまり自分自身に対する不信感につながっている。

もしあなたが慈悲をもって自分自身と関わっているならば、何の恐れももたないはずだ。
なぜならあなたには自分のしていることがよくわかっているはずだからだ。

自分のしていることがはっきりわかっているならば、あなたの投影もまた整然としたものにあまり、ある意味で前もってそれを予想することができるようになる。
そうすればプラジュニャーつまりそれぞれの状況にどのように関わってゆくかという知恵が発達してゆく。



Q―――いま言われた投影とは何を意味するのでしょう?


A―――投影とは鏡に映るあなた自身の姿だ。
もし自分自身に対して半信半疑であれば世界はそれを繁栄し不確かさがあなたに返ってくる。
その反応があなたにつきまとい、あなたを脅かす。
あなたの不確かさがあなたにつきまとう。
しかしそれはただ鏡に映った影にすぎない。



Q―――自分に対して慈悲をもっていれば、自分のしていることがよくわかるというのはどういう意味なのでしょう?


A―――瞑想のこれら二つの相はいつも同時に現われる。
自分自身に対して自己を開き、自分自身に対して肯定的な態度をもっているならば、自分のしていることがはっきりわかる。
そのときあなた自身にとって自分が神秘な存在ではなくなるからだ。

これがジュニャーナ= ※2 智慧、自然に在る意識的な智慧、だ。

あなたは自分が自然に存在することを知る。自分のありのままの姿を知る。
だから同時に自分自身を信頼することもできるのだ。



Q―――もし本当に自分自身と友達になろうとするならば、誤りを犯すことをつねに恐れるようなことはなくなるのでしょうか?


A―――そのとおり。

智慧に当たるチベット語はイェシェで、それは〈根源的な知性〉を意味する。

あなたはすべてが始まる最初からあなた自身である。

それは〈自分自身に対する始まりのない信頼〉とでも呼ぶことができるだろう。
始まりを見いだす必要はまったくない。

それはもともとある状態なのだから、論理的に始まりを見いだそうとすることは意味がない。
それはすでにある。
それは始まりをもたない。
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唯我独存

Author:唯我独存
ヨーガ・瞑想暦20年ほど。レイキマスター。日々この瞬間を大切にすることをモットーとする。気付き、寛ぎ、ハートの三つから、今ここにあることを体得し、それを伝えていこうとしている。

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