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タントラへの道 開かれた道2

私はこの問題を解くのはひとりひとりの課題だと思う。
私は悟りへの道をガイドするわけにはいかない。

私は何ものをも保証しない。
私はただこのようなアプローチはどこかが間違っていることを指摘しているだけだ。

 おそらくあなた方自身、このアプローチには誤りがあるような気がしてグルにアドバイスを求めるかもしれない。

 「この道が私にとって正しい道であることは固く信じています。それに議論の余地はありません。しかし何かが間違っているらしいのです。一生懸命自分を鍛えてきたのに、いまだに次から次へ折り重なってゆく敗北の連鎖反応に巻き込まれているのです。」

「よろしい。それで?」

「そのことがすっかり私の心をふさいでいるので、他のことが何もできないのです。」

「そうか。リラックスしなさい。」

「どうしたらよいのでしょう? 何か指示していただけませんか?」

「残念ながら君の問題にインスタントな解答を与えることができない。まず君のどこが本当に悪いのかを知らなければならない。それがプロのやりかたというものだ。テレビが故障したらやたらに新しい真空管を入れたりはしないだろう。まず機械全体を調べる。どの部分が機能していないのか?どの真空管がこわれているのかと。」

「いや、別にはっきりどこかが悪いというわけではないのです。ところが肝心の問題に触れようとするやいなやめちゃめちゃになってしまってカチリとも言わないのです。のそうとして何をやってみても効き目がない。ヒューズが飛んでしまったらしいのです。」

「それは大問題だ。」

「あなたや他のグルが言われるように、なんとか自分で道を切り開こうとたえまなく試みるのですが、少しもラリがあかないのです。つねにものごとが反対の方向に行ってしまうのです。アーサナ(ヨーガの体位)やプラーナヤーマ(ヨーガの呼吸法)や座禅もやりはじめ、できるだけ正しくやろうとするのですが、なじみの問題がくりかえしくりかえし戻ってくるのです。これらの教えや方法については心から信仰しているのです。本当です。師たちをあいしているし、教えも愛しています。本当に。心から信じています。私の歩いている道の先輩たちの多くがすばらしく返信したことも知っています。しかし、いったいわたしのどこが悪いのでしょう?おそらく悪いカルマをもっているか、もともとできそこないだったのでしょうね。必要ならどんな犠牲も払いましょう。餓死したってかまわない。どんな誓願もあえてします。とにかくそれを得たい。本当にそこに達したいのです。あなたが持っている聖典に何か私のような人間にぴったりな処方は載っていないでしょうか?何か私のためになる薬はないでしょうか?何か犠牲(いけにえ)を捧げるべきでしょうか?」

「さあどうかな? とにかく明日また会いに来なさい。おそらく何かの方法がみつかるだろう。」

精神の友が言いそうなことはそんなところだ。

「明日か週末にでもまた来なさい。また話そう。しかし心配することはない。」


 そこであなたはまた出かけてゆく。
そして彼に会う。
あなたは自分が抱えている問題に対する解答を彼が特別あなたのために見つけてくれたことを期待している。

するとまた彼がたずねる。

 「元気かな?調子はどうだい?」

「なんですって? 私はあなたの解答だけを待っていたのです。私がどんな状態か、ご存知のはずです。もう惨憺たるものです!」

 あなたはとてもいらいらしてくる。

無理もないことだ。
いつものようにまた何も起こらない。
そうしてくりかえし彼のところに足を運ぶうちに何週間かが過ぎる。

あなたは失望し、結局何も起こらないのではという疑いと、たぶん今度こそ、たぶん四週間目か五週間目、いや七週間目にはきっと何かが起こる、七という数字は意味深い神秘の数なのだから―――というひそかな期待のくりかえしが続く。

いたずらに時だけが過ぎ、完全な絶望がやって来る。
他の解答がないものか調べてみようという気持ちになる。
とあなたは考える。

「他の人に会いに行けばきっと解答が得られるだろう」とあなたは考える。

「あるいは家に帰って家族や友人たちといっしょに暮らしたほうがいいのかもしれない。自分はこんな状況にはついていけない。彼と自分の間には何のコミュニケーションもない。彼の方からコミュニケーションを開いてくれるはずなのに、まったくがっかりだ。何も起こりはしないんだ」と言いながらあなたはただ坐って待つしかない。

会うたびに枯れの言おうとすることはすぐにわかる。
「戻って瞑想しなさい」か、「元気かい? お茶でも飲みなさい」だ。
いつも同じことのくりかえしなのだ。


 何が間違っているのだろう? 本当は何も間違ってはいない―――絶対に。

あなたの精神の友について言うならば、彼とあなたがいる状況は実に美しい。

しかしあなたの方で何かを待っている状態、何かを得ようとしている状態は、それ自体が間違いなのだ。

なぜなら待っているときにはあなたの意識は外に向かわずに内に向かい、自分自身への集中が重くなりすぎるからだ。

あなたは自分自身に意識を集中する傾向に深く陥り、自分は〈たいしたこと〉をやっているのだという気持ちがあなたの心に宿る。

これが間違いなのだ。


 ここでナロパと、彼の師である偉大なインドの聖者ティロパの話をしてみよう。
ティロパはグルとして弟子のティロパと十二年間をともに暮らした。

その間二人はいま私が話していた師と弟子のようなことをしていたのだ。

「もしどこかの台所からスープを一杯失敬してきたら、教えを授けてやろう、多分な」とティロパが言う。

そこでナロパはどこかの家の台所に忍び込み、料理人やその家の主人に見つかって袋叩きにされたあげく、それでもなんとか一杯のスープを持ち出すことに成功する。

ナロパは血まみれになりながらも意気揚々と帰ってきて、ティロパにスープを差し出す。

それを飲み終えたティロパは「もういっぱい取ってきてくれ」と言う。

そこでナロパはもう一度スープを取りに台所に戻り、今度は半死半生の状態で帰ってくる。

ナロパがあえてこのようなことをするのも、ティロパから教えを受けたい一心からだ。

しかし、ティロパはスープを飲み終えると、「いやありがとう。さてどこかへ出かけるとしよう」という調子なのだ。

こんなことがたびたびくりかえされ、ナロパの忍耐はその頂点に達した。

その瞬間を見逃すことなく、ティロパは吐いていたサンダルを脱ぐなり、それでナロパの横面をはりとばしたのだ。

それがアビシェーカ(入門)だった。
それは最高の、最も深遠な、最も偉大な―――

もっと多くの形容詞を使うこともできるアビシェーカだったのだ。

大の男ナロパがサンダルでそのお子面をはりとばされた結果、突然彼には何もすることがなくなってしまったのだ。


 しかし、私たちはこのような伝達の情景に心を奪われてしまってはいけない。
開かれた道、開かれた方法にすべてがかかっているのだ。

すでに私たちは自己欺瞞を徹底的に調べ、経験した。
亀が甲羅を運ぶように重い荷物を運んできた。

非常な攻撃性とスピードで〈あるところ〉に達しようとすることで、たえず自分をこの甲羅の下に閉じ込めようとしてきた。

私たちは、このスピードと攻撃性のすべて、そしてつねに何かを求める性質を捨てなければならない。

自分自身に対する慈悲を培わなければならない。

そこから開かれた道が始まる。
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唯我独存

Author:唯我独存
ヨーガ・瞑想暦20年ほど。レイキマスター。日々この瞬間を大切にすることをモットーとする。気付き、寛ぎ、ハートの三つから、今ここにあることを体得し、それを伝えていこうとしている。

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