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タントラへの道 厳しい道 4 Q&A前半

▼ Q&A

Q―――自分をさらけ出すということは自然に起こるのでしょうか? それともさらけ出し、開く方法というものがあるのでしょうか?


A―――自分をさらけ出そうと本当に心に決めさえしたら、故意に開こうとしないこと。
そうした方が開くプロセスがはっきりと見えてくる。
それはあなたがやらなければならないのではなく、自然に起こる行為だと言うことができる。

帰依について話したとき、私はひとたび〈精神の友〉にすべてをさらけ出したならば、後は何もすることがないと言った。

私たちはしばしば裸の状況の真ん中に立っている自分を見いだす。
何か体を覆うものがあったらと切実に思う。
そのような恥かしい状況は私たちの人生につねに起こってくる。



Q―――〈精神の友〉をもたなければ自分をさらけ出すことはできないのでしょうか? それとも人生の状況にただ自分を開くことはできるのでしょうか?


A―――私はあなたがさらけ出すのを見ている人が必要だと思う。
そうすればあなたにとって自分の行為がよりリアルなものになる。
誰もいない部屋で着物を脱ぐのは容易なことだ。
しかし、多くの人が見ているところで裸になるのはむずかしい。



Q―――苦行をしたり、訓練を習得することが、なぜ〈本当の〉厳しい道ではないのか私にはわかりません。


A―――本当にそうでなくても、自分は厳しい道を歩いているのだと思い込むことによって、自分を欺くことができる。

英雄の芝居を演じることに似ている。
そのような英雄主義の経験に結びついているのは〈楽な道〉であり、厳しい道はもっと個人的な内面の体験だ。

英雄主義を通り抜けた後に真に厳しい道がある。
それを発見するのはショッキングなことだ。



O―――本当に厳しい道を歩み続けようとするならば、まず英雄主義の道をとり、それをやり遂げることが必要なのでしょうか?


A―――そうは思わない。
私が指摘しているのはそのことだ。
ヒロイズムの道を歩むとき、あなたは、自分が何かを達成したと考えることによって、自分の個性の上に幾重にも着物や皮膚を重ねているのだ。

後であなたはそれ以外の何かが必要なことに気づいて驚く。
つまりそのように重なった着物や皮膚を脱ぎ捨てなければならないのだ。



Q―――身をさいなむような苦痛を経験する必要があるといわれますが、もし仮面をはぐプロセスの全体を理解していれば、その苦痛を避けて通ることはできるのでしょうか?


A―――それは危険な発言だ。
理解することは、本当にあなたがそれを行うことではない。
ただ理解するに過ぎない。
私たちは人が拷問にかけられて、苦痛を経験する心理的なプロセスを理解することはできるが、実際にそれを経験することはまったく違うことなのだ。

苦痛を哲学的に解釈したり、頭でとらえるだけでは足りない。

実際にものごとを正確に感じなければならないのだ。
本当にものごとの確信に触れるためには、実際に体験する以外に道はない。

しかし故意に苦しい状況を作り出す必要はない。
状況は、鋭いメスを握ったドクターである〈精神の友〉の助けによって自然に起こってくる。



Q―――ゆだねる過程で〈精神の友〉がメスを突きつけ、麻酔を取り除こうとしているとしたら、それはとても恐ろしいことです。
〈精神の友〉は非常に怒っているかうんざりしているらしい。
私たちは逃げ出したいと思うのです。このような状況を説明してください。


A―――まったくそのとおりだ。これは麻酔抜きの手術と同じことなのだ。
あなたはそれを受け入れなければならない。
もし逃げ出そうものなら、盲腸炎の人が手術室から逃げ出すのと同じ結果になるだろう。
盲腸がいつ破裂するかもわからない。



Q―――これは私が〈精神の友〉との関係を持ち始めた最初のころのことですが、かろうじて彼とともに過ごせたのはたったの五分間ぐらいだったでしょうか。
突然屋根が落ちてきて、彼は私に後始末をまかせて立ち去ってしまうのです。
おそらくこんなことを言ったのでしょう。

 「わしはおまえにつき合って後始末をしていられない。もう五分間は過ぎた。すべてをゆだねよ。捨てよ。自分で処理せよ。そしておまえがもっとほぐれたらまたお前と話そう。」

 私と〈精神の友〉との関わり合いはこんなふうだったのです。 



A―――あなたが、初心者かもっと先に進んだ弟子であるかは問題ではない。
どれほど自分自身との接触を保っているかが問題なのだ。
自分に触れているかぎり、自分を知っているはずだ。
それはふつうの病気のようなものだ。

例えば外国を旅行している間に病気になって医者に行こうと決心する。
医者にはあなたの言葉が理解できない。
しかし身体にさわり診察して、病気を見つけ出す。そしてすぐに入院させて手術をしようとするかもしれない。
それはあなたの病状次第だ。

手術の程度も、あなたの病気の進行状態によって決まる。
あなたはいまにも完全に爆発しそうな状態かもしれない。
もし盲腸炎にかかっているあなたにおそらく友情を示そうとして手術を引き伸ばしたりしたら、盲腸が破裂してしまう。

それは医療を行うときの優れたやりかたとは言えない。



Q―――私たちはなぜ道への第一歩を踏み出すのでしょう?
何が私たちをそこへみちびくのでしょうか?
 偶然なのか運命なのか、それともカルマ(業)なのでしょうか?


A―――もし自分をまったくさらけ出したならば、あなたはすでに道の上にいる。
半分さらけだしたなら半分だけ道の上にいる。

それはつねにあなたに返ってくる。
ドクターにあなたの病気の経過について全部話さないで一部しか話さなかったら、あなたが多くを語るほど治療は早くすむ。



Q―――自分をさらけ出すことが厳しい道だとしたら、自分が悪と判断するものに対して、自分が傷つくことを知りながらも自分をさらけ出すべきなのでしょうか?


A―――自己を開くことは自分に襲ってくるあらゆる脅威を受難することではない。
自己を開くために走ってくる汽車の前に立ちはだかる必要はない。
むしろそれはヒロイズムであり、厳しい道の取り違えだ。

 自分が〈悪〉と見なすものに立ち向かうとき、それはつねに自分を守ろうとするエゴに対する脅威として現れる。

その境地に直面すると、私たちは自分の存在を保とうとすることに忙しく、ものごとをはっきり見とおすことができない。

本当に開くためには、自分の存在を保護しようとする欲求を捨てなればならない。
そうしてこそ私たちは状況をありのままにはっきり見ることができ、またそれに対処することができるのだ。



Q―――これは一発勝負ではないのでしょう?つまりある境地では自己を開くことができても、状況が変わると自分では意図しなくとも、突然また仮面をかぶるということもよくあります。
完全に開ききった状況に達することはむずかしそうに思えます。


A―――要するにあがくことと開くことは無関係だ。ひとたび道に足を踏み入れたならば、あがくのをやめることだ。

そうすればあらゆる問題が解きほぐれてくる。
生活の状況に巻き込まれたい、巻き込まれたくないという欲求は問題ではなくなる。

エゴの猿的な本能は消え失せる。
なぜなら猿的な本能はあるがままの状況を直接に体験することではなく、また聞きの情報に依存しているからだ。

あがくことがエゴなのだ。
ひとたびあがくことをやめれば、あがきを征服するものも残らない。

ただ消え失せる。
したがってそれは戦って勝利を得るという問題ではないのだ。
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唯我独存

Author:唯我独存
ヨーガ・瞑想暦20年ほど。レイキマスター。日々この瞬間を大切にすることをモットーとする。気付き、寛ぎ、ハートの三つから、今ここにあることを体得し、それを伝えていこうとしている。

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