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タントラへの道 自己欺瞞 5 Q&A後半

Q―――私たちには大望があり、つねに自分を築き上げています。それについて考えれば考えるほど、事態は悪化するばかりです。

そこであらゆることから逃げ出そう、考えるのをよそうと、あの手、この手の逃げ道に自分を埋没しようと試みるのです。
これはいったい何を意味するのでしょう?

 悟りについて考えたり知ろうとすればするほど事態が悪化し、概念ばかりが蓄積されるのです。
この事実から、どうしたら抜け出せるのでしょう?
 あなたならどうしますか?



A―――答えは簡単明瞭。
あらゆる探求をすべて捨てること。
何かを発見しようとする試みも、自分を証そうとする試みも、すべて捨てることだ。




Q―――しかし、ときには逃げることが肯定的な行為のように思われることがあるでしょう。それは何もしないこととは全然違います。



A―――ひとたび逃げようとすれば、背後から終われるだけでなく、前方らも追っ手がやって来るのに気づくだろう。
結局逃げ場はなくなる。

あなたは、完全に罠にはまっているのだ。
そこでただひとつ、なすべきことは、あっさりとすべてを譲ることだ。




Q―――それは、どういう意味ですか?


A―――さあ、それは、自分で体験しなければならないことだ。とにかくどこかへ行こうとする試みを、捨てることだ。
そこから逃げ出すのもそこへ逃げ込むのも同じことなのだ。




Q―――自己回想や自己観察は、ゆだねることやここに在ることと相容れないのでしょうか?



A―――自己回想は、実はかなり危険なテクニックだ。
それは、飢えた猫が鼠を狙うように、自分と自分の行為を見張ることを巻きぞえにする可能性がある。
さもなくば、いま、ここに在ることを示す巧妙な身振りになることもありうる。

要するに、私がこれを体験している、渡しがこれをしている、という関係の概念でものごと捕らえるならば、〈私〉と〈これ〉とは対等な力を持つ個性だということになる。

そして〈私〉と〈これ〉との間に矛盾が起こる。〈これ〉を母親、〈私〉を父親と呼ぶようなものだ。
そのような二つの対極にからまれれば、あなたは何かを生み出さざるをえない。

そこで、〈これ〉を存在させないこと、そうすれば〈私〉もないという考え方が出てくる。
あるいは、〈私〉は存在しない、したがって〈これ〉もないと言うこともできる。

それを自分に教えることではなく、実際に感じ、体験することが大切なのだ。

二つの極を観察する見張り人を取り除かなければならない。
見張り人が取り除かれれば、機構全体が崩壊する。

二極対立が存在し続けるのは、見張り人がいて、その状況全体を保っているからに過ぎない。

その見張り人と、中央司令部にいかなる手落ちも許すまいとして見張り人が作り上げた、非常に入り組んだ官僚制度取り除く必要がある。

ひとたび見張り人を取り除けば、そこには驚くばかりの空間がある。
見張り人とその官僚制度が、それだけ場所を占めていたのだ。

〈私〉と〈他〉というフィルターを取り除いたとき、その空間は鋭さ、精確さ、知性になる。
それは、そこにある状況そのものと取り組むことを可能にする、さえた精確さを含んでいる。

私たちは〈見張り人〉や〈観察者〉をまったく必要としない。



Q―――見張り人が存在する理由は、私たちがおり高いと思われる境地に生きたいと望みあるがままにまかせることは、ここから出られなくなることだと考えるからでしょうか?



A―――そのとおり。見張り人がいなければ〈より高い〉〈より低い〉という概念は通用しない。

したがって、高みにのぼろうとしてあがく傾向もなくなる。
あなたはただ、あるがままのところに在るのだ。




Q―――見張り人を力づくで追い出すことは可能でしょうか?
 そうすることは、ふたたび、価値づけのゲームになるのではないでしょうか?



A―――見張り人を悪党扱いする必要はない。

瞑想を実践する目的は、高みに達することではなく、いま、ここに在ることだということがわかってくれば、見張り人は見張り人としての昨日を果たすことができなくなり、ひとりで脱落してゆく。

ごく能率的、活動的であろうとするのが見張り人の基本的な性質だ。
しかし完全な意識というものは、あなたがすでにもっているものだ。

したがってすべてを意識していようとする大望や、いわゆる〈腕利き〉の見張り任であろうとする試みは、身近らを打ち負かそうとすることだ。

その無意味さに見張り人が気づいたとき彼は消える。




Q―――見張り人がいなくても、すべてを意識していることはできるのでしょうか?



A―――もちろんできる。
見張り人というのはパラノイア(妄想)にすぎない。
〈私〉と〈他〉という二つの派を識別しなければ、あなたは完全な開放、広大無辺の状態に達することができる。




Q―――その意識は、至福感を伴っているのでしょうか?



A―――そうは思わない。
なぜなら至福というのは分離した個の体験だからだ。

あなたは、まったく独りであり、至福を体験している。見張り人がいなくなれば、その体験が快いものか苦しいものかという評価もなくなる。

見張り人の評価を伴わない広大無辺な意識の状態に達したとき、至福を体験する主体もいなくなるという、まさにその事実によって至福そのものが無意味になる。




※Heruka チベット仏教の諸尊のうち守護尊に属し、中有(死後の世界)を司るとされる。憤怒尊の代表格。
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唯我独存

Author:唯我独存
ヨーガ・瞑想暦20年ほど。レイキマスター。日々この瞬間を大切にすることをモットーとする。気付き、寛ぎ、ハートの三つから、今ここにあることを体得し、それを伝えていこうとしている。

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