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タントラへの道 自己欺瞞 3

なぜか、開放といまある自分とは一体でなくなったのだ。

開放は自分とは切り離されたものとなり、そのとき、私たちのゲームが始まる。

自分の解放が失われたなどと言えないのは当然だ。
「前には持っていたんだけど、なくしてしまった」、そんなことは言えるはずがない。
言ったら成就した人間としての地位はおしまいだ。

そこで自己欺瞞が登場してくる。
そしてストーリーをくりかえして語る役割を果たす。
私たちは開放を実際に体験することよりも、体験について語ることを好むものだ。

ストーリーのほうが、生き生きしていて、楽しむことができる。
「私がグルのもとにいたとき、こんなことが起こった。グルはこう言った。そうして自分を開いてくれた・・・・・・」。


 この場合、自己欺瞞とは、開放をいま実際に体験する代わりに、過去の体験をくりかえして、書きなおそうとすることだ。

いま実際に体験をもつためには、過去の閃きがどんなにすばらしいものであったかという評価を捨てなければならない。
その記憶こそが、今の体験を遠ざけている原因なのだから――


もし、私たちがそれをたえまなく体験しつづけていることができるのなら、その体験はごくあたりまえのことになる。

そして、このあたりまえさが、私たちにはがまんできないのだ。
「もう一度、開放のあのすばらしい体験を持つことさえできたら!」
 そう言いながら、私たちは体験するのではなく、体験を思い出すのに忙しい。これが自己欺瞞のゲームだ。


 自己欺瞞には、価値づけるという発想と優れた記憶力とが必要だ。

過去を思い返し、郷愁を感じ、記憶に励まされる。
しかし、いまこの瞬間に自分が置かれている状況は、明らかでない。
〈よき時代〉〈古きよき日々〉の思い出だけがあるのだ。

私たちは自分の意気消沈を、絶対にあらわにしようとしない。
自分が何かに取り残されているのではないかという疑問を認めたくない。
意気消沈や喪失感が起こりそうになると、エゴの防衛本能はただちにその活動を始め、思い出や過去に聞いたことのある言葉を私たちの心に吹きこんで、慰めようとする。

このように、エゴは現在に根をもたないインスピレーションをたえず探している。
それはたえまない逆戻りだ。
意気消沈が自分にはいりこむことさえ許さない。
 これは、自己欺瞞のさらに狡猾なやりかただ。
「あれほど、すばらしい祝福を受け、偉大な精神的体験をもつことのできた幸運な自分が、沈みこんでいるなどとどうして言えよう、不可能だ。自分の中に憂鬱がはいりこむすきなどないはずだ」。


 偉大なチベットの師、マルパにまつわるこんな話がある。
マルパがその師ナロパにはじめて会ったとき、ナロパは祭壇をしつらえた。
あるヘールカの智慧の体言であるというその祭壇もナロパ自身も、すさまじい霊的エネルギーを内に秘めている。

ナロパは、瞬間的な悟りの体験を得るためには、自分かそれとも祭壇か、どちらにひれ伏すつもりかとマルパにたずねた。

学者であったマルパは、グルが肉体、人間のありきたりな身体に留まっているのにひきかえ、グルが創造した祭壇は智慧の純粋な体現であり、人間の不完全性とは無縁であるという考えから、祭壇に向かって平伏した。

するとナロパは言った。
「おまえの霊感などじきにしぼんでしまうだろう。 おまえは選択を誤った。この祭壇はわしが作ったものだ。わしなくしては祭壇もあったものではない。人体が智体に対立すると主張するのは、的外れだ。荘厳なマンダラの模様も、わしの創造ぶつに過ぎない」。


 この話は夢、希望、願望などの原理を、自己欺瞞として描き出している。

あなたが自分自身、または体験の一部を〈夢の実現〉とみなすかぎり、あなたは自己欺瞞に陥っている。

自己欺瞞は、つねに夢の世界に依存しているように見える。
それはあなたがいま、自分が見ているものよりも、まだ見たことのないものを見たいと望むことから来る。

あなたが、今ここにあるべきものがあるべきものだということを受け入れようともしないし、あるがままの状況に沿って進もうともしない。

このように自己欺瞞は、つねに夢の世界を創造したり再生する試みとして、つまり夢体験への郷愁として現われる。

それならば、自己欺瞞に対するものは何かと言えば、単純に人生の事実と取り組むことだ。


 私たちが至福や悦楽、空想や夢の実現を求める以上、それが実現しない場合の失敗や絶望の苦しみも同等に味わうことになる。

要するに、切り離されることへの恐怖や、一体化への希望、それらはエゴや自己欺瞞の現われ、または行為であるだけではない。
それでは、エゴがある行為を営む実体であるかのような捕えかただ。
エゴとは行為そのもの、心理的なできごとそのものである。

エゴとは開放を失うことへの恐怖そのものであり、無我の境地を失うことへの恐怖そのものである。
エゴは、無我の境地を失ったこと、成就への夢を失ったことを嘆いて、泣き叫ぶ。
これこそ、自己欺瞞の意味するところだ。

恐怖や希望、喪失や獲得などはすべて自己保全や自己維持のための機構であるエゴの夢のたえまない作用であり、それは自己欺瞞だ。


 それならば、夢の世界を超えた真の体験とは何なのだろうか?

 それは日々の生活の中でつねに、いまの美、色調そして感動を本当に体験することだ。

あるがままのものごとに直面するとき、わたしたちはよりよきものへの希望を捨てる。

私たちは意気消沈(ダウン)から抜け出すことを自分に命令することはできない。
魔法は起こりえないのだ。

消沈、無知、情緒――私たちが体験するものは何であれ、すべてリアルで、測り知れない真実を含んでいる。真実を体験することを学び理解しようとするならば、あるがままの自分という場に立たなければならない。

私たちが砂の一粒になれるかどうかにすべてはかかっている。
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唯我独存

Author:唯我独存
ヨーガ・瞑想暦20年ほど。レイキマスター。日々この瞬間を大切にすることをモットーとする。気付き、寛ぎ、ハートの三つから、今ここにあることを体得し、それを伝えていこうとしている。

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