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大印の秘法

「大印の秘法」のテーマは、禅定により心の浄らかな本質を悟ることにある。ワンチュクドルジェは、全体を大きく「止」と「観」に分ける。まず弟子は禅定印を結ぴ、雑念を離れて心を静める。たとえ雑念が渦のようにわき起こっても、禅定を放棄してはならない。雑念を無理に消そうとするのは、かえって逆効果になる。妄想が消えない時は、それ自体を観察するように教えられる。

このようにして精神の活動を静め、須弥山のように不動で、鏡面のように明澄な心を養うのが「止」である。この禅定に熟達すると、遥か遠方の事件が手にとるように解るといった通力が得られることがある。これらは精神集中の賜物だが、それ自体は「悟り」ではない。これらの副産物に目を奪われることなく、ひたすら無上菩提に向かって精進することが求められる。
精神の安定が得られると、その集中力によって心の本質を観察する段階に進む。これが「観」である。ここで師匠は、弟子が正しい方向に向かっているか、問答など適切な方法を用いて指導を行う。

心の本質は概念的思考では捉えられない。それを正しく知っているのは「大印」を成就した者だけである。たとえ弟子が模範的な解答をしても、それが体験によって裏打ちされていなければ、絵に描いた餅と同じである。師匠には弟子の能力と進歩を見極めながら、正しく指導することが求められる。

このようにして弟子は、心の本質は明澄(自性清浄)であることを悟る。続いて弟子は、心にわき起こる悪念、欲望などの活動を観察する。そしてこれらこれらの活動にも固定的な実体はなく、「空」であるということを悟るのである。

このような禅定に熟達すると、いよいよ「止」と「観」の双修という最終段階に入る。「止」によって体験された明澄な心の本質と、「観」において観察された想念、欲望などの心の活動は、鏡のように静まった水面と波のように、同一物の異なった現れに他ならない。この認識によって、主観と客観、生死と涅槃といったような二元論が克服され、概念的思考を離れた絶対的境地が感得される。

(『チベット密教』田中公明著 春秋社 一九九三年 二二八頁ー二二九頁)




「大印の秘法」はサンスクリット語で「マハームドラー」と言われ、チベット仏教カギュ派において主に実践されている。

まずは心を静めていく所からはいる。ここで色々な雑念、妄想がわき出てくるが、これを無理に押さえ込もうとしないことが大切である。私の体験からも無理矢理押さえ込もうとすると、かえって強くわき出てくる。一時的に静まったように思えても、後でかえって大きくなってくるように思う。心のはたらきでも作用と反作用の法則が成り立つように思う。強く押さえつけると、反発も大きい。もちろん雑念にとらわれるのは話にならない。ただ冷静に見続けることである。ここで土台となるのは、やはり集中力である。集中が散漫だと、正しく観ることができない。

そして心の本質を観ていくが、ここで瞑想をするものが誤った方向にいかないためにも、師匠の存在が大切である。そういったことのために師匠が必要であり、弟子が師匠を絶対視したり、神のごとくあがめ奉るのが師匠と弟子の正しい関係ではない。ここがよく混同されることである。

そして心の本質はこうである、ああである、と口先だけで言ったとしても、それは意味をなさない。実体験に裏打ちされていなければ、机上の空論である。今の日本において、このようなケースが多いように思う。

そして心をきちんと観ていくうちに、心の本質は明澄(自性清浄)であることを悟る。更に心にわき起こる悪念、欲望などの活動を観察する。そしてこれらこれらの活動にも固定的な実体はなく、「空」であるということを悟るのである。私はこれらのことをかいま見たことはあるが、まだ完全に理解しているわけではない。

そして最終的には心の明澄なる本質と、雑念、想念などは裏表の関係であり、本来は何らことならないことを理解していく。一般的な考えでは、心の本質と想念は別のものであると考える。それは二元論であり、一元においては両者は本質的には異ならないことを悟っていく。これは二元にとらわれていては、決して理解できることではなく、知識をいくら蓄えたとしても悟れることはない。瞑想することが不可欠である。

こういった認識が生じることで、主観と客観、生死と涅槃といったような二元論が克服され、概念的思考を離れた絶対的境地が感得される。この世は二元にとらわれている。いわゆる現実的な思考では、絶対的境地に至ることはできない。これが現実であるという思考の打破が必要である。しかし、あまりにも私たちはそういったものにとらわれているが故に、なかなかこれは難しい。あせらずじっくりと取り組んでいくことが、やはり肝腎であろう。

ここにあるのは、まだ中途の段階である。更にこの秘法には上の段階があるという。真理の階梯はまさに広大無辺なものである。
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唯我独存

Author:唯我独存
ヨーガ・瞑想暦20年ほど。レイキマスター。日々この瞬間を大切にすることをモットーとする。気付き、寛ぎ、ハートの三つから、今ここにあることを体得し、それを伝えていこうとしている。

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