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私たちは空っぽだ

チベット密教に、自分自身の体が空っぽであると観想する瞑想がある。これは基本的な瞑想ということになっていたように思うが、私の印象としてこれはとても効果的であり、ある種奥義といってもいいくらいのものだと感じる。

私たちは肉体に強くとらわれており、それこそが自分自身である、自分自身のものであるというこだわりがある。しかし肉体は本質的なものではなく、ただの器であるということが瞑想をしていくと段々わかってくるし、肉体を超えたものがあることも理解できてくる。

肉体は非常に限定されたものであるが、肉体を超越しているものは、本来は限界というものがなく、広大無辺に広がっている。肉体に支配されていると、そのことを全く理解することはできない。肉体は五感で感じるものだが、肉体を超えたものは五感を超えている。初めはエネルギー的に感じられたりするが、エネルギーをも越えている。

肉体が空っぽであるとイメージしていくと、最初のうちは単なるイメージだが、段々それが実感としてわかってくるようになる。肉体が本当の意味では自分のものではなく、より本質的なものが在るのだと理解が深まっていく。そのためには五感にとらわれるのではなく、五感を超えた感覚を磨いていくことも必要になってくる。気やエネルギーを感じる訓練をしていくのも有効だが、そこにとどまっていてもいけない。気感を磨いていき、いずれはそれをも手放していくことになる。

空っぽというと、空虚であり一般的にはあまりいいイメージではないかもしれないが、肉体を超えたものはただ空虚ではなく、五感ではとらえられぬもので充実しており、全てに偏在している。それがわかってくると私たちは本当の意味で解放されていく。

だからといって肉体をないがしろにしていいというものでもない。この世を生きていくには、どうしても肉体が必要となる。肉体にこだわりすぎてはいけないが、肉体を大切にすることも大事であり、健全な肉体があってこそ、肉体を超えたものを理解することができる。肉体をケアしていき、とらわれることがないのがポイントとなる。

私たちは本来は空っぽであり、何にも支配されることなく、融通無碍である。そのことを理解するのが、ある種の悟りかもしれない。
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唯我独存

Author:唯我独存
ヨーガ・瞑想暦20年ほど。レイキマスター。日々この瞬間を大切にすることをモットーとする。気付き、寛ぎ、ハートの三つから、今ここにあることを体得し、それを伝えていこうとしている。

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