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楽から利他心へ

人は快と不快があれば、当然快を求める。いやマゾの人はそうではなかろう、という人もいるかもしれないが、マゾの人は周りから見ると不快であるとしか思えないようなことで快を得ているのだから、結局のところ人はみんな快を求めるものであろう。

快を感じるには、五感から入ってきたもので感じるのが一般的であり、外部のものを求めることになる。五感から得られた快が、ずっと続くなら問題はないが、それは来ては去っていってしまう。そして五感から入ってくるものは、快だけではなく、不快なものもある。外的なものからは、本当の快を得ることはできない。

何もしないでいることは、ある人たちにとっては全く意味のないものであったり、耐え難い苦痛に感じる人たちもいるだろう。しかし、ある人々においては、五感から得られる快よりも、ずっと深みのある快、喜びを体験する。それは体験するというより、元々がそれそのものであり、そこにただ在るという状態である。それはもはや快や不快というものも超越しているともいえる。

チベット密教の六ヨーガの経典だったと思うが、熱のヨーガの項目があり、そこには修行によって熱を生じさせ、それが大いなる楽をもたらす、といったような記載があったような気がする。というのもそれを読んだのがもう何年も前の話なので、詳細を明確に記憶していないのだが、そんなことを読んだ記憶がおぼろげにある。

熱と大きな楽とがどのような関連性があるのか?と思われる方もいるだろうが、これは体験しないと理解できないことでもあるが、ある種の呼吸法や瞑想をしていると、体が非常に熱くなり、熱を発生させてくる。それが昇華されてくると、心身がとても心地よくなってくる。これは外的なものでは決して体験できない喜びであり、何もしなくてもいい状態となる。何もしないといっても怠惰ではなく、意識は明晰でありながらリラックスしている。

経典では楽にもいくつか種類があり、ナーディの楽とかプラーナの楽といった記述があった記憶がある。ナーディは経絡のようなもので、エネルギーの通り道であり、プラーナはいわゆる気のようなものである。ここでいやそれは厳密に言うと違う、と主張する人もいそうだが、私はあまり細かいことは気にしない性質なので、これでいいのだ。

自分の体験上、ナーディで感じる楽もあるし、プラーナで感じる楽もある。言葉ではうまく説明できないが、ナーディが通ることで感じる楽もあるし、プラーナそのものが楽の性質があるように感じられる。ただし、これらはまだ途上であり、これらがより微細になってくると、全身が楽の状態となっていき、肉体と精神の境界線が曖昧なものとなってくる。そうすると自分と他人の区別というものも希薄になっていく。

単に楽を体験して「ああー。気持ちいいなあ」などと快楽に浸っているだけでもしょうがない。それなら温泉にでも入ってのんびりしていればいいのであり、大切なことはそこから自と他の区別がなくなっていき、利他心が生じてくるところに本懐がある。利他心というものも頭だけの理解では本物ではなく、このような体験を通じて養われていくものであるような気がする。もちろん利他心を培っている人全てがこういうプロセスを経るわけではなく、違ったプロセスの人もいるが、頭だけの理解では駄目であることは間違いないだろう。

意識を明晰にして、リラックスする。そして本当の喜びというものを知り、自分と他人の境界線が自然になくなっていく。そうすると真の利他心が生じてくる。このプロセスだけが唯一絶対ではないが、このプロセスに入っていける人は、とても幸福であると思う。
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唯我独存

Author:唯我独存
ヨーガ・瞑想暦20年ほど。レイキマスター。日々この瞬間を大切にすることをモットーとする。気付き、寛ぎ、ハートの三つから、今ここにあることを体得し、それを伝えていこうとしている。

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