スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

始めは脱兎の如く、終わりは処女の如し

本来の慣用句は、始めは処女の如く、後は脱兎の如し、であり、これは孫子の兵法の言葉です。初めは弱々しく見せ掛けて敵を欺(あざむ)き、後には見違えるような強い力を示して攻撃する。兵法においては、これが正しいことでしょう。

しかし、修行においては、自分の体験上、タイトルのように行っていくのが良いプロセスではないかと思います。

釈迦は中道を説き、苦行を否定したとされています。しかし、私は単なる否定ではなく、それを超えていったのだと思います。苦行を体験したからこそ、中道の意義を本当に理解したと思います。

私は以前、かなり激しい行やいわゆる苦行を行ってきました。飲まず食わず寝ずに修行をしたり、息を長く止めたり、経典を数時間読経したり、といったことを長々と行ってきました。あまりにも修行を激しく行いすぎて、死んでしまうのではないか、というところまで行ってしまったこともあります。生きるか死ぬか、というところまで行ってしまうと、それまでの枠組みというものが解体し、新たな境地へ向かっていくことも事実です。ですから私は激しい苦行をしたことが、完全に過ちだったとまでは思いません。

しかし今は、そういったことを行うことはまずありません。もっと穏やかに、繊細に、シンプルに行っています。行うというよりも、ただあると言った方がより正確でしょう。初めのうちは脱兎の如くただひたすらにがむしゃらに修行する。しかし、ある段階まで来ると、今度はより微細に繊細に瞑想を行っていくのが自然になってきます。

激しい修行ばかりやっていると、繊細さが失われていくし、また、自分はこれだけの修行をしている、とばかりに慢に陥る危険性があります。そして、自分と他人の区別が増大したりします。これではせっかく修行をしていても、本質から遠ざかるばかりとなってしまいます。

こういったケースを、私は色々と見てきましたし、自分自身もそこに嵌り込んでいました。自分は修行をしている、という概念に陥ると、そこからなかなか抜け出せません。するのではなくただあるということ。それはがむしゃらにやるだけでは、決して理解できません。初めは勢いだけで押していってもいいですが、それだけでは限界があります。そこから脱却し、静かで繊細なものとなっていくのが、正しいプロセスではないかと思います。
最新記事
プロフィール

唯我独存

Author:唯我独存
ヨーガ・瞑想暦20年ほど。レイキマスター。日々この瞬間を大切にすることをモットーとする。気付き、寛ぎ、ハートの三つから、今ここにあることを体得し、それを伝えていこうとしている。

月別アーカイブ
カテゴリ
カレンダー
01 | 2011/02 | 03
- - 1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 - - - - -
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QRコード
メールフォーム

名前:
メール:
件名:
本文:

最新コメント
最新トラックバック
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。