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タントラへの道 エゴの発達 前半

The Development of Ego


私たちは仏教徒の道を、その始めから終わりまで、初心者の心から目覚めたものの境地に至るまで、じっくりながめようとしている。

それにはごく具体的、現実的なことがら、つまりこれから耕そうとする土地から始めるのが最もよいと思われる。

エゴの性質という出発点をよく知る前に、より進んだ問題を研究するのは愚かなことだ。

チベットに「頭がよく煮えないうちに舌を抜こうとしても無駄なこと」という諺がある。
どのような精神修行においても、出発点、すなわち私たちが取り組もうとしている素材を根本的に理解するこことが必要だ。


 自分が取り組んでいる素材を知ることなくしては私たちの修行は無益であり、そのゴールについての考察は単なる幻想になってしまう。

それらの考察は、高度な概念や精神的な体験の描写という形で示されるかもしれないが、実際には人間の性質の弱い面である何かはなやかな非日常的なものを見聞きしたいという期待や欲望を押し広げるだけだ。

非日常的でドラマティックな〈悟り〉の体験を夢見て修行を始めるならば、期待と先入観だけが築き上げられ、のちに私たちが実際に道を歩むとき、〈あるがまま〉のことよりも〈これからあるはず〉のことに心を奪われてしまう。

人々にそのあるがままの姿というリアルな出発点を示すのではなく、人々の弱点、その期待と夢をもてあそぶのは、有害であり、正しいことではない。


 だから、あるがままの自分とは何か、自分はなぜ探し求めるのか、ということから始めなくてはならない。

阿頼耶識、現在、人間の堕落、エゴの根底にあるものなどと、さまざまな呼び方で、ほとんどあらゆる宗教がこの問題を論じている。
ほとんどの宗教は、この素材を軽蔑的に取り扱う傾向がある。

しかし、私はそれをショッキングなものとも恐ろしいものとも思わない。
あるがままの自分を恥じる必要はない。

有情としての私たちは、すばらしい素性をそなえている。
その素性は格別輝きもせず、平静でも知性的でもないかもしれない。

しかし、それは耕すに足る良質な土壌であり、何でも植えることができる。

したがってこの問題に取り組むとき、私たちは、自分のエゴの心理を責めたり、取り除こうと試みる必要はない。
ただそれを知り、あるがままに見なければならない。
実際、エゴを知ることこそ仏教の基礎だと言ってもよい。
それではエゴがどのように育ってゆくのかを見ることにしよう。


 基本的には、ただ開かれた空間、根底的な基盤がある―――それが真にあるがままの私たちだ。

エゴが生まれる以前の最も根底的な心の状態は、豊かな広がりをもった、根本的な開放、根本的な自由であり、いまも以前も、その広がりはつねに私たちの内にあった。

例えば日常の生活や思考のパターンを考えてみよう。
私たちがある対象を目にするとき、最初の瞬間には突然その対象が目にはいるだけで、それに関する論理も概念化しようとする作用もない。
ただ開かれた基盤に対象が知覚されるだけだ。

ところが次の瞬間、私たちはパニックに襲われ、あわてて対象に何かをつけ加えようとする。
その対象の名前を見いだすか、それを位置づけ分類するための整理箱を見つけようとするのだ。
そこから、おもむろに自体が発展する。


 その発展は確かな実態としての形をもってはいない。
むしろ、それは幻想であり、〈自己〉(セルフ)または〈エゴ〉に対する誤った信仰なのだ。

混乱した心は、それ自身をつねに継続的で確かな実体と見なそうとする。
しかしそれはただ、さまざまな傾向やできごとのコレクションにすぎないのだ。

仏教用語ではそのコレクションを五つのスカンダ=五蘊(蘊とは集まりの意)と呼ぶ。
ここで五蘊が発展していく全貌に目を通すことにしよう。


 はじめ、誰にも属さない開かれた空間がある。
そしてその空間や開放に結びついた根源的な知性がつねに存在する。
ヴィドヤーはサンスクリット語で〈知性〉を意味する。
それは精密さ鋭さ、それも空間をもった鋭さ、さまざまなものをそこに投じ、置きかえることのできる余裕をもった鋭さのことだ。

完全に開かれた空間があるという点で、それは激しく踊りまわっても、ものにぶつかったりつまずく恐れのない広々としたホールに似ている。
私たちはこの空間そのものであり、この空間や知性そして開放と完全に一体なのだ。


 しかし、私たちがつねにこの空間であったならば、混乱はどこからやって来たのだろうか?
 空間はどこへ行ってしまったのだろうか?
 いったい何が起こったのだろうか?
 ただ私たちが、その空間で動きまわりすぎただけのことだ。

あまりの広がりのために、踊りまわろうとするインスピレーションが湧くのは当然のことだ。
しかし私たちの踊りは少し活発になりすぎ、その空間を示すのに必要以上の旋回を始めたのだ。
そのとき、私たちは〈自分〉がその空間で踊っているという自意識をもつ。


 そうなると、この空間はもはやあるがままの空間ではない。
それは枠で囲まれてしまう。
空間と一体である代わりに、私たちは自分の外にあって、ある形をもつ固定した空間を感じる。

これが最初の二元性の体験だ―――空間と自分。

自分が空間で踊っている。
その広がりは、自分の外にある固定したものだ。

二元性とは、空間と完全に一体であることよりも〈空間と自分〉が存在することを意味する。
そこで〈形〉つまり〈他〉が生まれる。


 そして一種の意識喪失(ブラックアウト)が起こる。
自分が何をやっているかを忘れてしまうのだ。
突然の停止、とぎれ―――。

そしてあたりを見まわすと、そこに固定化された空間を見いだす。
まるで自分は何もしなかったように、枠を作り出したのは自分ではなかったように―――。

そこにギャップがある。
固定化した空間をすでに作り出しておきながら、それに呑みこまれ、その中で我を忘れてしまう。
私たちは無意識状態に陥り、やがて突然目覚める。


 目覚めたとき、私たちはその空間を開かれたものとして見ようとせず、そのなめらかさと風通しを感じようともしない。

完全にそれらを無視することをアヴィドヤーと呼ぶ。
ア‐aは〈否〉、ヴィドヤー vidyaは〈知性〉、したがってアヴィドヤー avidya とは〈無知〉だ。

知性が固定化した空間の近くに変わってしまい、鋭く精密で流れるように輝きをもった知性が動きを止めてしまったばかりに、それはアヴィドヤー=無知と呼ばれる。

私たちは故意に無視する。
この空間でただ踊ることに満足できず、踊りの相手(パートナー)を求める。
そして空間を相手に選ぶ。

空間を相手に選んだ以上、もちろんそれが自分と踊ってくれることを求める。
それを自分の相手とするためには、それを枠で囲み、その流れるような開かれた性質を無視しなければならない。

これがアヴィドヤーー無知であり、知性を無視することだ。

こうして第一スカンダ(色蘊)が成り立ち、無知=形(色)が作り上げられる。


 実はこのスカンダ、色蘊には三つの異なった相あるいは段階がある。
他の比喩を使ってそれをくわしく見てみよう。


 はじめに、山も木もない広々とした平地があるとする。
まったくむき出しの土地、何の特徴もないただの砂漠だ。それが私たちのありさま、あるがままの姿だ。
私たちは非常に簡素な本来のままのものだ。
それでもなお太陽が照り、月が輝き、光、色、そして砂漠の肌ざわりがある。
点と地の間にたわむれるエネルギーが感じられ、それらはとだえることなく起こりつづける。


 ところが奇妙なことに、それらのすべてに気づく者が突然現われる。
まるで砂漠の砂のひとつぶが頭をもたげて、あたりを見まわすようなものだ。

私たちはこのひとつぶの砂―――自分は他から分離したものという結論を下したひとつぶの砂だ。
これが〈無知の誕生〉の第一段階であり、一種の化学反応と言える。
そこから二元性が始まる。


 色蘊の第二段階は〈内発性の無知〉。
いったん自分を他から分離したものと認めると、次には、自分がつねにそうであったと感じる。
これは、ぎこちなさ、自意識過剰に向かってゆく本能だ。
同時に、他から分離し、異なったひとつぶの砂であることにとどまろうとする口実にもなる。
このタイプの無知は攻撃的だ。
といっても怒りとは違う。
まだ怒りほど激しくなっていない。
その攻撃性は、むしろ当人にぎごちなさ、アンバランスを感じさせるもので、そのため彼は何とか自分の足場を守り、非難できる場所を築こうとする。
自分は混乱し、他から切り離された存在であり、それはけっして変わりようがないという態度がそれだ。
開放された広がりをもつ、本来の風景から切り離されたものになりきってしまったのだ。


 第三のタイプの無知は、〈自己観察的無知〉、つまり自分を見張ること。
自分自身を外的な対象として見る感覚があり、それが〈他〉の最初の概念をもたらす。
いわゆる〈外の〉世界との関わりをもちはじめるのだ。
私たちは形(色)の世界をつくりあげはじめた。

色蘊がこの三つの段階から成り立っている理由はここにある。



 ここで言う〈無知〉とは、愚かさとは違う。
ある意味では、無知は非常に知的であると言える。
ただ完全に二元的な知性に他ならない。

言い換えれば、あるがままを見る代わりに、ただ自分が映し出した像に反応しているにすぎないのだ。
あるがままの自分をつねに無視しているために、〈あるがままにゆだねる〉状態になることができない。
それが、無知の基本的な定義だ。



 次の段階は、自分の無知を保護するために防衛機制を作りあげること。
この防衛機制が第二スカンダ(受蘊)だ。
開かれた空間を無視してしまった私たちは、すでに自分たちが育んでいる何かにすがりつこうとする傾向を最後まで満たすために、その固定した空間の肌ざわりを感じてみたくなる。

本来の空間は、ただの空っぽの空間ではなく、色彩やエネルギーにあふれている。
ダイナミックで壮大な色彩とエネルギーの表現があり、美しく生き生きしている。

ただ私たちがそれらをまったく無視してしまったのだ。
その代わり、色彩は固定したものとしてとらえられる。
それは檻の中の色彩になり、エネルギーは檻の中のエネルギーになってしまう。
なぜなら、私たちはその空間全体を硬直させ、〈他〉に変えてしまったからだ。

そして手を伸ばして〈他〉の肌ざわりを探りはじめる。
そうすることで自分の存在を自分に保証しようとするのだ。
「そこにそれを感じることができれば、自分はたしかにここにいるわけだ。」


 何かが起こるたびに私たちは手を伸ばしてそれが自分を引きつける状況か、脅威を与える状況か、またその中間かを感じ取ろうとする。
突然の分離、つまり、〈これ〉と〈あれ〉の関係が明らかにわからないような状況が起ころうものなら、あたしたちはあわてて自分の地盤を探そうとする。
これが私たちがすでに築きはじめたきわめて高性能の感覚機制、第二スカンダだ。



 エゴをはっきり確立するための次の機制は、第三スカンダ(行蘊)=知覚衝動。
私たちは自分が創造した動かない色、動かないエネルギーに夢中になりはじめる。

それらに関わりをもちたい。
そこで自分が創造したものを次第に探索しはじめる。


 その探索を効果的にするためには、感覚機制をコントロールする一種の交換台(スウィッチ・ボード)システムが必要だ。
感覚はその情報を中央の交換台、つまり知覚行為に伝える。
その情報に従って私たちは判断をくだし、反応を起こす。

状況に対して、肯定的な反応をするか、否定的な反応をするか、無関心でいるかは、この感覚と近くの官僚制によって自動的に決定される。
状況を感じ取り、脅威を感じれば向こうに押しやり、魅力を感じればこちらに引き寄せようとする。
そのどちらでもなければ、無関心でいる。

それが、憎悪、欲求、愚かさという三つのタイプの衝動だ。
このように、近くは外部からの情報を受け取ることに関わり、衝動はその情報に対する私たちの反応に従って起こる。


 次の段階が、第四スカンダ(想蘊)=概念。
知覚衝動は直感的な感覚に対する自動的な反応だ。
このような自動反応は、自分の無知を保護し、安全を保証する防御としては、まだじゅうぶんでない。

本当に無知を保護し、自分を完全に的確に欺くためには、ものを名づけ分類することのできる知性を必要とする。
こうして私たちは、どの衝動が反応するかによってものごとやできごとに、(善い)〈悪い〉〈美しい〉〈醜い〉などというレッテルを貼る。


 エゴの構造は、次第にますます重苦しく、強力になってくる。この時点までは、エゴの発達もただ作用・反作用の過程にすぎなかった。

しかし、これからは次第に、猿でさえもっているような本能をはるかに超えた複雑なものになってくる。
私たちは知的な思索を体験しはじめる。

それは自分自身を確かめ、あるいは解釈し、一定の論理的で説明可能な状況に位置づけるのだ。
知力は基本的に論理的な性質をそなえている。

それは明らかに自分を肯定的な状態に置こうとする傾向をもっている。
自分の体験を確かめ、弱さを強さと解釈し、安全な論理を組み立て、自分の無知を肯定するのだ。


 ある意味では本来の根源的な知性がつねに働いている、と言うこともできるだろう。

しかし、それは二元的な固着、つまり無知に使われている。

エゴの発達のはじめの段階では、根源的知性は感覚における鋭い直感として働き、のちには知力として機能する。
実際には、エゴなどというものはまったく存在しないように思われる。

「私がある」ということはないのだ。
それは多くのものごとの堆積にすぎない。

いわばすばらしい芸術作品であり、知力が「これに名前をつけよう。何と呼ぼうか?そうだ『私がある』と呼ぶことにしよう」と 言いながら巧妙に作り上げた産物なのだ。

〈私〉とは知力の産物であり、散漫で混乱したエゴの展開全体をひとつにまとめるラベルなのだ。



 エゴの発達の最終段階が、第五スカンダ(識蘊)。
この段階で融合が起こる。

第二スカンダの直感的知性と第三スカンダのエネルギーと、第四スカンダの知力への転換が結合して思考と感情を生み出す。

この第五スカンダの段階で私たちは六道を見いだす。

それは、コントロールのきかない非論理的なパターンをもつ、散漫な思考から生まれるものだ。
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唯我独存

Author:唯我独存
ヨーガ・瞑想暦20年ほど。レイキマスター。日々この瞬間を大切にすることをモットーとする。気付き、寛ぎ、ハートの三つから、今ここにあることを体得し、それを伝えていこうとしている。

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