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タントラへの道 ユーモアのセンス

Sense of humor


この「ユーモアのセンス」というテーマを、ユーモアのセンスではないものは何かという点から、考察してみるとおもしろいだろう。

ユーモアのセンスに欠けることは、ものごとを〈厳しい事実〉としてとらえる態度からくるように思える。
その人にとってはあらゆるものごとが厳粛で裏表がなく、たとえて言えば生ける屍のようなものだ。

彼は苦しみに生き、その表情はたえず苦痛を表わしている。彼は〈現実〉(リアリティ)というような厳しい事実を体験して真剣にそれをとらえ、ついに生ける屍になるところまで行ってしまった。

この生ける屍のかたくなさはユーモアのセンスとは正反対のものだ。

誰かがあなたの背後に立って鋭い剣をつきつけてでもいるようだ。瞑想中には、背を伸ばしてまっすぐに坐り、ただしくやらなければたちまち背後から打たれるのではないだろうか。
あるいは正しく正直に真っ向から人生に対処していなかったら、たちまち誰かに叩かれそうだ。

これは自意識が必要以上に自分を見張り、観察している状態だ。
自分のすることなすことすべてが見張られ、検べられる。

ところで実際に見張っているのはビッグ・ブラザーではない。
それはビッグ・ミー(自分)なのだ。

自分の中のもうひとりの自分が背後で自分を見張り、自分の失敗を見つけたらすぐに打とうと待ちかまえている。
このようなアプローチには悦びがない。
ユーモアのセンスがまったくない。


 このようなまじめさは精神の物質主義の問題にも関連している。

 「自分は瞑想修行の特定の系統に属していてその教会と団体の一員だ。そして宗教的な誓いを立てた以上、善良で誠実で教会にお参りすることを欠かさないような人間にならなければならない。自分は教会の基準、規則そして規制に従わなければならない。もし自分の義務を果たさなければ、その罪を咎められ縮小人間にされてしまうだろう。」


 そこには厳粛さと死の脅威がある。
―――ここで言う死とは、これからおこるはずのあらゆる創造的なプロセスの死のことだ。
この態度には限界とかたくなさが感じられる。
動き回ることのできる空間がまったくない。


「では優れた宗教の口伝や教義についてはどうなのだろう? それらは戒律や規則・規制について説いている。それらとユーモアのセンスをどのように調和させたらよいのだろう?」という疑問が出てくるかもしれない。
ここでその疑問を正確に考察してみよう。


 そもそも、規制や戒律そして徳行を修行することは〈善〉を〈悪〉に対立させる単純な価値判断に基づいているのだろうか?

 偉大なる精神的な教えは、自分たちが光明の側、善の側にあるという理由から、悪と戦うことを本当に提唱しているのだろうか?

 それらの教えは私たちがもうひとつの〈好ましくない〉側面、悪と暗黒の側面と戦うことを説いているのだろうか?

 それは大きな疑問だ。
聖なる教えというものが本当の智慧を伝えているならば、いかなる戦いもありえないはずだ。

私たちが戦うことに巻き込まれて自分を防御し、相手を攻撃しようとしているかぎり、その行為は聖なるものとは言えない。

それこそ世俗的で二元対立的な状況だ。私たちには、偉大なる教えとは、善につこうとして、悪と戦うという単純なものとは思えない。

それではまるでハエリウッド西部劇のアプローチだ。
結末は見る前から確実に分かっている。〈善玉〉は絶対に殺られず、最後には必ず〈悪玉〉がやっつけられるのだ。

明らかにこのアプローチは単純で愚かすぎる。
しかし私たちが〈精神的〉な戦い、〈精神的〉な達成と言いながら作り上げているのはまさにこのような状況なのだ。


 私はユーモアのセンスが乱暴に解き放たれるべきだと言っているわけではない。
ただものごとを単純な戦いやあがきや二元性以上のものとして見るべきだと言っているのだ。

精神の道を戦場と見なすならば、私たちは弱々しくて頼りない存在に過ぎない。
そうすれば道における私たちの進歩を測る基準はどれほどの領域を征服したか、自分や他人の欠陥をどれだけ克服したか、どれほどの否定的な要素を取り除いたかというようなことにかかってくるだろう。

あなたが取り除いた暗黒の分だけあなたは光を生み出すことができるというわけだ。
それは非常に弱い光だ。
そのような光を解脱や自由、あるいはムクティやニルヴァーナと呼ぶことはできない。

それは何か他のものを打ち負かすことによって得た解放だ。
それはあくまでも相対的なものだ。

私は〈ユーモアのセンス〉を何かもったいぶったものにしようとしているのではない。
他の人もどうかそのようにとらないことを願う。

しかし屍によって代表されるかたくなさを本当に理解するためには、ユーモアのセンスをまじめに受け取る危険性は避けられないだろう。

ユーモアのセンスとは、状況の両極をありのままに見ることだ。
空中から見おろすような視野をもって、そこにある善と悪の両方を見とおすことだ。
そうすれば、地上のちっぽけな人間たちが殺し合い、愛し合い、あるいはちっぽけな人間としてただ在ることが、些細なできごとに過ぎないことがわかる。

そして、その戦いや愛が大変なできごとであるかのようにふるまう人々が作り出す喧騒の浅はかさが見えてくる。
私たちが、「自分は心から何かを探求しているのだ、本当に自分の欠陥と戦おうとしているのだ」とか、「自分は根っからの善人になろうとしているのだ」と、何か測り知れない、意味深い、強力なものを築きあげようと必死になればなるほど、その意図のまじめさは失われ、ただの張子の虎と化してしまう。
それは実に皮肉なことだ。


 ユーモアのセンスは、あらゆるものに充満する喜びから生まれるように思われる。
その悦びは〈これ〉と〈あれ〉との間の戦いに巻きこまれていない。

したがって、完全に開かれた状況に広がってゆく余裕をもっている。
その悦びは、すべてを含む場、開かれた場を見たり感じたりすることのできる広がりのある状態へ発展してゆく。

その開かれた状態には限界もなく、強いられたしかめつらさもない。

人生を〈深刻なビジネス〉として扱ったり、人生のあらゆるものごとが重大事であるかのように、しかめつらさを押しつけることの度が過ぎると、それはむしろ滑稽になってしまう。
なぜそれほどの重大事なのだろうか?


 百パーセントあるいは二百パーセント完全な姿勢で瞑想しようとする人がいるかもしれない。
たいしたことだ。
滑稽なことだ。

また一方ではユーモアのセンスを育てようとして、ものごとをすべて茶化したり、あるいはユーモアを見いだそうとしてあらゆる隅々やすきまを探しまわる人がいるかもしれない。

するとそのこと自体が深刻なゲームになる。

これも滑稽だ。

歯をくいしばり、舌をかむほど張りつめて、肉体的な緊張の極に達すると、突然、誰かにくすぐられるような感じになる。
緊張が過ぎたからだ。
そうまで極端に走ることは愚かなことだ。
その極端な緊張そのものが、自然にユーモアになる。

チベットにこんな話がある。
ある僧がサンサーラ(輪廻)の混乱に満ちた生活を捨て、あらゆる時間を瞑想に費やすために洞窟に住むことにした。

それまで彼はたえまなく苦しみや痛みについて考えつづけた。
彼はラングルのゴナクパ、つまりラングルの黒い顔と呼ばれた。彼が人生のあらゆるものごとw苦痛と見なし、けっして笑わないところからこの名前がつけられた。
何年もの間、彼はその洞窟で厳しい修行を続けた。

ある日彼がふと祭壇を見ると、誰かが献物として置いていったらしい、大きなトルコ石のかたまりが目にはいった。
それをながめていると、やがて鼠が一匹忍びこんできて、そのトルコ石を曳いてゆこうとしはじめた。

しかしトルコ石はびくとも動かない。
するとネズミは、穴に戻ってもう一匹のネズミを呼んできた。
二匹で曳いても大きなトルコ石はびくともしない。
すると二匹はいっしょに鳴きわめいてもう八匹のネズミを呼び出し、とうとうそのトルコ石を穴に持ち運ぶことに成功した。

それを見ていたラングルのゴナクパは、生まれてはじめて相好をくずして大笑いしはじめた。

それは突然の悟りの閃きであり、彼にとっては開くことへの最初のきっかけとなった。

つまりユーモアのセンスとは、ただ冗談や駄洒落をとばしたり、わざと滑稽を装おうとすることではないのだ。
それは、けっして他を容認しようとしない極端さに伴うアイロニーを見てとることにつながっている。
そうすればその極端さを深刻にとらえたり、希望と恐れのゲームをしかつめらしく演じることはなくなるはずだ。

だからこそ精神的な道を体験することは深い意味をもつ。

瞑想の実践はあらゆる体験の中で最もあたりまえのことだ。

私たちがそれに価値判断を加えないからこそ、それはあたりまえなのだ。

価値判断を加えることなく開かれるという、その意味性をもたぬ状態にひとたび溶け込んでしまえば、自分のまわりに起こっているあらゆるゲームを見とおすことができる。

厳格に精神的な重々しさを保ち、善人であろうと努力している人に対して誰かが彼の気持ちを傷つけるようなことをしたならば、彼はそれを深刻に受けとり、けんかさえ始めかねない。

あなたがあるがままであることの根本的な単純さに身をゆだねているならば、そのような厳格さや、ものごとをすべて大げさにとらえようとする人々の態度に、ユーモアを見はじめるだろう。
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唯我独存

Author:唯我独存
ヨーガ・瞑想暦20年ほど。レイキマスター。日々この瞬間を大切にすることをモットーとする。気付き、寛ぎ、ハートの三つから、今ここにあることを体得し、それを伝えていこうとしている。

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