スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

タントラへの道 開かれた道4

開かれた道=大乗への鍵としての慈悲があってこそ、菩薩の超越的な行為は可能になる。

菩薩の道は寛容(布施)と開放―――与えることと開くこと、という帰依のプロセスから始まる。

開くことは人に何かを与えることではなく、自分の要求と要求のもとになっている様々な基準を捨てることだ。

これが本当の意味でのダーナ・パーラミター=布施の波羅蜜だ。
それは自分の場を守る必要はないという事実を信頼することを学び、自分は根源的に豊かさをもっているがゆえに自己を開くことができるという自信を培うことだ。

これが開かれた道だ。

ものごとを〈要求する〉心理的な傾向を破棄したときに、はじめて私たちが本来もっている健全さが現れてくる。

それが菩薩の次の行為であるシーラ・パーラミター=徳行あるいは持戒の波羅蜜へと私たちを導く。


 自己を開いたとき、そして、「自分がこれをしている。自分があれをしている」という基準や自分自身に対する考慮をすべて放棄したとき、エゴを維持したりものごとを集めることに関連した他のさまざまな状況は何の意味ももたなくなる。

これが完全な徳行であり、私たちの開かれた状態、勇気ある状態をより確固としたものにする力となる。

完全に開かれているあなたには、自分や人々を傷つける恐れがない。
あなたは状況に飽きることもない。

それはクサーンティ・パーラミター=忍耐(忍辱・にんにく)につながってゆく。
そして忍耐がエネルギー=ヴィリヤ―――すなわち本質的な悦びへと私たちを導く。

関わり合うことの測り知れない悦び、それはエネルギーであり、開かれた瞑想の広大なヴィジョン―――ディヤーナ(禅定)の体験つまり開放をもたらす。

そのとき、あなたはすでに生のダンスやドラマに深く関わっているがゆえに、外的な状況を自分と切り離されたものとは見なさない。

そしてあなたはさらに開かれる。
あらゆるものごとを拒むこともなければ受け入れることもない。
それぞれの状況にただ調和してゆくのだ。
敵を打ち負かそうとすることもゴールに達しようとすることもなく、どのような戦いも経験しない。
集めることにも与えることにも巻き込まれない。
希望も恐れもまったくない。

これがプラジュナー=超越的な知恵が発達したときの状態だ。
それは状況をありのままに見ることのできる能力だ。


 このように開かれた道の主要なテーマは、エゴの基本的な戦いを放棄しはじめなければならないということだ。
慈悲と愛の本当の意味は、完全に開かれていること、自分自身を絶対に信頼することなのだ。

愛や平和や穏やかさについて世界中で実に多くのことが語られてきた。

しかしどのように愛を実現するのか?
キリストは言った、「汝の隣人を愛せよ」と。

しかしどのように愛するのか?
自分の愛をどのように全人類、全世界に向かって放出したらよいのだろう?

 「愛はかくべからざればなり。それこそが真実なり。」
 「汝愛さざれば罪をなすなり。あくなり。汝人類に害をもたらすなり。」
「汝愛すれば道の上にあり。正しき進路にあり。」

 しかしどのように?

愛について非常にロマンティックな考えをもつ人は多い。
実際は愛という言葉に陶酔しているのだ。

しかしやがてギャップが起こり、愛によって高揚できない時期がやって来る。
何か恥かしい私的なできごとが起こる。

私たちはそれを隠そうとする。それは〈私的な〉恥かしいこと。
私たちの神聖さには属さないことだ。それについて考えるのはよそう。
それよりももうひとつ別の愛に点火して爆発させよう―――こうして次々にそれは続けられる。
自分の中にある自分が拒絶したい部分は無視して、高潔で愛にあふれ、心優しくあろうと試みるのだ。


 私は、愛は美とロマンティックで喜びだけの体験ではないと思う。
といったら失望する人も居るだろう。

愛はこの世の美に結びついていとどうじに醜さ、憎しみそして怒りとも結びついている。
それは天国の再現ではない。
愛や慈悲そして開かれた道は〈あるがまま〉に結びついている。

愛―――普遍的な愛とでも宇宙的な愛とでも、どう呼ぼうとかまわないが―――を培うためには、明も暗も、善と悪もすべてを含めた生の状況をあるがままに受け入れなければならない。
生に対して自己を開き、生とコミュニケートしなければならない。

おそらくあなたは愛と平和を培うために戦い、それらを得るためにあがいているのだろう。

「われわれはやり遂げる。愛の教えをあらゆるところに広めるためなら何千ドル使ってもよい。愛の宣言をするのだ。」

 よろしい、宣言しなさい。
やりなさい。
大金を費やしなさい。

しかしその行為を推し進めているスピードと攻撃性はどうなのだろう。

自分の愛を人に受け入れてもらおうとなぜ押し付けるのだろう。
なぜそんなに性急で強引なのだろう。

もしあなたの愛が人の憎しみと同じスピードと推進力で動いているとしたら、どこかが来るって来るはずだ。

それは闇を光と呼ぶのに似ている。

そこには相手を自分の愛に改宗させようとする野心がからんでいる。
つまりそれはあるがままのものごととコミュニケートしようとする開かれた状況ではない。

〈世界の平和〉の究極的な意味は、平和と戦争の概念をすべてまとめて放棄すること、そして世界の肯定的な側面にも否定的な側面にも等しく自己を開くことだ。

それは空中の一点から世界を眺めることに似ている。
世界には明るい部分も暗い部分もある。
そのすべてが受け入れられるべきだ。
闇に対立するものとしての光を擁護しようなどとはしないことだ。

菩薩の行為は、月が百の器のひとつひとつの水面にその陰を映すことに似ている。
それはつきの意図によって起こるものでもないし、他の誰かが企てたことでもない。

しかし何か私たちに解明できない理由によって、百の器に百の月影が映る。

開くことは、このような絶対的な信頼と地震をもつことだ。慈悲の開かれた状態もそのように起こる。

百の器のひとつひとつの水面に月を映そうと故意に企てることによって起こるのではない。
私たちが何かを証そうとすることにとらわれすぎていることが最も大きな問題だと思われる。

 これはパラノイオアと、つねに何かが足りないという感覚に結びついている。

何かを証そうとか得ようとかするとき、あなたはもう自己を開いてはいない。
あらゆることをチェックし〈正しく〉脚色しなければならないからだ。

 それはあくまでパラノイア的な生き方であって、実際には何も証しはしない。
数や量の上では記録を作るかもしれない。

―――最も偉大な最も大きなものを築き上げた、最も多く最も長く最も巨大なものを収集した。
しかしあなたが死んでしまったら、いったい誰がそのような記録を思い出すだろうか?

百年後には? 十年後には? いや十分後には?

本当に意味のある記録はいまという与えられた瞬間の記録だけだ。
つまり、いま、本当のコミュニケーションと開放が実際に起こっているかどうかということだけが問題なのだ。

これが開かれた道、菩薩の道だ。

菩薩はなにごとにもこだわらない。
たとえあらゆる仏陀から彼こそ世界中で最も勇敢な菩薩であることを証すメダルをもらったとしても、いっこうに気にかけない。

どの聖典にもメダルを受け取った菩薩の話など書かれてはいない。
菩薩には何を証す必要もないがゆえに、それは当然のことなのだ。

菩薩の行為は自然に起こるもの。
それは開かれた生であり、戦いやスピードにとらわれることのないコミュニケーションだ。
スポンサーサイト
最新記事
プロフィール

唯我独存

Author:唯我独存
ヨーガ・瞑想暦20年ほど。レイキマスター。日々この瞬間を大切にすることをモットーとする。気付き、寛ぎ、ハートの三つから、今ここにあることを体得し、それを伝えていこうとしている。

月別アーカイブ
カテゴリ
カレンダー
04 | 2010/05 | 06
- - - - - - 1
2 3 4 5 6 7 8
9 10 11 12 13 14 15
16 17 18 19 20 21 22
23 24 25 26 27 28 29
30 31 - - - - -
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QRコード
メールフォーム

名前:
メール:
件名:
本文:

最新コメント
最新トラックバック
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。