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タントラへの道 開かれた道1

ここまで話せば、開かれた道を見いだすためには、まず自分をさらけ出すことによって自分の自己欺瞞をありのままに経験しなければならないということがはっきりするだろう。

私たちは自分が大望をもつことに用心深くなりすぎたあまり、開かれた道などという楽観的な問題を考察することにためらいをさえ感じるかもしれない。
しかし、この用心深さは実は自己欺瞞のもうひとつのあらわれであるとも言える。

つまり、完全であることをはかり、極端に用心深くあることを理由に教えを無視することもできるのだ。


 〈入門〉の章で話し合ったように、開かれた道へのアプローチは自分をさらけ出す経験の中に含まれている。

生に対して自己を開くこと、ありのままであること、自分の肯定的な面と否定的な面の全てを精神の友の前にさし出し、ともにその道を極めることにある。

しかしそうして自分をさらけ出し、入門することによって二つの心の出会いを経験すると、あなたはその経験を価値づけしたいと思うだろう。

自分はあれほどふつうでないことを経験したのだ。
自己を開くことができたのだ。
そして〈精神の友〉も心を開いてくれた。
自分ははじめて自分自身と〈精神の友〉との両方に本当の意味で出会ったのだ。
それは実に心を沸き立たせるような楽しいできごとだった。


 ここで問題になるのは私たちがつねに自分の安全を確かめ、自分は大丈夫なのだと自分に証さずにはいられないことだ。

私たちはしがみつくことのできる確かなものをたえず捜し求めている。
二つの心の出会いという〈奇跡的な〉状況は実はすばらしい体験であり、奇跡や魔法が起こるのではないかという私たちの期待を励ますようなできごとだった。


 そこで自己欺瞞の次の段階は魔法が実際に起こるのを見たいという欲望をもつことだ。

私たちはこれまでに偉大なヨーギやスワミ(僧)、聖者や神の化身たちについて書かれた本を何冊も読んでいる。
それらの本はいずれもただごとでない奇跡を語っている。
壁を突き抜けて歩いたとか、世界をひっくり返して逆さまにしたとかいうさまざまな奇跡。

あなたはこれらの奇跡が本当に起こるのだということを自分自身で証明したい。
なぜならそれによってあなたは自分がグルの側にいること、その教義や奇跡の信奉者であること、そして自分がやっていることは安全でしかも強力なパワーをもっていること、いやむしろ非凡な体験であることを確かめることができるからだ。

あなたは自分が〈善人たち〉の側に加わっていることを確かめたい。
夢のようなことや桁はずれなこと、いや桁はずれをも超えたことをやってのけたあの特別な人々の仲間に加わりたい。
世界を逆さまにひっくり返した人々のひとりになりたいのだ。
「自分は床の上に立っているとばかり思っていたのに、ふと気がつくと天井に立っていたんだ!」というふうに。

〈精神の友〉との突然の出会い、二つの心の出会いはあなたにとってたしかにリアルな純粋な体験であり、衝撃的でさえあった。
本当に奇跡だったのかもしれない。

おそらく絶対的にそうだとは言えないにしても、そのような奇跡が起こったということは自分が何かに向かって進んでいること、ついに本当の道を見いだしたことを意味するのに違いないというわけだ。


 自分がやっていることは正しいと自分に言い聞かせようとする執拗な試みはあなたの心が非常に内向的な状態にあることを示している。

自分自身とその状態を意識しすぎているのだ。
自分は少数派であり、非常に桁はずれなことをしていてほかの誰とも違うのだという感覚。

このように自分がユニークであることを証明しようとすることは、自分の自己欺瞞を正当化しようとする試みに他ならない。

「たしかに自分はただならぬことを体験した。たしかに奇跡を目のあたりにした。そしてたしかに深い内観を得た。だから自分は進んでいるのだ」という態度は非常に閉鎖的で内向的なものだ。

私たちには友人たちや肉親たちや外の世界に関わっている暇がない。
自分のことにしか感心がもてないのだ。


 しかしこのようなアプローチはやがて退屈でカビ臭くなってくる。
私たちは自分が自分を欺いていたことに気づきはじめ、本当の開かれた道に近づこうとする。

自分が信じていたものは幻想にすぎなかったのではないか。
価値づけをすることによって自分の体験をゆがめていたのではないか、という疑問が湧いてくる。

 「たしかに自分は瞬間的な悟りの閃きを体験した。しかし同時にその体験を所有しそれにしがみつこうとした。そのために体験は消えてしまった。」


 私たちは自己欺瞞が何の役にも立たないことに気づきはじめる。
それは本当に自己を開くことではなく、ただ自分を安心させようとするものであり、内にだけ向かって自分に触れようとすることであり、さらに自分自身に何かを証明しようとすることにすぎないことがわかってくる。
すると私たちは自分に罰を加えようとするかもしれない。

 「自分を欺かないように試みることは、もうひとつの自己欺瞞になるのではないだろうか? そしてそれを避けようとすることもまた自己欺瞞だ。どうしたらこの循環から自由になれるのだろう?自由になろうとすることさえもうひとつの自己欺瞞かもしれない。」

 こうして止まることなく連鎖反応が起こる。次から次へと重なっていくパラノイアの連鎖反応だ。


 自分の自己欺瞞に気づくと、私たちは極度のパラノイアと自己批判に悩まされる。

それは有益なことだ。
大望をもつことや開こうとすること、そして自分を元気づけようとする望みの無意味さを深く知ることはよいことだ。

それは精神性に対して私たちが異なった態度をとることの基礎になる。
私たちが見つけ出そうとしているポイントはいつ本当に開くのかということだ。

私たちの心の動きは幾重にも折り重なっている。
それは肉に食いこむ足の爪のように内に向かっている。
もしこうしたらあれが起こるだろう、もしあれをやったらこうなろう、と次々に重なっていく。

どうしたら自己欺瞞から抜け出せるのだろう?


 自分は自分の中に自己欺瞞があることを認める。
それはわかっている。
しかしどうしてそこから抜け出せるのだろうか?
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唯我独存

Author:唯我独存
ヨーガ・瞑想暦20年ほど。レイキマスター。日々この瞬間を大切にすることをモットーとする。気付き、寛ぎ、ハートの三つから、今ここにあることを体得し、それを伝えていこうとしている。

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