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タントラへの道  入門 その2

私たちが自分の内部に備えているさまざまな自己防衛規制は、過去に学んだ知識や、読んだ書物や、体験や、抱いてきた夢などによって形づくられたものだ。

しかし、最終的に私たちは、精神性とは何を本当に意味するのかを問わざるをえない。

それは、単に信仰厚く、敬虔で、善良であろうと試みることなのだろうか?
 それとも、他の人々よりも多くを知ろうとし、人生の意義をより深く学ぼうとすることなのだろ
うか?

 精神性の意味は、いったい何なのだろうか?

 家族代々が属する教会の、聞きなれた理論や教義なら、いつでも持ち出すことができる。

しかしそれはどことなく、私たちが求めている答えとは違うものだ。
あまりにも効果がなく、応用がきかない。そこで、私たちは、自分の生まれついた宗派の教義教理からは離れていくことになる。


 精神性とは、非常に刺激的で、多彩なものだと決めている人もいるだろう。

それは、エキゾティックで異質な宗教、宗派の伝統を探検するときに起こることだ。
私たちは、種類の違う精神性を取り入れ、それらしい態度を取り、声の調子、食べ物の習慣から、ふるまい全般にわたってかえようとする。しかししばらくすると、そのように精神的であろうとする意識的な試みは、あまりにもぎごちなく、見えすいていて、変わりばえがしない。

そのようなふるまいのパターンが習慣になり、第二の本性になるよう志すのだが、どうしても完全には板につかない。

それらの「超然とした」物腰が、自然に自分の装いの一部になることを望むだけ、私たちの心はまだ依然としてノイローゼにかかっているわけだ。

私たちはいぶかりはじめる。「これこれの宗派の聖典にしたがってやってみたのに、なぜこんなことになったのだろう?
 これは、もちろん、自分の混乱のせいに違いない。次にはいったい何をしたらいいのだ?」。

経典を誠実に守ったにもかかわらず、混乱は少しもなくならない。

 ノイローゼと不満はなくならない。
何もかも、電気の接触のようにパチッとはいかない。
私たちは教えに接触しなかったのだ。


 このときに至って、私たちは〈二つの心の出会い〉を真に必要とする。
アビシェーカなくしては、精神性に達しようとする私たちの意図も本当の帰依でなく、むしろ膨大な精神性のコレクションに終わってしまう。

 これまでに私たちは、ふるまいかた、話しかた、切るもの、考えかたのパターン、そしてまったく異なった行動のしかたなどを集めてきた。
それらはすべて、自分で自分に押し付けようとしている、単なるコレクションにすぎない。


 アビシェーカ=真の入門は、ゆだねることによって起こる。
私たちは、あるがままの状況に自己を開き、それによって師との本当のコミュニケーションをもつ。
いずれにしても、グルはすでに開かれて、私たちとともにそこに在る。

私たちが開き、これまで集めたコレクションを放棄する意志さえあれば、入門は成立する。

〈神聖な〉儀式の必要はない。

実は、入門を〈神聖な〉ものと見なすこと自体、仏教徒が〈マーラ(悪魔の)娘たち〉と呼ぶ者の誘惑ではないのか。

マーラは、ノイローゼ的な精神の状態、アンバランスな人間の状態の象徴であり、私たちを誘惑するために、その娘たちを送ってくる。

二つの心の出会いが実際に起こっている入門の場に、マーラの娘たちがやって来ると、彼女たちはあなたにささやく。

「深い安らぎを感じるでしょう?それはあなたが、精神的名教えを受け取っているから、いまあなたにはとても精神的名ことが起こっているからよ。これは本当に神聖なこと。」


 彼女たちは、甘い声ですてきな美しい祝詞を述べ、このコミュニケーション、この〈二つの心の出会い〉は〈すごいこと〉なのだと、私たちに信じこませようと誘惑する。

そこから、精神の、さらなるサンサーラ(輪廻)的パターンが誕生する。
それは、キリスト教の、禁断のリンゴをかじるという考えに似ている―――

それは誘惑なのだ。
私たちが、アビシェーカを神聖なものと見なすとき、そう価値づけることによって、精密さと鋭敏さがただちに消え失せる。

私たちの耳には、かくも聖なることをやり遂げた私たちへの、マーラの娘たちの祝福が聞こえてくる。
彼女たちは音楽を奏で、踊りまわって、この儀式にのぞむ私たちを賞め讃える。


 二つの心の出会いは、ごく自然に起こるのが本当だ。

師と弟子が、開かれた境地で出会う。そして、開くことは、この世で最も単純なことであることをともに悟る。

それは、最も取るに足らぬ、実に平凡な、まったく何でもないことだ。

自分自身や世界について、このような見方をすることができるとき、教えの伝達はじかに起こっているのだ。


 チベットの伝統では、このような物の見方を〈あたりまえの心=タマル・ギ・シェパ〉と呼んでいる。

あらゆるものごとの中で最も単純なこと、完全な開放、あらゆる収集と評価の不在を意味する。
それほどの単純さには重要な意味があり、それほどあたりまえのことこそ、実は非凡なことだと言うこともできるだろう。

しかし、これはただ、マーラの娘たちのさらなる誘惑にすぎないだろう。

結局私たちは、特別な存在であろうとする試みを放棄しなければならないのだ。
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唯我独存

Author:唯我独存
ヨーガ・瞑想暦20年ほど。レイキマスター。日々この瞬間を大切にすることをモットーとする。気付き、寛ぎ、ハートの三つから、今ここにあることを体得し、それを伝えていこうとしている。

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