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了義と未了義

また大乗仏教を含む、仏教の様々な哲学学派の多様な説明を全体的に考察するには、様々な経典が、それぞれ了義(直接に真理を説いている経典)なのか、未了義(さらに解釈を必要とする経典)なのか、区別することが必要だということも分かってきます。ある特定の経典に基づいて、この区別を行おうとするならば、めやすになるテキストそのものが了義かどうかを実際に判断するために、また別の聖典が必要になります。

さらに、その妥当性を決定するために、別の経典がまた必要になります。このプロセスは無限に続くので、このやり方は、判断基準として、まったく不適当です。そのうえ、経典によって、了義と未了義を区別する方法が完全に逆になっている場合もあります。ですから、結局は、論理に基づいて、その経典が了義か未了義か、自分で判断しなくてはなりません。このように、大乗仏教においては、論理が聖典より大事なのです。

ある特定の表現や経典が、未了義であるかどうかは、どのようにして決めればよいのでしょうか?未了義の経典には、様々なタイプがあります。たとえば、ある経典には、自分の親を殺さなくてはならないと書かれています。このような経典の言葉を、文字通り、額面通りに理解するわけにはいきません。さらなる解釈が必要です。この場合、親とは、汚された(有漏の)行いと執着のことです。それらの結果として、輪廻の中に再生する、それ故、そのような汚された行為と執着を断て、という意味なのです。

同じような表現は、「秘密集会タントラ」のような密教経典の中にも見いだせます。そこでブッダは、「仏を殺せ、仏を殺せば、最高の悟りに到達できるだろう」と言っています。
もちろん、このような教えを文字通りに受け取るわけにはいきません!

ダライ・ラマ14世 宇宙のダルマより



人はよく、経典にこうあるからとか、あの人が言ったから間違いないということになりがちである。しかし、果たしてそれでいいのか?という話になってくる。

経典を文字通り解釈してしまうと、とんでもないことになることもある。言葉は真実をそのままダイレクトにあらわすことはできない。そこで意味を取り違えてしまうことがよくある。言葉は有効なものではあるが、使い方を誤るととんでもないことになることもある。言葉は慎重に取り扱うべきものであり、言葉を使うには本来智慧が必要である。

言葉を文字通り受け取って良いのか?それとも解釈が必要なのか?ただ鵜呑みにするだけでなく、より深く考え吟味することが大切であろう。
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唯我独存

Author:唯我独存
ヨーガ・瞑想暦20年ほど。レイキマスター。日々この瞬間を大切にすることをモットーとする。気付き、寛ぎ、ハートの三つから、今ここにあることを体得し、それを伝えていこうとしている。

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