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タントラへの道 菩薩の道 3

持戒

 さらに進んで〈道徳〉〈持戒〉を意味するシーラ・パーラミターを調べてみると、そこにもまったく同じ原理が当てはまるのがわかる。

つまりシーラ=持戒は決められた一連の規則やパターンに自分をしばりつけることではない。

もし菩薩が完全に無私で、開かれているならば、彼はその開放に応じて行動すればよいのであって、規定に従う必要はない。
ただ自然にパターンにはまってゆくのだ。

菩薩が人を殺したり傷つけたりすることはありえない。

彼は超越した寛容を体験しているからだ。

菩薩は完全に自己を開いたのだ。

だから〈これ〉と〈あれ〉を差別しない。
ただあるがままのものに調和して行動するのだ。

菩薩を観察する人の目から見れば、菩薩はつねに正しい行為をしているように見える。
つねに適切なときに適切なことをするように見える。

しかし、自分で彼を真似ようとしてもそれは不可能だ。
なぜなら菩薩はけっして誤ちを犯すことがないほど緻密で正確な心をもっているからだ。

菩薩は予期しない問題にぶつかるということはけっしてなく、破壊的な混乱を巻き起こすこともない。

彼はただ自然にパターンにはまってゆくのだ。
たとえ生活が混乱しているように見えたとしても、彼はその混乱にはまりこみ、はいりこんでゆく。
するとなぜか、ものごとが自然に整理されてくる。
菩薩は奔流に巻きこまれることなく川を渡ることができるとでも言おうか。


 私たちが完全に開かれているならば、自分を見張ることなく完全に開いてあるがままの状況とコミュニケートしているならば、私たちの行為はつねに純粋で完全で秀れたものであるはずだ。

しかし努力して純粋な行為をしようとしても、ぎごちなくなってしまう。たとえ、行為そのものがどれほど純粋でも、そこにぎごちなさや堅苦しさがつきまとう。

菩薩の場合には、行為全体が自然に流れ、堅苦しさがまったくない。
まるで何年も費やして状況全体を計算したようにすべてがぴったり所を得ている。

菩薩は前もってよく考えてから行動するのではない。
ただコミュニケートしているのだ。

彼は開くという寛容さから出発してその状況のパターンに自然にはまりこむ。
菩薩の行為はしばしば像の歩みにたとえられる。けっして急がない。
ゆっくりと確実に、一歩一歩踏みしめてジャングルを通り抜ける。

ただ休みなく進んでゆく。
転ぶこともなく、道を誤ることもない。
一歩一歩がたしかでしっかりしている。



 忍耐(忍辱)
 菩薩の次の行為は忍耐だ。実際には、菩薩の六つの行為をそれぞれ独立した修行として厳密に分けることはできない。

ひとつの行為が次の行為を導き、それを具体化してゆく。

忍耐のパーラミターの場合、その行為は自分を抑制しようとしたり、勤勉な働き手になろうとすることではない。
また自分の肉体的、精神的弱点を無視して我慢に我慢を重ね、ばったり倒れて息絶えるまでがんばりつづけようとすることではない。

忍耐もまた持戒や寛容と同じように巧みな手段(方便)を伴うのだ。


 超越的忍耐はけっして何ものをも期待しない。
期待しなければ、我慢できないことはない。

しかし概して私たちは、人生に多くを期待し、自分を駆りたてる。

こうした行為のおおもとになっているのは衝動だ。

何かエキサイティングで美しいものを見つけると、私たちはそれに向かって強引に自分を駆りたてる。
しかし遅かれ早かれ押し返される。
前に押しやる力が大きいほど大きな力で押し返される。

なぜなら衝動という推進力は非常に強力であるが智慧を伴っていないからだ。
衝動的な行為は見るべき目を持たずに走っている人や、目的地に着こうとあせっている盲人の行為に似ている。

一方、菩薩の行為はけっして反動を引き起こさない。
何ものをも欲せず、何ものにも心を奪われることのない菩薩は、どのような状況にも適応することができる。

超越的忍耐の背後にある力は、早まった衝動やそれに類するどのようなものにも導かれていない。
その行為は象の歩みのようにゆっくりと確実でたえまない。


 忍耐はまた空間をも感じる。

それは新しい状況をけっして恐れない。

何ものも―――本当に何ものも菩薩を脅かすことはできない。

何が起ころうと―――それが破壊的であれ混乱したものであれ、創造的であれありがたいものであれ、心を奪うものであれ―――菩薩はけっして心を乱されることも、ショックを受けることもない。

それは自分と状況の間に広がる空間にきづいているからだ。

いったん状況と自分の間に広がる空間にきづけば、その空間でどんなことでも起こりうる。
何事が起ころうとそれは空間で起こる。
関わりや戦いの意味での〈ここ〉や〈あそこ〉で起こることは何もない。

したがって超越的忍耐とは、世界と流れるような関係をもち、けっして何ものとも戦わないことを意味する。
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タントラへの道 菩薩の道 2

寛容(布施)

 概して〈超越した〉寛容は、仏教経典の研究の中で、自分よりも低いものに対して新設であることを意味するのだと誤解されている。

誰かが痛みや苦しみの中にあり、自分は優越した立場にいてその人を助けてやれる―――これは無邪気にも人を見くだしてしまう道だ。

菩薩にとって寛容とはそのように冷淡なものではない。
それは非常に堅固でパワーのあるもの、つまりコミュニケーションなのだ。


 コミュニケーションはいらだちを超越しなければならない。
さもなければ、茨の繁みに快適な寝床を作ろうとするようなものだ。

色彩やエネルギーや光の中に「染みとおる外の世界の性質が私たちに向かって押し寄せ、茨のとげが肌を刺すように私たちのコミュニケートしようとする試みの中に入りこんでくる。
私たちはそのひどいいらだちを鎮めようとし、それによってコミュニケーションは妨げられてしまう。


 コミュニケーションとは光を放つこと、受け入れること、そして心を交わすことであるはずだ。
そこにいらだちがあるかぎり、私たちは自分に向かってやって来るもの、コミュニェーションとしてさしだされているものの広がりある性質を、正確にじゅうぶんにそしてはっきりと見ることができない。

「いや、いや、これが自分をいらいらさせるのだ。消え失せろ!」と叫ぶ私たちのいらだちによって、外の世界はただちに拒絶されてしまう。

これは超越した寛容さとは正反対の態度だ。


 菩薩はいらだちや自己を守ろうとすることを超越して、寛容という完全なコミュニケーションを体験しなければならない。
さもなければ、とげが自分を刺そうとしているとき、私たちは自分が攻撃されているのだ、身を守らねばならないのだ、と感じてしまう。

私たちは自分に与えられたすばらしいコミュニケーションの機械から逃げだしてしまい、川の向こう岸をながめるだけの勇気すらもたなかった。
うしろに目を向けて逃げようとばかりしているのだ。


 寛容とは、どのような哲学的、信仰的あるいは宗教的な動機ももたずに、心から与え、開こうとすること。
あらゆる状況のあらゆる瞬間に、そこで必要とされることをただやること、あらゆることを恐れることなく受け入れることなのだ。

高速道路の真ん中にいても、心を開くことはできる。
スモッグやほこりや、人々の憎悪や情熱が自分を呑みこんでしまうのではないかと恐れることはない。

ただ開き、完全に身をゆだね、与えるのだ。

つまり、判断や評価を加えないことだ。もし自分の体験を判断、評価しようとしたり、どこまで開き、どこまで閉じたままでいるかを決めようとしたりするなら、開くこと自体が何の意味もなくなってしまう。

そして、パーラミターの理念、超越した寛容の理念はまったくむなしいものになる。そのとき、私たちの行為は何ものをも超越せず、菩薩の行為ではなくなってしまう。


 超越という考えに含まれる意味のすべては、限られた観念や限られた概念、そして、〈あれ〉に対する〈これ〉という戦いの心理をみとおすということだ。

私たちがある対象を見るとき、自分が正確にその対象を見ることを許そうとしないのが一般的な現象だ。
実際にあるがままに対象を見るのではなく、機械的に対象につけ加えた自分の解釈を見ているのだ。

私たちはものごとに対する自分自身の解釈を自分の中で作りあげて満足する。
そしてそれについて論じ判断をくだし、それを受け入れるか拒絶する―――しかしそこには真のコミュニケーションはまったく起こっていない。


 超越的寛容とは、何であろうと持てるものすべてを与えることだ。
その行為は完全に開かれ、完全に赤裸々なものでなければならない。

判断するのはあなたの側ではない。

受け取る意志を示すかどうかは受け取る側の問題だ。

あなたの寛容を受け入れる準備ができていなければ相手はそれを受け入れないだろう。

準備ができていれば向こうからやってきて受け取るだろう。
菩薩の無私の行為とはそういうものだ。

菩薩は、「何か間違いを犯してはいないだろうか?」「自分はじゅうぶんに用心しているだろうか?」「誰に対して開いたらいいのだろう?」というような自意識をもたない。

菩薩はけっして誰にも味方しない。

象徴的な言い方をすれば、菩薩は屍のようにただ横たわっている。
他の人々が自分をながめ、調べるにまかせる。菩薩は彼らの思いのままだ。

それほどに気高い行為、完全な行為。
どのような偽善も哲学的、宗教的な判断も含まない行為。

だからこそそれは超越している。
だからこそそれはパーラミターなのだ。
それは美しい。

タントラへの道 菩薩の道 1

The Bodhisattva Path

私たちは単純さと精密さを旨とするヒーナヤーナの瞑想法について話し合ってきた。

間、つまりものごとがありのままに存在できる空間をもたせることによって、私たちは自分の生活の澄みきった単純さ、精密さを味わいはじめる。

それが瞑想の修行の始まりだ。

忙しく次から次へと湧いてくるとりとめのない思考や、心を満たしている無駄話の厚い雲を切り払いながら、私たちは第五スカンダ(識蘊)を通り抜ける。
そして次のステップは感情に取り組むことだ。


 感情を私たちの身体の筋肉と考えるなら、とりとめのない思考は、それにたえず養分を送っている血液循環にたとえられるだろう。

思考がさまざまな感情をつなぎ支える。

そこで私たちは、日常生活の中で心の中にとめどなく湧いてくる無駄話の合間の句読点のように、激しい多彩な感情が爆発するのを体験する。

思考と感情は、社会に対する私たちの基本的な態度とかかわり方を表わし、私たちが住む幻想の世界という環境をかたちづくる。これらの〈環境〉が六道なのだ。

ひとりひとりの心の状態は、六道のうちの特定の世界によって象徴されると言うことができる。
しかし、同時に他の世界につながる感情をもたえず経験してるのだ。


 これらの世界に取り組むためには、より広い視野から状況をながめることを始めなければならない。
それがヴィパシュヤナ(パーリ語ではヴィパッサナ)瞑想法だ。
ひとつの行為の緻密な細部だけではなく、状況を全体として意識するようにしなければならない。

ヴィパシュヤナは空間、つまり緻密さの起こる周囲の〈空気〉を意識することに関わる瞑想だ。
行為の緻密な細部を見ることができれば、その意識自体がある空間を作り出すとも言える。

小さな規模で状況を意識することが、より大きな規模での意識をもたらす。
ここからパノラマ的な意識、マハーヴィパシュヤナが発達する。

それは細部に意識を集中することよりも、むしろ全体のパターンを意識することだ。
私たちは自分の幻想に浸ってしまうのではなく、そのパターンに目を向けはじめる。

自分の投影による像と戦う必要はないこと、そして自分とその像を隔てている壁もまた自分が作り上げたものであることに気づく。
エゴの存在を支える必要のないことを悟るからだ。

そして開かれた寛容な心を持つことができる。
自分の投影による像に対処する別のやりかたを見つけることは私たちに大きな悦びをもたらす。

これが菩薩の達する最初の精神的な段階=第一のブーミ(「地」の意)だ。
私たちは菩薩の道、マハーヤーナの道、開かれた道、暖かみと開放の道にはいってゆくのだ。


 マハーヴィパシュヤナ瞑想では、自分と対象の間には大きく広がった空間がある。
状況と自分の間の空間が意識される。
その空間ではどのようなことも起こりうる。
関係とか戦いとか呼ばれるべきものはどこにも起こっていない。
言いかえれば、私たちは自分の体験に、概念化された考えや名前や分類をむりやりあてはめるのではなく、あらゆる状況に空間の広がりを感じるのだ。
このようにしてその意識は非常に緻密ですべてを抱合するものとなる。


 マハーヴィパシュヤナ瞑想は、ものごとがあるがままにあることを妨げないようにしようとするものだ。
そのためには、私たちの側からはどんな努力もする必要もないことがわかってくる。
なぜならものごとはすでにあるがままに存在しているからだ。
ものごとをあるがままに見ようとする必要すらないー――ものごとはすでにあるがままなのだ。
そうして私たちは開放と空間を真に味わう。
つまりその中で動きまわることのできる空間があるということ、そして自分はすでに意識しているのだから、意識しようと努力する必要のないことに思い至るのだ。

だからこそ、マハーヤーナの道は開かれた道、広がりのある道だ。
それは自分を目覚めさせ、自分の本能が湧き出てくるのを可能にするために、みずからすすんで心を開くことに関わる道だ。


 先に私たちは、コミュニケーションのために間をもたすことについて話し合った。
しかしそのような修行は非常にわざとらしく、自意識的なものだ。

マハーヴィパシュヤナ瞑想の実践では、故意に間を置き、故意に待ちながら、自分がコミュニケートするのを見守るだけでなく、コミュニケートしてあとはただスペースアウトするのだ。

あるがままにまかせてあとは気にしない。
あるがままにあることを自分の所有物か、自分の創り出したものであるかのように考えないことだ。
そうすれば目覚めた状態の自然な動きが湧き出してくる。


 マハーヤーナの経典には、自己を開く準備が完全にできている人々、もう少しで準備ができる人々、そして開く可能性をもっている人々について語られている。

開く可能性を持つ人々とは、そのことに関心をもってはいるものの、その本能が湧き出るのにじゅうぶんな間をもたせようとしない、知的な人々を指す。

もう少しで準備ができる人々とは、かなり開かれた心をもちながら、必要以上に自分を観察している人々だ。

そして開く準備が完全にできている人々とは、秘密の言葉、タターガタ tathagataの合言葉をすでに耳にした人々のことだ―――「誰かがすでにやってのけた。誰かがすでに超えて行った。それは開かれた道、可能な道、タターガタの道なのだ」という言葉を。

したがって、どのように、いつ、どこでということには関わりなく、ただ開く。

それは美しい。

それはすでに誰かに起こったことだ。

どうしてあなたに起こらないと言えよう?
 なぜ自分と他のタターガタを区別することがあろう?

 タターガタ tathagata とは、タタター tathata すなわち、〈あるがまま〉を体験した者、という意味だ。
〈あるがまま〉を体験した者、言いかえれば、タターガタという考えは、インスピレーションを与える方法、つまり出発点だ。

それは私たちに誰かがすでにそれを成し遂げたこと、誰かがすでにそれを体験したことを教えてくれる。
この本能がすでに誰かを奮い起こしたのだ。
それは目覚め、開き、そして知的であるという意味でクールな本能だ。


 菩薩の道は勇気ある者、タターガタの本性が力強く現に自分のうちにあることを確信する者の道だ。

タターガタのような考えによって実際に覚醒をおぼえる人はすでに菩薩の道にある。
その道は仏性を信じ旅を最後までやり遂げる力が自分の中にあることを信じる、勇敢な戦士の道なのだ。

ボーディ・サットヴァ bodhisattva(菩薩)とは、ボーディの道を歩むに足る勇気をもつ者、の意だ。

ボーディは目覚め、または覚醒の境地。
これは菩薩がすでに目覚めていることを意味するのでなく、すでに目覚めた者が歩いた道を歩む意志をもつ、ということだ。


 この道は自然に起こってくる六つの超越的な行為から成る。
それらは超越した寛容(ダーナ)(布施)、持戒(シーラ)、忍耐(クシャーンティ)(忍辱)、精進(ヴィールヤ)、瞑想(ディヤーナ)(禅定)、そして知恵(プラジュナー)の六つだ。

これらの徳行は六つのパーラミター(六波羅蜜)と呼ばれる。

パーラム param は、彼岸または岸、川の向こう岸、の意。イタ ita は、至った、の意。

だからパーラミター paramita は、彼岸に至ること、を意味し、菩薩の行為はヴィジョン、つまりものごとに対するエゴの自己中心的な考えを超越した理解をもたねばならないことを示す。

菩薩は親切な善人になろうとしなくても、自然のままに慈悲に満ちているのだ。

タントラへの道 四つの貴い真理 Q&A

▼ Q&A

Q―――間を置くことについてもう少し話していただけますか?

 あなたの言われることは理解できますが、それがどのように起こるのか、どのように間を置くのかがわかりません。
どのように〈ありのままにまかせる〉のですか?


A―――実はこの質問は次で取り上げる話題、つまり菩薩の道=慈悲と自由のマハーヤーナの道=広い道の問題につながっている。

しかも、ヒーナヤーナの単純さという視点からそれに答えるならば、私たちはそこに生まれた状況がどのようなものであろうと、それに満足し、外部からの慰めを探してはならないということだ。

ふつう私たちが話をするとき、私たちは相手に情報を伝えるだけでなく相手からの反応も得たい。
相手からも何かを得たいと思う―――これは非常に利己的なコミュニケーションのしかただ。

この相手からも得たいという欲望を捨てさえすれば間は自然に現われる。
努力して間を作り出すことはできない。



Q―――道に入ってゆく準備をしなければならないといわれました。
性急に飛びこんではいけない、いったん立ち止まらなければならない、と。

この準備についてもう少し話してくださいますか?


A―――私たちははじめ、精神的な探求をすることは非常に美しいことであり、自分のもっている疑問のすべてに答えてくれるものだと思っている。

このような希望と期待を同時に超えることが必要だ。
私たちは師が自分の問題をすべて解決してくれ、疑問に答えてくれることを期待するかもしれない。

しかし実際師に向かい合ってみると、あらゆる質問に答えてはくれない。
ほとんどのことを自分自身で解決するようにまかせられるだけだ。
それは私たちを非常に落胆させ、失望させる。


 私たちは多くの期待をもっている。
精神の道を求め、精神の物質主義に巻きこまれていればなおさらのことだ。

精神性が、幸福と慰めを、智慧と救済をもたらしてくれるものと期待する。
精神性に対するこのような、文字どおり利己的な見解は、完全にくつがえされるべきだ。

最後に、悟りなどというものに達するという希望をまったく捨てたときにはじめて道は開かれる。

それは、人が来るのをまつときに似ている。
相手が来るという希望がほとんどなくなり、彼が来ると思ったのは自分の一方的な想像にすぎなくて、最初から彼には来る気などなかったのだど思いはじめる。

そして希望を放棄した瞬間に彼が現われる。
精神の道も同じようなものだ。

あらゆる期待をそがれることがまず必要だ。
それは忍耐力を必要とする。
あまりエネルギッシュに自分自身を精神の道に押しやるのではなく。
しばらく待つことだ。

あまり性急に〈現実〉(リアリティー)を理解しようとしてはいけない。
精神性を探求しようとする自分の動機をまず見つめることが必要だ。
心を開いて〈善〉と〈悪〉をこえたところから道にはいってゆくならば、大望を持つ必要はない。


 ドゥッカの原因が何であるかを悟りはじめると、知識を求める旺盛な飢えを感じる。
苦しみを超越しようというあせりがある。

自分を救おうとあせって自分を精神の道に向かって押しやるならば、それは苦痛と混乱の道、サンサーラ(輪廻)の道になってしまう。
何かを学ぼうと熱心になりすぎたり、道において進歩しようとする野心に忙しくふりまわされる。
すると私たちは、ありのままの自分であることやプロセスの全体を前もって調べることを忘れてしまう。

精神の道に急いでとびつくのではなく、正しく徹底して自分を準備することが必要だ。

待ちなさい。
待って、〈精神の探求〉のあらゆるプロセスを調べてみることだ。
間を置きなさい。


 要するに、私たちには混乱を貫き通して光り輝く根源的な知性がそなわっているのだ。

例の猿の話の最初のたとえを考えてみよう。
あの家から脱け出そうとする猿は、壁を昇り降りして壁や窓を調べ、忙しく逃げ道を探す。

猿を駆り立てるその測り知れないエネルギーは、私たちを外に向かって押しやる原始的な知性だ。

この知性は私たちが播いて育てる種のようなものではない。
それは雲の合い間から輝く太陽のようなものだ。

間を置きさえすれば、どのように道を歩むかについての自然で直感的な理解が、突然そして自動的に得られるものだ。

これが仏陀の体験だった。

多くのヒンドゥー教の師について数え切れないほどのヨーガ法を学んだ後で、仏陀はただそれらのヨーガ法を応用しようとするだけでは完全な目覚めの状態に達することはできないことを悟った。

そこで彼はそれらのヨーガをやめ、ありのままの自分自身と取り組む決心をしたのだ。

それは道を貫きとおす、根源的な本能だ。

この根源的な本能を認めるのは重要なことだ。
それは私たちに自分が、罪深い人間でもなければ、本質的に悪人でもなく、何かを書いた人間でもないことを知らせてくれる。



Q―――単純であり、空間を経験しようとしながら同時に、実際的な生活の状況と取り組むにはどうしたらよいでしょう?


A―――わかるかな? 開かれた空間を経験するためには、大地の、そして形(色)の堅固さも経験しなければならないのだ。

それらは互いに関わり合っている。

開かれた空間をあまりロマンティックにとらえると、罠にはまってしまう。
開かれた空間を、世にもまれな不思議なところとして空想化するのではなく、むしろそれを大地に結びつけてとらえれば、そのような罠にはまることは避けられる。

空間はそれを枠で囲む土の輪郭がなければ経験することはできない。
もし開かれた空間を絵に描こうとするなら、それえは地平線として表現しなければならないだろう。

だから生の日常的な問題、台所の流しの問題につねに戻ってゆくのは必要なことだ。

日常的な行動の単純さと精密さが非常に重要だという理由もそこにある。
もし開かれた空間を知覚したならば、自分の古い慣れきった閉所恐怖を感じるような生活の状況に立ち戻り、その状況を間近にながめ、調べ、そしてその中に溶けこまなければならない。

そうすれば最後には状況の堅苦しさのもつ愚かさが、あなたの心を動かし、あなたはその状況の中に広大な広がりをも見ることができるようになる。



Q―――忍耐強く待つことができないときはどうしたらいいのでしょう?


A―――忍耐ができないというのは、そのプロセスの全体を理解していないからだ。
あらゆる行為はそのひとつひとつにおいて完全なものであることがはっきりわかれば、忍耐できないということはなくなるはずだ。



Q―――おだやかな思考と同時にノイローゼ的な思考も湧いてきます。
自分で培わなければならないのはこのような穏やかな思考なのでしょうか?


A―――瞑想の実践においてはあらゆる思考は同じものだ。

敬虔な思考、美しい思考、信心深い思考、そして穏やかな思考―――これらはみな思考であることに変わりない。

穏やかな思考を培い、いわゆるノイローゼ的な思考を押しのけようとしてはならない。

そこが興味深い点なのだ。

第四の貴い真理であるダルマの道に踏み入るということは、信心深く穏やかな善人になることを意味するのではない。

穏やかになろうとしたり、善人になろうとすることは、依然としてあがくことでありノイローゼの一面に過ぎない。

宗教的な方向に傾いた思考は見張り任、判事であり、一方混乱した世俗的な思考は行動派であり実行家なのだ。

例えば瞑想中に、日常的で家庭的な思考が浮かんでくるとする。
すると同時に見張り人が出てきてこう言うのだ。
「こんなことをしてはいけない。あんなことをしてはいけない。瞑想に戻ってくるのだ」と。

このような敬虔な思考もやはり思考にすぎないのであって、それを培う必要はない。



Q―――人とコミュニケートするときに、話と同様に間を使うことについてもう少し話してくださいますか? そのプロセスとエゴとどういう関係があるのですか?


A―――ふつう、人とコミュニケートするとき、私たちは一種のノイローゼ的なスピードに駆りたてられる。
このスピードに自然さを沁みこんでゆかせなかればならない。
そうすれば、コミュニケートしている相手に向かって自分を押し出したり、強いたりあるいは相手の重荷になったりすることはないだろう。

とくに、何か非常に興味深いことを話しているときには、ただ話すのではなく、相手にとびかかっていくようなことがしばしばある。

自然さはつねにあるにもかかわらず、思考によって曇らされている。

思考の雲の層に切れ目ができさえすれば、それは輝き出る。

手を伸ばしてあの最初の開放を見いだすのだ。
その開放をとおしてこそ根源的な知性は働きはじめる。



Q―――多くの人が苦しみの真理には気づくのですが、次のステップである苦しみの原因の真理、つまり苦しみの源を知ろうとしません。それはなぜでしょうか?


A―――私はその大きな原因はパラノイア(妄想)だと思う。

逃れたいのだ。
苦しみから逃げ出すことだけを考えて、苦しみをインスピレーションの源として見ようとはしないのだ。

苦しみというだけでじゅうぶんな悪という感じがするのに、なぜそれをさらに調べる必要があるのか、というわけだ。

非常な苦しみを経験して、それから逃れられないことに気づいた人々だけが、本当にそれを理解しはじめる。

しかし大部分の人々は、いらだちから脱け出そうとすることに忙しく、また自分で気晴らしを探すことに忙しくて、すでに自分が持っている素材である苦しみを見つめることができない。
それを見つめるのはあまりにも厄介だ。
あまり近くで見つめると、何か恐ろしいことを見いだすのではないか、というのが、パラノイア的な態度だ。

しかし、ゴータマ・ブッダともあろう人物から完全なインスピレーションを受けるためには、あなたは完全に開き、知性と強い好奇心をもっていなければならない。

たとえ、醜いものであろうと、苦痛に満ちたぞっとするようなものであろうと、あらうることを探求したいという気持ちをもっていなかければならない。
このような精密さを求めるこことが非常に大切だ。



Q―――目覚めた心にとっては、動機はどこからやって来るのですか?


A―――霊感による動機は思考を超えたところ、つまり〈善〉と〈悪〉や〈好ましい〉〈好ましくない〉という頭で作りあげた考えを超えたところから来る。

思考を超えたところには、私たちの本来の性質であり基盤である一種の知性がある。
それは直感的で原初的な知性、空間の感覚、そして状況に関わっていくための創造的で開かれた道だ。
このような動機は頭で考えるものではない。それは直感的で精密なものだ。



Q―――物質的な状況をコントロールすることによって精神を鍛えることができるのでしょうか?


A―――人生の状況におけるあなたの行為が何であれ、そこには精神と物質の関わり合いが、つねにある。

しかし、ただ物質という機械だけに頼ることはできない。
つまり、心の外にあるものを操ることによって心の問題を解決しようとしても無理だ。

私たちの社会には、ただそれだけをやろうとしている人々が実に多い。

人々は長い衣をまとって俗世物を捨て、人間としての常識的な習慣まで全部捨てて、非常に
厳しい生活をしようとする。しかし最終的には誰もが自分の混乱した心に取り組まざるをえなくなる。

混乱は心から生まれる。
だから、そのまわりであれこれ試みるのではなく、直接に心と取り組むことから始めなければならないのだ。
現象の世界を操ることによって心の混乱をなんとかしようとしても、そうはいかないだろう。


 生のダンスでは、物質は心を反映し、心は物質に反応する。
両者の間にたえまない交換が行われている。

ひとかたまりの石を握れば、その石の堅固な大地の感覚が手に伝わってくるはずだ。
その石の意思的な性質とどのようにコミュニケートするかを私たちは学ばなければならない。

もし花を持っているとすれば、その花の形や花びらの色が私たちの心の状態にもつながってくる。
外部の世界の象徴的な性質をまったく無視することはできない。


 しかし、はじめに自分自身のノイローゼにまっすぐに向かい合おうとしたように、私たちは直接的に心に向かうべきであり、物をもてあそぶことによって心の問題を避けることができるなどと思ってはならない。

例えば私たちが話し合ってきた例の猿のように、心の状態が非常にアンバランスで完全に混乱した人がいるとする。
彼にブッダのような着物を着せて瞑想の姿勢をとらせてみたところで、彼の心は同じようなきりきり舞いを続けるだけだろう。
しかしのちになって、彼の状態が安定し、単純な猿になることができれば、彼を静かな場所に連れていったり、あるいはどこかにこもらせることは少しは効果があるだろう。



Q―――自分の中に醜さを見つけると、どうしてそれを受け入れたらいいのかわからないのです。それを受け入れるよりは、避けるか変えたいと思うのです。


A―――そう、そういう気持ちを隠す必要はない。
またそれを変える必要もない。もっとよく調べてみなさい。

自分の中に醜さを見るというのは、ただの先入観にすぎない。
あなたがそれを醜いと思うのであって、その感覚はまだ〈善〉と〈悪〉という考えに結びついている。〈善〉や〈悪〉という言葉さえ超えるべきだ。

言葉や、頭で考えるさまざまな概念を乗り越えて、ただあるがままの自分に深く、より深くはいってゆくのだ。

最初の一瞥だけではじゅうぶんではない。
評価したり、言葉や概念を使うことなく、くわしく調べてみなければならない。

自分自身に向かって完全に自分を開くことこそ、世界に向かって自分を開くことだ。

タントラへの道 四つの貴い真理

The Four Noble Truths


猿の旺盛な好奇心、熱情、攻撃性などさまざまな性質をとおして、私たちは彼の多彩な肖像を描いてきた。
ここで猿がどのようにその苦境を切り抜けることができるのかをくわしく調べてみよう。


 私たちは五つのスカンダ(五蘊)を逆に通ってゆく瞑想法を使うことによって、エゴを理解し、超越するところまで行き着くことができる。

五蘊の最後の段階は、たえまなく心を通り過ぎるノイローゼ的な不規則な思考のパターンだ。
猿の見る六道の幻覚とともにさまざまな傾向の思考が展開する。
とりとめのない思考、バッタのように跳びはねる思考、展示品のような思考、映画のような思考―――。

私たちが出発しなければならないのは、この混乱の場所からだ。
この混乱を明らかにするには、仏陀が法輪をはじめて回したときに説かれた四つの貴い真理(四諦)を吟味するのがよいだろう。


 四つの貴い真理とは、苦しみの真理(苦)、苦しみの原因の真理(集)、目標の真理(滅)、そして道の真理(道)のことを言う。私たちは苦しみの真理から出発する。
つまり猿の混乱と狂気から始めなければならないということだ。


私たちはドゥッカ―――サンスクリット語で、苦しみ、不満、あるいは苦痛を意味する語―――の現実を見ることから始めなければならない。

不満は、心が始まり終わりもないと思われるような動きでくるくる回りつづけることから起こる。

思考のプロセスは、過去の志向、未来の志向、そしていまの思考へと果てしなく続く。
これがいらだちを生むのだ。

不満、ドゥッカ、つまり自分の生活には何かが欠けている、何かが不完全だという感覚がたえずくりかえされ、これが思考を生み出し、またその感覚が思考そのものなのだ。
とにかく、どこかがおかしい、何かが足りないというわけだ。

そこで私たちはそのすきまを埋め、万事うまく行くようにし、少しでも余分な苦しみか安全を見つけようとつねに努力する。
このたえまのないあがきと行動への没頭はいらだちと苦痛に満ちている。

最後には自分が自分であることさえいらだたしくなってくる。


 したがってドゥッカの真実を知ることは、実は心の中のノイローゼを知ることだ。

私たちは強力なエネルギーであっちこっちへ引きずりまわされている。
食べ、眠り、働き、遊ぶ―――何をしていようが、私たちの生活にはドゥッカ、つまり苦痛と不安がつきまとっている。

楽しみを味わっていてもそれを失うことを恐れる。
それ以上の快楽を求めるか、それを維持するために努力する。
また苦痛があればそれから逃げようとする。

私たちはつねに不満の中にいる。
あらゆる行動が不満と苦痛をたえまなく内に含んでいるのだ。


 なぜか私たちは、自分自身に生活の香りを味わうときをまったく与えないようなパターンで生活を設定する。

たえまなく忙しく働き、たえまなく次の瞬間を求めるこの生活は、たえまなく何かをつかみとろうとする性質をもっている。

これがドゥッカ、第一の貴い真理だ。
苦しみを理解し、それに直面することが第一のステップだ。


 自分の不満にはっきりと気づいた私たちは、その理由、不満の根源を探りはじめる。
思考と行為をつぶさに調べてみれば、自分が自分を支え、高めるためにつねにあがいていることがわかる。

そしてこのあがきが苦しみの根であることに気づく。
そこであがきのプロセス、つまりエゴがどのように育ち、働くのかを知ろうとする。

これが第二の真理、苦しみの原因の真理だ。


 「精神の物質主義」の章で話し合ったように、多くの人が、苦しみの根はエゴなのだから、精神性の目標はエゴを征服し、破壊することに違いないと誤解している。

私たちは、重苦しいエゴの手を取り除こうとして戦う―――しかしすでに見たように、その戦いは、ただエゴのもうひとつ現われかたに過ぎない。

私たちは戦いを通じて自分をよりよいものにしようと堂々めぐりを続け、ついに自分をよりよいものにしようという大望こそが問題なのだと気づく。

ものごとを見とおす力が生まれるのは、戦いの中にあって隙間(ギャップ)が起こるとき、思考から免れようとする試みを放棄したとき、敬虔な善の思考の味方になり、不純な悪の思考を敵にまわすことをやめたとき、そして思考の性質をただながめる余裕を自分に与えたときに限られる。


 私たちは健全で目覚めた本性が自分に内在することに気づきはじめる。

その本性は戦いがないときにだけその姿を現わす。

そこで私たちは第三の真理、目標の真理を発見する。
すなわち、心に戦いをもたないことだ。

自分を守り、確立しようとする努力をあっさりやめさえすれば、目覚めた境地はそこにある。
しかしすぐに私たちは、〈ありのままにゆだねる〉ことができるのは、ほんの短い間であることを知る。

〈ありのままにある〉状態にはいってゆくためには、何らかの訓練を必要とする。
精神の道を歩まねばならない。
苦しみから解脱への道を旅する間に、エゴは古い靴と同じようにひとりでにすり切れてしまうはずだ。


 そこで第四の真理である精神の道、瞑想について検討してみよう。

瞑想の実践は、恍惚(トランス)に似た状態にはいることをめざしているのでも、特定の対象に心を集中することを目標にしているのでもない。

インドでもチベットでも、〈精神集中〉と呼ぶことのできるいわゆる瞑想法が発達してきた。

この瞑想法は、心のコントロールと、集中をより効果的にするために、心の焦点をある特定の一転にしばることにもとづいている。

瞑想者はひとつの対象を選んで、それに視点を定め、考えを向け、心に描いて注意のすべてをその対象に集中する。
それによってある種の心の静けさをむりやり発達させようとするのだ。

私はこの種の修行を〈心の体操〉と呼ぶ。
なぜなら、それは与えられた生の状況全体に取り組もうとはしないからだ。

それは生に対する二元的な見方を超えるのではなく、完全に〈これ〉と〈あれ〉、主体と対象にもとづいている。


 一方、サマーディ(三昧)の修行は〈集中〉を必要としない。

これをさとることは非常に重要だ。

〈集中〉の修行は、そう意図しなくてもエゴを強める働きをすることが多い。
集中は心の中に特定の目的と対象を置いて行われる。
そのため私たちの中心は〈心〉になりがちだ。

花や岩やあるいは 炎に心を集中することから始め、その対象を凝視する。

しかし精神的には〈心〉に可能なかぎり不覚はいりこんでゆこうとするのだ。
減少のもっている固定的な側面、安定と静止の性質をより強調しようとするわけだ。

長期的に見れば、このような修行は危険性をはらんでいる。
瞑想者の意志力の強さに頼る修行は、あまりにも堅苦しく凝り固まり、またまじめくさった内向性を生み出しかねない。

このような修行は、開放やエネルギーやユーモアのセンスをもつことの助けにはならない。

修行者は自分に修行を強いなければならないと考えることから、非常に重苦しくまた独断的になりやすい。
修行は深刻でまじめくさったものであるべきだと考えるのだ。
これは私たちの心に競争心を生む。

自分の心を束縛できればできるほど成功なのだという態度―――これはむしろ独断的、権威主義的なアプローチだ。

つねに未来に焦点をおく考え方はエゴの習性だ。

「自分はこれこれしかじかの成果を得たい。自分には実現したい理想的な理論や夢があるんだ」。

私たちには未来に生きようとする傾向があり、人生の展望は理想のゴールに到達する期待で彩られる。
その期待のために、私たちはいまの精巧さ、開放、そして知性を取り逃してしまう。

理想のゴールに心を奪われて目がくらみ、圧倒されてしまうのだ。


 エゴのもつ競争的な性質は、私たちが住んでいる物質主義の世の中では簡単に見いだすことができる。

もし大金持ちになりたいと思ったら、私たちはまず心理的に大金持ちになろうとするだろう。
大金持ちになった自分を想像することから始め、次にそのゴールに向かって必死に努力する。
それに到達できるかどうかにはかまわず、とにかくむりやりその方向に進んでいく。

このアプローチは一種の目隠しを作り出す。
あまりにも未来の中に生きるために、いまの瞬間に鈍感になってしまうのだ。
瞑想の修行でも同じ誤りを犯すことがありうる。


 真の瞑想修行とは、エゴから一歩外に踏み出す道だ。

したがって最初のポイントは、未来における目覚めた状態の達成にはあまり自分の焦点を置かないことだ。

本質的に瞑想の修行全体が現在の瞬間の状況、〈いま〉、〈ここ〉にもとづいているのであり、この状況、現在の心の状態に取り組むことを意味している

。エゴの超越に関わるあらゆる瞑想修行の焦点は、いまの瞬間にある。

だからこそそれは非常に有効な生活の道なのだ。
もし自分のいまの存在状態と周囲の状況を完全に知ることができれば、取り残すことは何もない。

そのような意識を育てるために、さまざまな瞑想法(テクニック)を使うことができる。

しかし、これらのテクニックは、単にエゴから外に踏み出すための方法なのだ。
テクニックは子どもに与えられたおもちゃのようなものだ。こどもが大きくなればおもちゃは捨てられる。

瞑想のテクニックも、忍耐力を養い、〈スピリチュアルな体験〉に対する夢を断つために必要なのだ。
修行のすべては自分といまとの関係にもとづいていなければならない。


 自分に瞑想の修行を強いる必要はない。
ただありのままにまかすのだ。そのようなでやりかたで修行をすれば、空間と流れる空気の感覚は自然にやって来る。

それは混乱を貫いて働いている仏性、あるいは根源的な知性の現われだ。

そのときあなたは、第四の貴い真理、〈道の真理〉を理解しはじめる。

それは単純さであり、歩くことを意識するようなものだ。
まず立っていることに気づき、次に右足がもち上がり、前に踏み出し、土に触れ、それに重みが加わることに気づく。
そして左足がもち上がり、前に踏み出し、土に触れ、重みが加わる。

いまの瞬間、〈いま〉、〈ここ〉にあることの単純さと鋭さの中で行われる行為には、数え切れないさまざまな細部がある。
呼吸を意識する方法もこれと同じだ。

息が鼻腔に流れこみ、吐き出され、ついには大気に溶けこんでゆくのがはっきりわかるようになる。

これは非常にゆるやかな、細分化されたプロセスであり、その単純さには正確な緻密さが含まれている。

行為が単純であればあるほどその精密さをはっきりと意識することができる。
日常生活の中で私たちが行うどのような行為も、美しく深い意味があることを悟りはじめるのだ。

 茶碗にお茶を注ぐのなら、あなたは腕を伸ばし、急須を取り上げ、茶碗に傾ける―――これらをすべて意識しつつ行う。
茶は茶碗に触れ、やがてそれを満たす。するとあなたは注ぐのを止め、急須を正確にもとどおりに置く。
日本の茶道のようにやるわけだ。

私たちは精密なあらゆる動きに品位があることを知る。
私たちはあらゆる動作を単純(シンプル)に精密にできることを長い間忘れていた。
生活のあらゆる行為に単純さと精密さをもたせることができる。
そうなれば、あらゆる行為が、測り知れない美と品位をそなえることができる。


 コミュニケーションの過程もまた、それを単純さ、精密さという視点から行えば、美しいものになりうる。

話の途中に置かれる間はすべて句読点になる。
話し、間を置き、また話して間を置く。

必ずしもていねいでまじめくさっている必要はない。
しかしせきこまず、騒々しく早口でしゃべらないのは美しい。

言いたいことをあわただしく吐き出し、その後で相手の反応を知るために失速したような感じで黙りこむ必要はない。
私たちは品位と的確さをもって、ものごとを行うことができるはずだ。

ただ間を置きさえすればいいのだ。
コミュニケーションにおいて、間は言葉を話すことと同じように重要なものだ。
相手に言葉と考えと微笑を一度に押し付けることはない。

間を置き、微笑み、話し、また間を置き、話し、そして間、句読点とやればいいのだ。
句読点の全然ない手紙を想像してみるがいい。
コミュニケーションはめちゃめちゃになる。

間を置くことについて自意識過剰になったり、固くなることはない。
ただその自然な流れを感じることだ。


 歩行を意識することなどの方法をとおして、あらゆる瞬間に状況の精密さを見る修行を、シャマタ瞑想と呼ぶ。

シャマタの瞑想は、小乗仏教=ヒーナヤーナ=苦行の道=狭い道に属すると考えられている。
シャマタは〈安らぎ〉に満ちていることを意味する。

仏陀が村の女に、井戸から水を汲むとき、どのように「意識をゆきわたらせる」かを教えた話が残っている。
仏陀は、水をくみ上げるときに、腕と手の精密な動きをはっきり意識するようにと説いた。

このような修行は、行為の中に、いまを見いだそうとするものだ。
そのためにそれはシャマタ、安らぎを育てることとして知られる。

その瞬間の現在生を真に見るとき、開放と安らぎ以外のものがはいりこむ余地はない。
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唯我独存

Author:唯我独存
ヨーガ・瞑想暦20年ほど。レイキマスター。日々この瞬間を大切にすることをモットーとする。気付き、寛ぎ、ハートの三つから、今ここにあることを体得し、それを伝えていこうとしている。

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