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動く瞑想

おととい何年かぶりに武道の練習をした。私は武道や格闘技にも関心があり、そちらの道に進もうかと考えていた時期もあったが、結局その方向には進まず、瞑想などの流れに向かうことになる。しかし、武道の関心がなくなってしまうことはなく、ずっと習いたいと思っていたが、なかなかその機会がなかった。しかし、久方ぶりに体験できることになった。

最初にウォーミングアップを行ったが、整体の技も取り入れたものであり、軽く触れられた状態で自然に力を加えられていったが、それだけで体がほぐれていくのがわかった。私は体の固い部分と柔らかい部分がはっきりわかれていて、筋肉そのものはあまり固まっていないが、肩や首筋などは非常にこっている。それが無理にほぐしたりすることもなく、自然にゆるんでいくのがわかった。

それから二人組で手を取り合って、片方は自在に相手を動かし、もう片方はその動きに逆らわずに完全に脱力していく。私は以前からヨーガや気功などの身体技法を行って、身体を脱力させることには慣れている。また、瞑想でも近頃は内面を緩ませることを主にやっているので、脱力することはそれなりにできていた。一緒に組んだ人もかなり緩んでいるとほめてくれた。相手の動きに逆らわずにゆらゆらと動いていると、なかなか心地よい。

そして相手を自在に動かしていると、どのようにすれば相手の体をコントロールしていけるかがわかってくる。そして、無理な力を入れることもなく、相手を投げることができる。これが無理な力が入っていると相手を投げることが難しくなり、また投げられないようにするためにも、力んでいると逆に簡単に転がされてしまう。無駄な力を抜いて、一本芯が通った状態にあると、簡単には投げられなくなることがよくわかった。

その後色々と技をかけてもらったが、こちらがどのような動きをしても、それを察知されて手首や肘を極められてしまう。久々に関節技をかけられたが、あまりの痛さに「いてててててーーー」とか「ぎゃーーー」と叫んでしまった。近頃はあまり大きくマインドが動いてしまうことや、恐怖感を感じることもなかったが、技をかけられる前には恐怖感や痛みを避けたいとマインドが動いてしまい、かけられてからは痛みにやはりマインドが揺れ動いてしまった。まだまだ肉体に対するとらわれや、痛みを避けたいと思う気持ちや恐怖心があるのだと理解することができた。

それまでは技も一般的な武道のものだったが、気を使って技をかけられると、自分の気が抜けていってしまい、地面にへたり込んだまましばらく動けなくなってしまった。私は気などにはかなり敏感な体質なので、気を入れられたり抜かれたりすると、大きく反応してしまう。気を使った武術は存在すると実感した。そのような体験ができたことは貴重だったが、気の流れが乱れて帰りの電車の中でも気分が少々悪くなってしまった。武術にはその場限りだけでなく、後々までにも影響を与える技が存在すると言われているが、私が受けたものもまさしくそのようなものであると感じた。

簡単な練習が終わってからはしばらく話をしたが、このような武道では、筋力よりも体の使い方や、気を感じることや、内的なセンサーを磨くことの方が大切だということがよくわかった。体において中心軸や丹田が大切だが、武道をやっている人でもそれがわからない人が多いということだった。以前の私はエネルギーや意識を上にあげることばかりに集中し、腹ができていなかったが、しばらく前からは腹をしっかりと据えることの大切さを理解し、バランスをとるようにしていた。丹田には上丹田、中丹田、下丹田とあるとされるが、どれが大切というものではなく、どれも大事でバランスをとることがやはり重要だと思う。

武道でも達人レベルになると、相手をどうこうしてやろうというのではなく、相手と一体化していくという。それどころか宇宙との合一もなされていくという。合気道の創始者である植芝盛平も「合気とは、敵と闘い、敵を破る術ではない。世界を和合させ、人類を一家たらしめる道である。合気道の極意は、己を宇宙の働きと調和させ、己を宇宙そのものと一致させることにある。合気道の極意を会得した者は、宇宙がその腹中にあり、「我は即ち宇宙」なのである。私はそのことを、武を通じて悟った。」と語っている。これは実際にそのような体験をしていったのだろう。私は武道においてもそのようなことは起こりうると感じた。瞑想にも通じるものがあり、武道はいわば動く瞑想、相手を伴う瞑想という見方もできる。もっともそのような観点で武道を行っている人は少ないだろうが、そのことを理解した人がいることもまた事実だろう。

このごろは静かに寛ぐことが多かったが、それだけではバランスを欠いてしまうので、武道の訓練などもして、動きの中にある静寂、静止の中にある動きを見出していくこともしようと思った。
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経験より大事なもの

 閃きと勝負ということを考えた場合、そこでは何段とか優勝やトロフィーの数という物質主義のものの見方や考え方は、まったく無意味だということがこれでおわかりいただけると思います。もちろん、長い経験ということも大事ですが、瞬間の閃き、空間の閃き、千日の閃き、これらは皆同一であり、これこそが最も大事なものです。

 閃きが出るまで四十年を越すものもありますが、それが自ずと出てくるための教え方も大事なことです。

 私の弟子で、マーチンというオランダ人の武芸者がおります。彼がある日、こんな手紙を書いてよこしました。(以下は奥さんの美絵子さんが代筆されたものです)

「平素のご無沙汰、年賀にかえてお許しください。先生、奥様、おそろいで良き新年をお迎えの事と思います。私どもも一同元気に新年を迎えました。昨年、マーチンの学校へ、タイ国の警視総監の方が見学に来られました。
 マーチンの技にびっくりされたとの事です。そして、日本で勉強した技と申しましたらまたびっくりされたとの事です。マーチンの申しますには、先生に五段の御免状をいただきますときに、先生からマーチンはもう要求に応じて新しい技を編みだすことができるよ、と言われ、その時は半信半疑でしたが、今は後輩の要求にいつも新しい技を編みだし、自分でもびっくりしているとの事です。
 初見先生はさすが立派な先生でいらっしゃると、今さらながらに感心を致しているところです。それでは、本年も御健康で御幸福で御活躍される事を祈りつつ。一九八〇年一月一日 マーチン代理 美絵子」

 このように、必要な時に必要な閃きが出るようなものが、本当の武道です。世の中を生きるのに経験を大事にしろと言われる方がおります。そういう方は、経験によって成功したり、失敗した方だと思います。千日加行して閃く閃きも、三日加行して閃くも同じであり、光陰矢の如しという人生観を持つ人は、三日閃きでもよいわけです。

いま忍者 この知的変身術 初見 良昭




経験は大切であるとよく言われる。確かにその通りであろうが、しかしその経験もきちんと生かされなければ意味がない。

いくら経験を積んだとして、それが閃きに昇華されて初めて意義のあるものとなる。無駄に経験をしてきたとしても、大きな意義のあるものではない。

確かに経験を積むことで、閃きが生じやすくなることも多いであろう。そのような形で経験を生かしていくことができればよい。しかし、経験を積まなくても、閃きが生じる場合もある。何が本当に大切なことかを、しっかりと理解することが、本来は重要なことであろう。

千日の加行も一日の修行も

さて、この無限の変化と一瞬の閃きということについて少しお話したいと思います。ある日私のところへアメリカから一通の手紙が舞いこみました。

 「初めてお手紙を差し上げます。私は十年前アメリカに留学し、大学卒業後アメリカ人と結婚したため、アメリカで骨を埋める決心をしているもので、名前は○○と申します。四十歳に近づいております。そして現在は、空手道と沖縄古武道を教えています。私は十三歳の時より空手を修行し免許をもらい指導員として頑張っております。
 近頃、初見先生のところで、アメリカ人が二ヶ月ほど修行して免許をもらったと言ってTVや新聞に出ておりますが、本当でしょうか?アメリカは非常に物質主義的で、武道においても例外ではなく、試合に数多く勝った者やトロフィーを数多く所持しているものが、立派な武道の指導者であるかのように考えている者がほとんどです。
 そのため、日本人の何名かは道場を閉じ、アメリカに失望しながら帰国したものもいます。もちろん、数年の努力の結果です……」

 以下も延々と続く長い文面でしたが結局のところは、武道というものは 、短時間では黒帯などとれるものではない、というものでした。私はさっそく、その疑問について次のような返事を書きました。

「私のところへは多数の外国人の武芸愛好家が訪ねて参ります。そして、ただ写真を一緒に撮らして下さいと言う観光者的外人の中には、私は何も教えていないのに、帰国後、私は初見先生のところで修行して、大変あなたは強いと言われ何段もらったと、自分で免状を書いて新聞やTVにその写真でPRする奴がいるのですね。私はそんな外人はなんとも思っていません。
本当の武芸というものは、四十年やってワンクール(一過程)であり、四十年修行しても閃きのない停電型修行者ではそれまでなのですから、ちょっときただけの外人には本当に無理な話です。
 しかしまた、昔は一日しか修行できなかった武芸者でも、何十年も修行した武芸者にたち向かわなくてはならない時代があったのですよ。そして勝って生きなくてはいけない、というギリギリの状態におかれたものです。おわかりですか。たった一日の修行の閃きで、何十年も修行した豪傑を倒す、これが武芸なのです。
 ここのところをよくよく悟ることが武芸者の生きざまに通じるということです。時間の長さが問題ではないのです。何年も修行してうんぬんと言うこと自体、武芸者にとっては、温室的考えに過ぎないのです」

 この手紙で私は、武芸者にとっては、千日の加行も一日の修行もまず関係ないといいたかったのです。むしろ千日ということは閃日(せんにち)すなわち閃きだと思います。

いま忍者 この知的変身術 初見 良昭




初見氏は、いいかげんな自称武術家がいつの世もはびこる中、本物の武術を伝承している。そういった人の言葉は、本当に説得力がある。

長年の修行は大切である。しかし、閃きがでないようでは、意味をなさなくなってしまう。そして、閃きは四十年の修行で生じることもあれば、三日の修行で生じることもありうる。

長く修行をしていると、そこで慢が生じることも少なくはない。しかし、それでは修行の意味が失われてしまう。大切なのはいかに長く行うかではなく、閃きがあるかどうかである。そこには時間というものは意味をなさなくなってくる。

神業

神秘的な力を発揮するのは宗教家や瞑想家、あるいは霊能者といった人たちを思い浮かべますが、武道家にも驚くべき力を発揮する人がいます。合気道の開祖植芝盛平の逸話は、すさまじいものがあります。

植芝盛平が陸軍の軍人に「わしには鉄砲は当たらない」という発言をし、プライドを傷つけられた軍人たちが、実際に試してみようという話をし、植芝盛平もこれを承諾しました。

当日になり射撃場にいくと、6人がピストルを持って待っていました。付いていった人たちはひやひやしましたが、植芝盛平は平然としています。

植芝盛平が的の位置に立ち、六人がピストルを構えます。「一、ニ、三」で銃口が一斉に火を噴きます。砂埃がもうもうと舞ったかと思うと、次の瞬間、六人のうちの一人が宙に舞っていました。

驚くべきことに植芝盛平が六人の後ろに立ってニコニコと笑っていました。狐につままれたようとはこのことです。もう一度行われましたが、結果は同じことでした。

帰りに同行していた弟子がいったいどうやったか尋ねると、彼らが引き金を引こうとすると、黄金の玉のような光が飛んでくる。弾はその後から来るから、よけるのはなんでもない。それに六人同時に撃っているつもりでも、一度には出てこない。必ずバラバラになるから、一番先に来るやつのところに行けばいい、ということだったそうです。

黄金の光が届くまでものすごい時間がかかるようなのですが、普通の人からすると一瞬の出来事です。これぞまさに神業です。

植芝盛平は大本教の熱心な信者で、相当宗教的であり、晩年は神がかった様子であったようです。合気道は和を重んじ、愛の武道であるとしていましたから、技が優れていただけでなく、精神的にも相当な境地に達していたのでしょう。

精神世界の叡智は特定のものにあるのではなく、いろいろと形を変えて、偏在しているようです。
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唯我独存

Author:唯我独存
ヨーガ・瞑想暦20年ほど。レイキマスター。日々この瞬間を大切にすることをモットーとする。気付き、寛ぎ、ハートの三つから、今ここにあることを体得し、それを伝えていこうとしている。

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