スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

人知れずに

チベット仏教ニンマ派に伝わるゾクチェンにおいて、本当にゾクチェンを体得した人には、全く世に知られず普通に見える人に多くいたという。タオイズムでタオを体得した人も、世間に迎合することなく、有名とは無縁であることも多かったという。


名前が知られているからとか、有名であるということで、その人が真実を体得しているかといえば、それはそうとは限らない。人は表面的なことに惑わされがちだが、真実を体得するとは、目に見えるものや、数字などでは推し量れないものである。


本当に目覚めた人というのは、人を集めようとか、有名になろうなどという次元を超越していってしまう。釈迦も大教団を組織したり、仏教を創立して名を上げよう、などとは考えなかった。釈迦の説く教えや、釈迦の存在そのものに惹かれた人々が、自然に集まってきてサンガが形成されていった。無理に事を起こそうとせず、自然に起こるのが本来のあり方なのだろう。


今までは有名であるとか、多くの人が集まっているということで評価されたりしていたが、これからは本当に真実を体得した人の元に自然に人が集まってくるという時代になってくるだろうし、そのようになって欲しいと思う。
スポンサーサイト

ごく自然にふるまう

新しい仕事場になって、五か月ほど経過した。最初のうちは仕事を覚えるのに必死で、周りの人間関係に気を配る余裕もなかった。今の現場は人数が多く、全員で50人ほどになる。それらの人全てと打ち解けて仲良くやっていくのは正直なところ難しい。


警備業というところは癖のある人が多く、斜に構えていたり、少々乱暴な人も少なくない。そんな中で「あいつはダメなやつだ」といったレッテルを貼られてしまうと、色々と苦労することになる。


そして、人が複数集まると、派閥らしきものが自然と出来上がる。仲が良い人とあまり良くない人などが、自然と見えてくるもので、こればかりはどうにもならず、また派閥争いのようなものに巻き込まれるといささかやっかいなことになる。以前はそのようなことがあったらしいが、今は落ち着いてきているようで、私はいい時期に入社できたと思う。


初めの二カ月ほどはほとんど話もしたことがない人も多かったが、近頃は話しかけられることも増えてきて、かなり打ち解けて話ができる人もできてきた。そうなるとやはりその場にいやすくなるし、仕事もやりやすくなる。仲が悪い人には挨拶もしない人もいるのだが、私は誰にでもきちんと挨拶し、自然に話すようにしていた。そうしていると、段々話しかけられることも多くなり、仲良くなる人も増えてきた。


近頃は私の内面も落ち着いてきているが、それが外側の人間関係にも投影されているのだろう。私はどこかの派閥に属するつもりもなく、またわざわざ人と敵対するつもりもない。どのような人にも良い面と悪い面があるのだから、それを冷静に見ていけばいいと思う。偏った見方をしていると、「あの人はいい人、あいつは厭なやつ」となってしまう。私はあまりそういう見方をすることもない。そしてごく自然にふるまっていこうと思うし、それでうまくいくだろう。

20年ぶりのランニング

私のことを瞑想ばかりしていると思う人もいるかもしれないし、エネルギッシュな側面を見て、体をけっこう動かしてきたと思う人もいるかもしれない。実際のところ私はじっとしているのも、体を動かすのも両方好きであるが、どちらかといえば、静かにじっとしている方が多いと思う。これは元々虚弱だったこともあるかもしれないし、瞑想に二十年以上も取り組んでいるのだから、元々そういう傾向もあるのだろう。


それでも子供のころから外で遊ぶことも好きだったし、スイミングスクールに通い、遊びではあるが小学生の時はクラスで卓球が五本の指に入るほどだったし、中学の時は野球部、高校ではバドミントン部だった。そして武道も多少かじった程度だが経験もしてきた。ちなみにこれらの中ではバドミントンがゆるいものだという印象を抱く人もいるかもしれないが、これほど一般的なイメージと実際との違いが甚だしいスポーツもない。一流選手のスマッシュは新幹線並みの初速だし、ネット際の攻防では早さがゼロになることもある。これだけ緩急の差が激しいと対応が大変になるし、コートの中を動き回るのはかなりきつい。私は対して強くなかったが、部活にはある程度真面目に出て取り組んできたので、それなりに体は鍛えられたと思う。


それでも元来が怠け者なので、一度じっとしてしまうとそこに固定されてしまう。本当に体を動かすことが好きな人は、じっとしていることが耐えられないだろうが、私はへたをするとそこに一日中じっとしても苦にならない。そうなると体がなまる一方となってしまう。本当は私はある程度体を動かした方が余分なエネルギーも昇華されて心身共にいいのであり、ただじっと座ってばかりいるのもよくないのであるが、どうしてもここ何年は体を鍛えることをおこたり、段々体に脂肪がついてきてしまった。


これではいかんということで、少しずつ体を動かし始めた。体を動かしているとやはり気分がよろしい。ただ私は体を動かすことも好きとはいえ、やはりあまり好きではないものもある。中学の体育の時間で、1500メートルを走ったが、この時は走り出してすぐに目がまわるような感じがして、途中からしんどくてかなわなかった。何とか完走したが、順位は終わりから数えた方が早いくらいだった。だから私にとって走ることは避けてきたことだった。


とはいってもランニングは体を鍛えるには基本中の基本だし、瞑想している人の中でも走っている人もいるし、シュリ・チンモイは走る瞑想を提唱していたと思う。それと作家の村上春樹が走り出してから健康になり、文体も変わってきたという話を聞いて、近頃は体を鍛える決心をしたのだし、一つランニングもしようと思い立った。


シューズも手に入れたので、今日早速走ってみた。瞑想に取り組んでからずっとランニングをしていなかったから、かれこれ二十年ぶりくらいのランニングだった。走り出してすぐに足が重くなり、これはいかんと思ったが、次第に足も楽になってきた。そしてランニングをしていると視界が変わってしまい、周りに意識が向かわなくなり、ただそこにあるという状態になった。ランナーはよく周りに一切意識が向かわなくなるというが、はやりそういうものなのだと思った。そしてプレゼンス、実存の状態に簡単に至った。座って行うばかりが瞑想ではなく、ランニングでもやはり瞑想になる。エネルギーも昇華されるし、私にとっては必要だと実感した。


最初は30分くらい走ろうかと思っていたが、走っている最中に最初から無理をしない方がいいと考え直し、20分ほど走ることにした。走っている途中はきつい感じもしたが、走り終わってからは気分はそうかいで、余計な思考や感情も出てこず、これは目覚めにとっても非常にいいと思った。瞑想ばかりしていると、どうしても身体がおろそかになり、バランスを崩してしまう。今さらアスリートのように無茶苦茶に鍛えることもできないが、適度に体を鍛え、心身共にバランスをとって目覚めていこうと思った。

目覚めが伝わっていく

昨日は瞑想会を行いました。初めて使用する会場で、あまり広くはないですが、雰囲気のいいところで、私自身も参加してくれた方々も気に行っていました。当初の予定では10人ほど参加することになっていましたが、当日になってキャンセルが続き、自分を含めて五名で行いました。これだけのキャンセルが出たのは初めてでしたが、ちょうどいい人数になったので、そのようになるようになっていたのでしょう。


前半はシンギングボウルを鳴らして波動を感じてもらい、リラックスをうながしました。時々シンギングボウルの音が合わない人もいるのですが、参加者全員がとても良い音でリラックスできたと言われていました。時間の都合上音を鳴らしている時間が短めになってしまいましたが、もっと聞いていたかったという声もあったくらいでした。


前半はゆったりまったりモードでしたが、後半は本格的な瞑想を行いました。本格的といってもそれほど厳しいものではなく、姿勢を整えたり集中を必要とする時もありましたが、ずっとそうさせているのではなく、気づきの主体にとどまる時はそれなりの集中や努力がいりますが、その後はゆったりと寛ぎ、またハートの瞑想でもあまり緊張していると感じられなくなるので、緊張と弛緩のバランスが大切となってきます。


初めて私が主催する瞑想会に参加してくれた方も多かったので、説明の時間も多少とりました。言語での説明だけではなかなか理解できない人もいるものですが、今回参加された方々は、全員説明を大なり小なり理解されているようでした。それなりのベースがあったからかもしれません。そして言葉で聞くだけでは思考での理解にとどまりますが、瞑想を行うことで思考や感情を超えたところにある気づきの主体を、全員がそれぞれが違う形であれ感じ取っていました。これは頭で考え込んでしまうタイプの人はなかなかつかみとれないのですが、近頃は気づきの伝播が早まっているように思えます。言葉を超えて伝わっていっているのです。


最後のハート瞑想も繊細なものなのでわかりづらい人も多いのですが、今回初めての試みもしたのですが、それで繊細なハートを感じられたという人がいて、また事前に説明をしていなかったハートのイメージをはっきりと見たという体験をされた方もいたので、ハートの伝播も起ってきていると感じました。今は確かに混沌とした世の中ですが、精神や霊性の飛躍も起こりやすくなっていると感じています。初めは少しずつでもいいので、その流れが生じるための一助となれればいいと思いました。


瞑想が終わってからシェアリングをしましたが、いつもなら前半の音が良かったという感想を述べる人が多いのですが、今回は私がうながしたわけでもなく、全員が後半の瞑想での体験や意見を述べたので、私は少し驚くとともに嬉しくなりました。こちらが伝えたいことが伝わっているなという手ごたえがありました。とてもいい場がそこに在り、恩寵が注がれていることを感じました。参加された方々も満足されていたし、私自身もその場にいられる幸福を噛みしめていました。


今回の会場は代々木駅から歩いて五分くらいのところにあり、地理的にも良い場所なので、そこで開催することも多くなりそうです。7月は現時点で6日と14日に開催する予定です。詳細は後日アップします。


これ一つだけではなく

世の中には多くの健康法が伝わり、これを食べるといい、これは食べてはいけない、などという情報があふれかえっている。そしてそれに翻弄されている人も多い。しかし、これは絶対というものは存在せず、自分に合ったことに取り組み、合わないものは取り入れないことが大切だろう。


映画「ビルマの竪琴」などで有名な映画監督市川崑は92歳まで生き、晩年にも旺盛な創作活動を続けていたが、肉しか食べないと言われるほどの偏食家であり、また大変なヘビースモーカーで、一日にチェリーかキャメルを100本は吸っていたという。それでも92歳で大往生をとげ、また温厚な性格であり、演出中に声を荒げる映画監督も多い中、そういうことはなかったという。このように肉を食べ、ヘビースモーカーでも長生きし、温厚である人も存在する。


子役時代「スタンド・バイ・ミー」の出演で注目され、将来を嘱望された俳優リバー・フェニックスはヴィーガン(完全菜食主義)であり、それを貫いていたというが23歳の若さでドラッグの過剰摂取による心不全で亡くなった。ヴィーガンは肉魚、乳製品や卵はもちろん、動物にかかわる一切のものを摂取しなため、蜂蜜もとらない。また毛皮や革製品なども身につけない。そのような実践をしていたリバー・フェニックスが、ドラッグの過剰摂取が原因で亡くなったとは、彼の中では何があったのだろうか?


私自身タバコは一切やらず、家で食事をするときは、基本的に動物性のものをほとんどとらない。しかし酒は時々飲むし、外では肉も平気で食べる。また甘いものもけっこうとる。以前はヨーガや気候などをよくやっていたが、近頃はあまりやっていない。できるだけ歩くようにしている。こんな生活をしているが、体はまあ健康な方だと思う。献血に行くと血液検査をされるが、血液の質がいいので特定の成分だけを採取する成分献血をぜひやってほしいと言われたくらいである。あまり偏ったこだわりがないのが良い結果となっているのだと思う。


先日ブックオフで五木寛之と帯津良一の対談である「健康問答」が105円で売っていたので、購入して読んでみた。二人とも関心がある人物だったので、期待して読んだが私にはいい内容だった。


水はたくさん飲むのがいいのか?塩分はあまりとらない方がいいのか?肉は体に悪いのか?一日三十品目食べなければならないか?朝食抜きは悪いのか?コーヒーは悪いのか?玄米は究極の健康食か?抗菌・防菌は本当に病気を予防できるか?温泉は万能の養生法か?メタボリック症候群は本当に危険か?睡眠は八時間以上取らねばならないか?体の癖や歪みを正せば元気になるのか? などといったことを対談で二人の見解を述べているが、基本的にはこれは絶対いい、これは絶対駄目という見解をとっていない。合う人にはいいし、合わない人にはやめておくのがいい、というスタンスである。


私の周りでも、朝食をとらないと駄目だとか、塩分を取り過ぎると駄目だとか、そのような意見を言う人も多い。私は朝食を食べることもあれば食べないこともあるし、塩分をとることで体が温まるので、ある程度は取る必要があると思っている。もちろん朝食を食べないと元気が出ないという人はとればいいし、高血圧の人などは塩分を控えた方がいいだろう。しかし、それが誰にでも当てはまるわけではない。


自分にとってこれが良かったからと他人に勧める人も多いが、それはその人にはよかったかもしれないが、勧められた人にとって有効とは限らない。玄米菜食がいいことは間違いないが、玄米が消化しきれない人には玄米が良くないし、玄米は気を下げる働きがあるから、気が下がり気味の人も玄米は適していないだろう。私は玄米でも消化するし、気も下がることはないから玄米食はいいが、それが万人に通用するわけではない。個々人によって何が健康によく、何が悪いかは変わってくる。


それは肉体の健康だけでなく、精神や霊的なことにも当てはまる。仏教が最高で他は駄目だとか、これこれのヒーリングが良くて、他はまやかしである、などという人も少なくない。しかし、一つの教えやメソッドだけで救われたり目覚めるなど、人間は単純な存在でもない。私は色々なことを学んでいて、そういうやり方を否定する人もいるだろうが、決まり切ったやり方だけでどうなるものでもないと思っているので、私は肉体、精神、エネルギーなど様々な方面からアプローチしようとしている。


「健康問答」の冒頭で五木寛之が「これ一つ」では駄目なのだということを覚悟するしかない、と述べているが、これはまさしく真理だと思う。五木寛之は少々悲観的になりすぎる面があるとも思うが、彼が最近述べていることは共感することも多い。一つのことに凝り固まらずに、もっと開けた見解、意識が必要となってくると思う。





健康問答 本当のところはどうなのか? 本音で語る現代の「養生訓」。健康問答 本当のところはどうなのか? 本音で語る現代の「養生訓」。
(2007/04/05)
五木 寛之、帯津 良一 他

商品詳細を見る
最新記事
プロフィール

唯我独存

Author:唯我独存
ヨーガ・瞑想暦20年ほど。レイキマスター。日々この瞬間を大切にすることをモットーとする。気付き、寛ぎ、ハートの三つから、今ここにあることを体得し、それを伝えていこうとしている。

月別アーカイブ
カテゴリ
カレンダー
07 | 2017/08 | 09
- - 1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30 31 - -
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QRコード
メールフォーム

名前:
メール:
件名:
本文:

最新コメント
最新トラックバック
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。