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あらゆる宗派、学派を超えて

「人間は様々な時代、様々な場所において、それぞれ独自の文化を創造してきた。だから教えを学ぼうとするときには、異なる文化と如何に関わっていくべきか、よく考える必要がある。その外側の形式ではなく、一番大切な核心を学びとるのだ。

例えばチベット文化をある程度知っていて、ゾクチェンを修行するためには、仏教かボン教に改宗しなければならないと思い込んでいる人もいるだろう。ゾクチェンはこの二つの宗教的伝統を通じて広がってきたからだ。けれどもそれは随分狭いものの見方だ。ある霊的な教えに従うと決めたら、着る物や食べ物、行為の仕方などを変えなければならないと信じ込んでいるのだ。

しかしゾクチェンは、何か特定の宗教的教義に固執したり、僧院に入ったり、盲目的に教えを受け入れて、“ゾクチェン主義者”になることを、求めているのではない。それでは逆に、真実の悟りを妨げる重大な障害になってしまう。

人間は、平気で、様々なものにラベルを貼ることを慣わしとしている。その結果、自分の枠組みの中に入ってこないものを理解することが出来なくなりがちだ。

私の個人的な体験を例にして考えてみることにしよう。私のことをよく知らないで、「どこの宗派に属しているのですか」と尋ねるチベット人に会うことがよくある。チベット仏教は、千年を超える歴史を持っているが、その過程を通じて、現在では四つの主だった宗派が存在している。そのためチベット人は、導師(ラマ)という言葉を耳にすると、きっとその宗派のどれかに属しているはずだと思い込む。ゾクチェンの修行者だと答えれば、恐らく、私が、ニンマ派に属していると思うだろう。ゾクチェンの経典は、ニンマ派の中で守られて来たからだ。また、私は、チベットの土着の文化を再評価するために、ボン教の本を何冊か書いたことがある。そのことを知っている人から、ボン教徒と呼ばれたことも実際あった。

しかし、ゾクチェンは、学派でも、宗派でも、宗教制度でもない。ゾクチェンとは、導師(ラマ)達が、宗派や僧院の伝統の周囲に形成されてきた制約を、すべて超えて伝えてきた、悟りの境地に他ならない。ゾクチェンの導師(ラマ)の中には、農民、遊牧民、貴族、僧侶、偉大な宗教的人格など、ありとあらゆる社会階層の人間がいた。その宗教的霊的出自も、すべての宗派に広がっていた。

例えばダライ・ラマ五世は、非常に高い政治的地位にあり、その義務を完全に果たしながら、同時に偉大なゾクチェン行者でもあった。 教えの本当に関心を抱いているのなら、宗派の狭い枠に閉じ籠ることなく、根本原理を理解することが必要だ。どの宗派にも、それぞれの組織や制度、ヒエラルキーが存在している。それによって、ある枠の中に嵌め込められてしまうことは、珍しくない。しかもそのことに自分で気付くことは、非常に難しい。

教えの本当の価値は、人間が生み出して来たすべての社会的、文化的要素を超えたところにある。そして教えが自分にとって、本当に生きているものであるかどうかを見るには、自分を制約している様々な要素から、どの程度自分自身を解き放つことが出来たかをただ観察してみれば良い。教えを理解し、またその修行の仕方も知っていると信じ込みながら、実際には、自分自身の真の本質の悟りから遠く離れた態度を取り続けたり、教義に縛られたままというのは、よくあることだ。

導師(ラマ)がゾクチェンを教えるとき、その導師(ラマ)はある悟りの境地を伝えようとしている。その目標は、弟子を目覚めさせ、その心を原初の境地に開くことだ。導師(ラマ)は「私の作った規律に従い、指示を守れ!」と命令したりしない。「自分の内なる目を開け。自分自身を観察せよ! 悟りをもたらしてくれるような燈明を、外に求めるのは止めろ。自分自身の内なる燈明を燈せ。そうすれば、教えは自分自身の中に生き、自分は教えの中に生きることになるはずだ」と言うのである。

修行者は、日常生活においても、教えの一番大切なエッセンスを実践する必要がある。ゾクチェンを、生き生きとした実践的知識とするのだ。もっとも重要なことはそのことだ。それ以外に特にやるべきことなどない。

仏教僧は、戒律を捨てずに、充分ゾクチェンを修行出来る。カトリックの僧侶、事務員、労働者にしても同じだ。社会的役割を捨てることなしにゾクチェンを修行することは、まったく可能なのだ。」


ナムカイ・ノルブ『ゾクチェンの教え』(地湧社)より




人は色々とレッテルを貼ったり、特定の考え方に固執したり、組織に属してそれが一番だとしたりする。しかし、こういったものは真実を理解する上で重大な障害となるとナムカイ・ノルブ・リンポチェは説く。全くもってその通りだと思う。


しかし、このことは本当の意味で理解することがなかなか難しく、ゾクチェンを学んでいる人たちの中でも、ゾクチェンを絶対視しすぎたりとか、特定の枠組みでとらえている人がいるように思われる。これは他の伝統的な宗派でも見受けられる。それが悟りから遠ざけることになると感じるが、そこに没入しているとそれを理解するのが難しくなってしまう。


教えを本当に理解するのは、師匠から与えられるものではなく、自分自身で体得するものであり、師匠はヒントを与えてくれはするが、師匠からもたらされるものではない。師匠と弟子との間で依存関係が成り立ってしまうことがあるが、これでは真実を悟ることは極めて難しいだろう。


自分自身を見つめ、内なる目を開き、気付きを保っていくことが大切である。そのためにはあらゆる文化的、社会的概念から解き放たれる必要がある。それはゾクチェンのような宗教的、霊的な概念でも最終的には手放すことになるだろう。そうしないとこれからは本当の目覚めは起きないように思う。

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ゾクチェンの教えより   <光明>

<光明>というのは、最初のその知覚が、そのまま生き生きと新鮮かつ直接あらわれている状態を指している。判断や、意識作用はまだはたらきはじめていない。そこには、すべての生きものにもともとそなわっている根源の境地が、自然に顕現している。同じことは思考についてもいえる。思考のあとを追いまわしたり、意識の判断作用の中に取りこまれたりしなければ、思考もまたわたしたちの自然な光明の一部なのである。

ゾクチェンの教え 55ページ

意識作用や思考が生じる前段階の根源の境地に、直接アプローチしていくのがゾクチェンのようです。その境地を<光明>と表現し、それは判断や思考というものがはたらき始めていない、自然な境地なのでしょう。

私たちはこれはこうだという判断や、様々な思考にとらわれてしまっていますが、そういったものに巻き込まれることがなければ、自然な光明が自ずからわきおこってくるのではないかと思います。

ゾクチェンの教えより   鏡のような心の境地

ゾクチェンにおいて<悟り>というのは、鏡のような心の境地を指している。この鏡のような心の境地を<明知(リクパ)>ともいう。そこにどんな像が映し出されても、その本性が汚されることはない。みずからの真の本性を悟ったままの境地にあるのだから、何かによって条件づけられることはありえない。生じてくるものはすべて、みずからの原初の境地そのものにそなわっている特質の一部として体験される。根本的に重要なのは、相対的な条件を捨てたり、変容させたりするのではなく、その本性を知ることだ。この目的を達成するためには、自分自身をおおっている、さまざまな誤った概念や歪曲を、すべてきれいに洗い流す必要がある。


ゾクチェンの教え  25ページより


鏡のような境地とは、仏の四つの知恵の一つである「大円鏡智」ともいえるかと思います。そして鏡のような境地がリクパであるといいます。私たちは穢れがありますが、本性が汚されることはない。そのことを理解することが大事だということです。

捨てたり、変容させる道がありますが、ゾクチェンではそういったことではなく、本性を直接知ることをするということです。ただその前には、誤った概念や歪曲を洗い流す必要があり、そこで前行が必要となってくるのでしょう。しかし、次の段階では放棄や変容というものが必要ではなくなってくるということです。

ゾクチェンの教えより   自分を観察する

仏教僧は、戒律を捨てずに、十分ゾクチェンを修行できる。カトリックの僧侶、事務員、労働者にしても同じだ。社会的役割を捨てることなしにゾクチェンを修行することは、まったく可能なのだ。ゾクチェンは、外側から人を変えようとしないからだ。そうではなくて、内側から目を覚まさせるのだ。ゾクチェンのラマが言うことはただ一つ。自分を観察せよ、そして教えを日常生活で実践するための認識と知恵を獲得せよ、ということだ。


ゾクチェンの教え ページ17より


何らかの修行をするために、社会的役割を放棄しなければならない。ということを要求される場合もありますが、ゾクチェンにおいてはそういうことが無いようです。修行をする際に、外側から自分を変えようとしてしまうケースも多く見受けられますが、ゾクチェンはそういうものではなく、内側から覚醒していくもののようです。

よく外にある神やグルの力によって自分を変えてもらおうというケースがあります。それは一つの手段としてありかもしれませんが、本当の意味での覚醒に至るには、内側から目を覚ますこと、覚醒することということになると思います。

自分を観察すること、これはよく言われることがですが、ゾクチェンではそれが徹底されるのではないかと思います。これが根本にあって初めて覚醒していくことが可能となります。そして、日常と修行を分けてしまうことが多いわけですが、ゾクチェンではそういう区分が無意味のようです。教えを修行や瞑想中には認識し理解できるが日常ではできない、ということであれば意味がありません。常日頃から自分を観察していくことで、日常生活で教えを認識し知恵を獲得していくことがゾクチェンということになるのかと思います。

ゾクチェンの教えより    あらゆるものを超えて

ゾクチェンは、学派でも、宗派でも、宗教制度でもない。ゾクチェンとは、ラマたちが、宗派や僧院の伝統の周囲に形成されてきた制約を、すべて超えて伝えてきた、悟りの境地に他ならない。ゾクチェンのラマの中には、農民、遊牧民、貴族、僧侶、偉大な宗教的人格など、ありとあらゆる社会階層の人間がいた。その宗教的霊的出自も、すべての宗派に広がっていた。


ゾクチェンの教え  15ページ


人間はどうしても派閥や、制度などをこしらえてしまいます。それが必要な場合もあるでしょうが、そういったものにしばられてしまうと、本質を見失ってしまうことになるでしょう。

ゾクチェンは、学派でも、宗派でも、宗教制度でもないということです。そういったものをすべて超越した悟りの境地こそがゾクチェンである。そして階層や階級というものも関係なく、あらゆる社会階層の人がゾクチェンのラマには存在したようです。人間は階層や肩書きなどに惑わされてしまいがちですが、ゾクチェンはそういったものも超越しているようです。そして宗派というものも超えて広がっていると。そういったものが本物であると思います。
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唯我独存

Author:唯我独存
ヨーガ・瞑想暦20年ほど。レイキマスター。日々この瞬間を大切にすることをモットーとする。気付き、寛ぎ、ハートの三つから、今ここにあることを体得し、それを伝えていこうとしている。

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