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違いはない


 質問者 心と真我の違いは何でしょうか?
 
 マハルシ
 何の違いもない。

 心が内側に向かえば真我であり、外側に向かえば
それは自我、そして世界となる。

『あるがままに』





ラマナ・マハルシの教えは、見事に本質をついているなといつも感じます。真我と自我を私達は区分しますが、マハルシによれば、それは何の違いもなく、外側に向くか内側に向くかによるということになります。本質的には内側も外側もないですが、まずは内側にベクトルを向けることが大切なことですね。

また、マハルシが言っていることは、チベット密カギュ派に伝わる「マハームドラー」にも同じようなことが出てきます。区分することが必要なこともありますが、本質的には何事も区分できないのであり、一体であることをマハルシは述べていると思います。ですがこのことを言語だけで表現することは不可能であり、実体験しないと本当の理解は生じることはないでしょう。
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誰がそう言うのだろうか?

質問者:もし「真我」である私が、今ここに在るなら、なぜ私はそう感じないのでしょう?

マハルシ:    それを感じないと言っているのは誰だろうか?本当の「私」が言うのか、それとも偽りの「私」が言うのだろうか?調べてみるが良い。するとそれが偽りの「私」であることがわかるだろう。偽りの「私」が障害物なのである。真実の「私」が隠されないように、偽りの「私」は取り除かれなければならない。

「私は実現していない」という想いが実現(悟り)への障害である。実際には、それは既に実現されている。それ以上実現されるべきものは何もない。もしそうでなければ「実現」とは何か新しいものということになる。いままで無かったものなら、これから起こるという事である。誕生するものは、死ななければならない。

「実現」が永遠のものでなければ、得る価値もない。それゆえ、われわれが探求するものは、新しく起こる何かではない。それは永遠なるものなのだ。ただ、障害によって、知られていないだけである。永遠に変わらぬそれこそがわれわれが探し求めているものであり、ただ障害を取り除くことだけが必要とされているのだ。永遠なるものは、無知のために知られない。無知が障害である。無知をぬぐい去りなさいそうすればすべて上手くいくだろう。

無知は、「私」という想念と同一のものである。その源を見つけ出しなさい。そうすれば、それは消滅するだろう。

「私」という想念は霊魂のようなものである。目には見えないが、身体と共に立ち現れ、成長し身体とともに消え去る。身体意識が偽りの「私」なのだ。この身体意識を捨て去りなさい。それは、「私」の源を探ることによってなされる。身体が「私」を主張することはない。「私はこの身体だ」と言うのは、あなたである。この「私」とは誰かを見いだしなさい。源を探ることによって、それは消え去るだろう。


ラマナ・マハルシ 「あるがままに」より


普段私たちが「私」と思いこんでいるもの、それは本当の私なのだろうか?この問いかけはほとんどの人がなしていないことですが、極めて重要な問いかけです。普段は偽りの「私」と同一化しており、本当の「私」を見失っています。肉体や思考や感情に支配されてしまい、偽りの「私」こそがすべてとしてしまい、その背景にある本当の「私」の姿を見失い、声を聞きとれないでいます。

真実の「私」は外的な対象を必要とせず、ただあるがままで完ぺきと言われます。いやそんなことはとても信じられないという人がほとんどかもしれませんが、それは偽りの「私」に支配されているからに他なりません。真実の「私」を見出し、ただあるだけの喜びを理解している人は、とても幸福だと言えます。

「私はこうである」とか「私は駄目だ」という思いにとりつかれたら、「それは誰なのか?」「誰がそう言うのだろうか?」という問いかけをする必要があります。それによって少しずつ偽りの「私」から真実の「私」へと移行していくことができるでしょう。そしてそれは一朝一夕でなされるものではなく、この問いかけをできるだけ多く行っていくことがまずは大切だと思います。

外にはない

質問者 どういう意味で、私たちの真の本性が幸福あるいは至福だと言われるのでしょうか?

マハルシ 完全な至福がブラフマンなのだ。完全な平和は真我に由来している。唯一存在するもの、それが意識なのである。幸福と呼ばれるもの、それが真我の唯一の本性である。真我とは完全な幸福以外の何ものでもない。幸福と呼ばれるそれだけが存在している。その事実を知って真我の本性にとどまり、永遠の至福を享受しなさい。

もし外面的な原因や自分の所有するものが幸福の原因だと考えるなら、所有するものが増えれば幸福も大きくなり、所有するものが減るにしたがって幸福も少なくなると結論することは理にかなっていると言えるだろう。そうすると、もし所有するものが無ければ、幸福はありえないはずである。実際の体験ではどうだろう?それはこの考えと一致しているだろうか?

深い眠りの中で、人は自分の身体も含めて何も所有していない。それにもかかわらず、不幸であるどころか、まったく幸せだ。誰もがぐっすりと眠ることを望んでいる。つまり幸福は本来人に備わったものであり、外的な原因によるものではないということである。人に生来備わった純粋な幸福の扉を開くためには、真我を実現しなければならない。


あるがままに ラマナ・マハルシの教え


真我を体得するしないは別にしても、外側に幸福は無く、内側に存在する、ということはよくよく考えると理解できるし、体験もしやすいのではないかと思う。

所有をすることが幸福であると考える人は、現代社会では多いだろう。しかし、それが本当に幸福かと言えばそうではない。所有をしていても幸福でない人はいるし、所有をしていなくても幸福な人はいる。むろんそうでない人もいるだろうが、幸福であると感じるのは、外側ではなく内側である。そして所有をしていても、失われれば不幸を感じるが、所有をしていない人はそういうことはない。そして、内側にこそ幸福の源があると理解していれば、常に幸福でいられることになる。

ぐっすり眠ることで幸福を感じたことがある人は多いだろう。私もそれを感じることは多い。眠りでは所有をしていないが、幸福を感じる。もちろん眠りでは本当の意味での幸福にはいたらないが、本来幸福が外側ではなく、人には生来備わっているということを理解するにはいい題材であろう。

外側に幸福の源があるというのは錯覚であり、ここから脱却できれば、本来の幸福へ近づいたことになるだろう。

無知は自我による

質問者 アヴィディヤー(無知)は存在するのでしょうか?

マハルシ 誰にとっての無知だろうか?

質問者 自我にとってです。

マハルシ そのとおり。自我にとってである。自我を取り除きなさい。そうすればアヴィディヤーは立ち去るだろう。自我を探してみなさい。するとそれは消え去り、ただ真我だけが残る。アヴィディヤーを装っていた自我は見つからない。真理のなかにアヴィディヤーは存在しないからである。すべてのシャーストラ(聖典)はアヴィディヤーの存在を反証するためにあるのだ。


あるがままに ラマナ・マハルシの教え ナチュラルスピリット


仏教でも無知のことを言うが、ラマナ・マハルシは自我によって無知が存在し、自我を取り除けば、無知は消えてしまうと説く。自我がすべての無知の元であり、苦しみを生み出していく。しかし、それは幻影であり、それを見出せば無知は立ち去り、真我だけが残る。真我が真理であり、自我は本来存在しないものである。しかし我々は自我に強くとらわれてしまっており、真我を見いだせない。この幻想から脱却することによって、真我は自ずから現われてくる。このことを頭だけの理解だけでなく、実際に体得していくことが大切であろう。
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唯我独存

Author:唯我独存
ヨーガ・瞑想暦20年ほど。レイキマスター。日々この瞬間を大切にすることをモットーとする。気付き、寛ぎ、ハートの三つから、今ここにあることを体得し、それを伝えていこうとしている。

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