スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

肉体に本質はない

弟子たちよ、今は私の最期の時である。しかし、この死は肉体の死であることを忘れてはならない。肉体は父母により生まれ、食によって保たれるものであるから、病み、傷つき、こわれることはやむを得ない。


仏の本質は肉体ではない。さとりである。肉体はここに滅びても、さとりは永遠に法と道に生きている。だから、わたしの肉体を見る者がわたしを見るのではなく、わたしの教えを知る者こそわたしを見る。


わたしの亡き後は、わたしの説き遺した法がおまえたちの師である。この法を保ち続けてわたしに仕えるようにするがよい。


弟子たちよ、わたしはこの人生の後半四十五年間において、説くべきものはすべて説き終わり、なすべきものはすべてなし終わったわたしにはもはや秘密はない。内もなく、外もなく、すべてみな完全に説きあかし終わった。


弟子たちよ、今やわたしの最期である。わたしは今より涅槃に入るであろう。これがわたしの最期の教誡である。


大般涅槃経より



釈迦が最後に弟子たちに説いた教えの一部です。釈迦は教えを説き終わり、何も思い残すことなく涅槃されたのでしょう。


偉大な師がいても、肉体にその本質はありません。教えを知り実践するものが本当の弟子であり、物理的距離なども関係ありません。しかし、師の肉体を奉ったり、物理的距離を近づけたいと本質的なところから外れてしまう弟子も多いようです。釈迦はそのことを涅槃の直前に誡められていました。これはそういうものがでてくることも予見されてもいたからでしょう。


また肉体が死んだとしても、教え、法というものがなくなってしまうことはありません。肉体だけにとらわれていると、師が亡くなった時に嘆き悲しんだり、自分が死を迎えるにあたり、非常に恐怖してしまいます。肉体は朽ち果ててしまうものであるから、そこにとらわれていたら愛するものが亡くなったら嘆き悲しむし、自分が死ぬ際にはものすごい恐怖でしょう。しかしそこに本質がないと悟っていればただ嘆き悲しむこともないし、死を必要以上に恐れることもなくなります。


釈迦が残された偉大なる法を理解し実践し、それを保ち続けていきたいものです。
スポンサーサイト

執着から苦しみが生じる

それでは、人々の憂い、悲しみ、苦しみ、もだえはどうして起こるのか。つまりそれは人に執着があるからである。


富みに執着し、名誉利欲に執着し、悦楽に執着し、自分自身に執着する。この執着から苦しみ悩みが生まれる。


初めから、この世界にはいろいろの災いがあり、そのうえ、老いと病と死とを避けることができないから、悲しみや苦しみがある。


しかし、それらもつきつめてみれば、執着があるから、悲しみや苦しみとなるのであり、執着を離れさえすれば、すべての悩み苦しみはあとかたもなく消えうせる。


さらにこの執着を押しつめてみると、人びとの心のうちに、無明と貪愛とが見いだされる。


無明はうつり変わるもののすがたに眼が開けず、因果の道理に暗いことである。


貪愛とは、得ることができないものを貪って、執着し愛着することである。


もともと、ものに差別はないのに、差別を認めるのは、この無明と貪愛とのはたらきである。もともと、ものに良否はないのに、良否を見るのは、この無明と貪愛とのはたらきである。


すべての人びとは、常によこしまな思いを起して、愚かさのために正しく見ることができなくなり、自我にとらわれて間違った行いをし、その結果、迷いの身を生ずることになる。


業を田とし心を種とし、無明の土に覆われ、貪愛の雨でうるおい、自我の水をそそぎ、よこしまな見方を増して、この迷いを生み出している。


華厳経より




仏典を読むとハッと気付かされることがよくあります。それは本質を突いているからでしょう。人によってはきつく感じるかもしれません。執着から苦しみが生まれるというのは、なかなか認めたくないという人もいるでしょう。執着することは喜びであり、それのどこが悪いのかと。しかし、この世のものは移ろい儚いものですから、執着しても必ず苦しみが待っているのです。それがわからない、認めたくないのは根本に無明があるからです。眼が開いてくればそれがわかってくるでしょう。


ここで取り上げているのは「華厳経」であり、大乗仏典です。大乗仏典は釈迦の説いたものではないからまやかしである、という見解の人もいますが、ここに説かれていることは初期仏典で説かれていることと何ら変わりなく、私は大乗仏典もやはり基本的には釈迦の教えが根本となっていると思います。どの経典が優れていて、どの経典は偽物である、ということに意識を向けるより、それぞれの良い要素をしっかりと取り入れていく方がよっぽどいいと思われます。自分の信じているものの優位性を主張したり、それ以外のものを排斥している場合ではもはやありません。

慈悲深く豊かな感性を備えて

「穏やかな心とか落ち着いた心といっても、思いやりがなく冷淡であってはいけません。静かで落ち着いた精神状態とは、まったくぼんやりとした精神状態とか、完全に虚ろになった状態という意味ではありません。落ち着いた心とか穏やかな心の状態というのは、愛情と慈悲に根ざしているのです。それは非常に高度な感受性と感性をそなえたレベルなのです」

ダライ・ラマこころの育て方 35ページ


一見穏やかで落ち着いているようでも、冷淡な人というものはいる。仏教などに関心があったり、瞑想などをしている人で、こういうタイプの人を目にすることもある。また意識が鮮明ではない場合もあったりする。

また修行をしていて、感受性や感性を否定する人もいる。そういったものを超えていかないといけない面はあるだろうが、感性を否定するがあまり、修行者としてうんぬんよりも人としてどうかという場合もよく見かけた。私もそういう時があった。

本当に穏やかで落ち着いた人というのは、慈悲が根本にあり、豊かな感性や感受性を備えているものだと今は思う。ダライ・ラマはそのような数少ない実際の例であると思う。仏教などを学んだり、瞑想をしたりして知識が増えたり、心が静まってくるのはいいが、それよりも落ち着きがあって、なおかつ慈悲深くもあり、豊かな感性を備えていることが、より大切なことなのだろう。

気づきやグラウンディングも大切だが、慈悲や感性といった、いわばハートに属することも極めて重要である。気づきというものがなく、単にハートが開いてるだけではこれまた問題であるが、気づきがあってもハートが閉じていたら、本当の意味での覚醒には至れないように思う。それはどこか欠陥があるのではないか。

ダライ・ラマより高い次元の瞑想体験をしているチベット僧はそれなりにいるのだろう。しかし、ダライ・ラマほど豊かな感性や慈悲を備えている人は、まずいないのではないだろうか?そういう点でダライ・ラマは奇跡的な存在であると思う。

過去や未来に思いをはせることなく

一 傍らに立って、かの神は、次の詩句を以て、尊師に呼びかけた。
     「森に住み、心静まり、清浄な行者たちは、日に一食を取るだけである
      が、その顔色はどうしてあのように明朗なのであるか?」
     
二 尊師いわく
     「かれらは、過ぎ去ったことを思い出して悲しむこともないし、未来の
      ことにあくせくすることもなく、ただ現在のことだけで暮らしている。
      それだから顔色が明朗なのである。
      ところが愚かな人々は、未来のことであくせくし、過去のことを思い
      出して悲しみ、そのために萎れているのである。刈られた緑の葦のよ
      うに。」 


ブッダ 神々との対話 サンユッタ・ニカーヤⅠ 中村元訳 岩波文庫 20ページ


釈迦の教えは、過去や過去世あるいは未来や未来世というものが中心ではなく、現在のことが中心となっている。仏教系の新興宗教やカルトなどでは、過去や過去世あるいは未来や未来世のことで信者を縛り付けるようなことをしたりするが、釈迦はそういうことがない。

人は過去のことを振り返って苦しみ、未来のことで思い悩んだりする。そういったことが苦悩の要因となってくる。現在のことで生活していけば、必要以上に苦しみ悩むことはない。これは釈迦の教えの真髄であると思う。

観音の化身であるカッコウが語る

「輪廻する生も輪廻を脱出した生も、すべては自分の心に起こることです。この心ははじめから完全なものとして完成しているすべての土台であり、本質が空であるので、生まれることもなく、滅びることも泣く、とどまることなく、行くことなく、やって来ることもありません。心をどこかに求めても見出すことはできず、探しても得ることはできません。心ははじめから完全な完成をとげていますから、それを知的に分析したりすると、単一の本質を多くの要素に分解してしまい、はじめから完全な完成をとげている心というものを、理解することなどできません。

そこで、完全な心の完成をとげた過去のブッダたちは、「ある」と「ない」の両極端に陥ることの無い言葉による表現を用いて、言葉で語っても心の本質を変化させない方法を生み出しました。そこから生まれたのは、心の本質を直感的に理解させるための誤りのない巧みな手段である、聖なる教えの数々でした。こういう教えを、深く瞑想してみるのがよいでしょう。

ここに集っている鳥のみなさんも、夢の中でこの場に並んでいるのです。すべての誕生が夢の中で起こり、すべての死は夢の中で起こる死です。ブッダは夢の中で煩悩に打ち勝ったのであり、輪廻をさまよう者たちは夢の中をさまよい続けています。これが真実であるのですから、みなさんは自分が何者であるのかを自分で知らなければなりません。誤りの根を絶つことができたら、拠り所とすべきものをもはや外の世界に見いだすことはできなくなりますから、自分の心の中に真実の幸福の拠り所を、見いだすことができなければなりません。さあ、わたしはみなさんが求めていた「自分は何をなすべきか」という問いに、しっかりお答えしましたよ」


鳥の仏教   65ページから66ページ


「鳥の仏教」は正当仏教学から言えば偽経であり、あやしいものであろうが、そこに語られている内容が真実をついていれば、そういうことにこだわりすぎても意味が無いように思う。ここに説かれていることは真実であると思うし、そこから何かを感じ取ることができれば、それは十分に意義があることのように思われる。枝葉末節にこだわりすぎてしまうと、本質を見失いかねない。
最新記事
プロフィール

唯我独存

Author:唯我独存
ヨーガ・瞑想暦20年ほど。レイキマスター。日々この瞬間を大切にすることをモットーとする。気付き、寛ぎ、ハートの三つから、今ここにあることを体得し、それを伝えていこうとしている。

月別アーカイブ
カテゴリ
カレンダー
03 | 2017/04 | 05
- - - - - - 1
2 3 4 5 6 7 8
9 10 11 12 13 14 15
16 17 18 19 20 21 22
23 24 25 26 27 28 29
30 - - - - - -
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QRコード
メールフォーム

名前:
メール:
件名:
本文:

最新コメント
最新トラックバック
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。