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宗教の解体学

中沢 私は宗教というのは、ある意味でいうと、頂点が抜けていないといけないと思っているのです。つまり非-知に向かって、そのシステムがそのいちばん心臓とする部分で抜けていないといけないと思う。
私はチベット人の仏教を勉強していますが、チベット仏教の学者からすごく批判されるのです。「中沢のやっているのはチベット仏教ではない」という言い方をされる。つまり、チベット仏教と普通言われているものには大変な学問的な体系があって、中観の哲学をやり、唯識をやり、密教の曼荼羅の瞑想をやる、これがチベット仏教というもので、中沢のやっているものは違う、というような言い方をされる。でも私は、偶然も作用しているのですが、宗教の体験の上を青空のように抜いてしまうという人たちのグループと深い交わりをもって、このグループの人たちの伝統を勉強してしまったんです。

小林 「抜いてしまう」というのはどういう意味ですか?

中沢 つまり、仏教というのはある意味では修行にしても勉強にしても大変な努力を要するわけですね。これについて彼らは非常に素直な言い方をします。仏教は努力をしてやらなければいけないけれども努力してたどり着いたものは真理ではない、という言い方をする。つまり無努力というものを努力の体験の上に開かなければいけないということですね。そのときに、さきほどギフトのように与えられると言いましたが、スポンテイニアスな知恵というものがおのずと生起するという言い方をする。ここにはもう主体も客体もないのだという言い方をする。

ですから私が親しんだこの人たちのグループは、しきりに無努力ということを言う。だから修行はしないんだ-すごくやるんですけどね-、と。宗教というの努力したり勉強したりしてはじめて、この世界の真理をはつかみ得るんだと思われがちだけれど、彼らのようにこれは大嘘なんだ、ということを主張する人々に出会って、私はそこで目を開かれました。ところがこのためにチベット学の中ではすごく困った立場に置かれてしまった。なぜならば私が親しんだグループは、体系的な学問をすべて否定してしまう人たちなんですから・・・・・。彼だってもちろん勉強はします。勉強はしているけれども、知的努力の限界を見きわめるためにだけ、知性を用いるという感じですね。努力の限界を知って、それを無努力、無作為、無為、自然というところへ開いていくんです。

道端に転がっている石なんかを見ては、あっと思う、そんな感覚をもう一回、日本の仏教の中で最終的につくりだそうとしたのは、おそらく浄土真宗の妙好人なんかじゃないかと思うんです。下駄の鼻緒をすげ替えている人たちがその瞬間瞬間に御仏を感じると言っている、そういう感覚までもってっちゃっていますよね。そうしたものに目を向けると、比叡山や永平寺ですごく勉強して努力を重ねる、あるいは座禅を組んで大変な努力をして、直感知なるものを悟ったとまで言わなければいけない、そういう仏教はある意味で全部無駄なんだというところまで言わないと、この宗教は完全なものにならないということなんです。

日本の仏教はある意味でいうと、浄土真宗と禅があったおかげで、完全なものになったと思うのです。開いちゃった、このことを鈴木大拙は「日本的霊性」と言っていますでしょう。つまり、あれは仏教は開いちゃったところで初めて完成するのだという言い方ですね。つまり、宗教がそれ自身を解体してしまったところで、むしろ石ころの中にグレート・スピリッツをみたり、ありがたいと拝んだり・・・・・。そういうところまでもっていったものに自分を開いていく、つまり非-知の中に自分を開いていくということがない限り、その宗教は完成したものにならないと考えているのです。

キリスト教は、その意味では宗教としては未完成なものだったのではないですか。つまりイエスの体験の中で完成していたものが千五百年以上、キリスト教という宗教の中に閉じ込められていて、完成していなかった。そしてついに完成することはなかった。完成できないで、この先端部分が資本主義という別の原理の中に解体し始めてしまっている。そこで先ほど言った「小文字のa」が無限に飛び交う状況が発生している。しかし宗教ということを考えるとき、私はこれには完成形があるだろうと思うんです。そしてそれは信と呼ばれているものに根ざして形を成していくだろうと思うんです。

宗教への問い 宗教の解体学 ページ214から216
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霊性とは無分別

精神または心を物(物質)に対峙させた考えの中では、精神を物質に入れ、物質を精神に入れることができない。精神と物質との奥に、いま一つ何かを見なければならぬのである。二つのものが対峙する限り、矛盾・闘争・相克・相殺などということは免れない、それでは人間はどうしても生きていくわけにはいかない。なにか二つのものを包んで、二つのものがひっきょうずるに二つでなくて一つであり、また一つであってそのまま二つであるということを見るものがなくてはならぬ。これが霊性である。今までの二元的世界が相克し相殺しないで、互譲し交歓し相即相入するようになるのは、人間霊性の覚醒にまつよりほかないのである。いわば精神と物質の世界の裏にいま一つの世界が開けて、前者と後者とが、互いに矛盾しながらしかも映発するようにならねばならぬのである。これは霊性的直覚または自覚によりて可能となる。

霊性を宗教意識と言ってよい。ただ宗教と言うと、普通一般には誤解を生じ易いのである。日本人は宗教に対してあまり深い了解をもっていないようで、或いは宗教を迷信の又の名のように考えたり、或いは宗教でもなんでもないものを宗教的信仰で裏付けようとしたりしている。それで宗教意識と言わずに霊性というのである。が、がんらい宗教なるものは、それに対する意識の喚起せられざる限り、なんだかわからぬものなのである。これは何事についても、然か言われ得ると思われるが、一般意識上の事象なら、なんとかいくらか推測か想像か同情かが許されよう。ただ宗教については、どうしても霊性とでもいうべきはたらきが出てこないといけないのである。即ち霊性に目覚めることによって初めて宗教がわかる。

霊性と言っても、特別なはたらきをする力か何かがあるわけではないが、それは普通に精神と言っているはたらきと違うものである。精神には倫理性があるが、霊性はそれを超越している。超越は否定の義ではない。精神は分別意識を基礎としているが、霊性は無分別智である。これも分別性を没却了して、それから出てくるという意ではない。精神は、必ずしも思想や論理を媒介としないで、意志と直覚とで邁進することもあるが、そうしてこの点で霊性に似通うところもあるが、しかしながら霊性の直覚力は、精神のよりも高次元のものであると言ってよい。それから精神の意志力は、霊性に裏付けられていることによって初めて自我を超越したものになる。いわゆる精神力なるものだけでは、その中に不純なもの、即ち自我-いろいろの形態をとる自我-の残滓がある。これがある限り、「以和為貴(和ぎを以て貴しと為す)」の真義に徹し能わぬのである。


鈴木大拙   日本的霊性  ページ16から18

循環

この世は無常である。一切は流転している。生々流転。これは真実である。輪廻転生を信じる信じないはともかく、この世の中は全て循環しており、これはまさに輪廻である。輪廻は何も死んでまた生まれ変わることだけを指すわけではない。

目の前に白い紙がある。これは空にぽっかりと浮かんでいる白い雲から生み出されたのである、というと何やら禅問答のようで何だかわからん、と普通はなってしまうであろう。

紙は何からできているか?それはパルプである。それではパルプは何からできているか?それは木材チップである。それでは木材が成長するには何が必要か?雨が降らなければ木材は枯れてしまう。雨はどこから降るか?空の雲からである。つまり紙は空の雲の存在なしには成り立たず、目の前の白い一枚の紙は、空に浮かぶ雲から生み出されたのである。

このように考えていくと、全てはつながり循環している。この世の成り立ちは、そのようになっている。しかし、普通はそのように考えない。みんなバラバラで独立しているように思える。しかし、実際はそうではなく、お互いに依存しあって、循環を繰り返しているのである。

物事を強引に推し進めようとするタイプの人がいる。そうした方が良い場合も当然ある。しかし、流れに逆らってもどうにもならない場合がある。循環していくときのパワーは非常に強い。それに逆らっても無駄な場合もあり、その流れを無理に食い止めようとしても、後で手痛いしっぺ返しを食うことにもなる。

では何をしても無駄かと言えばそうではない。まずは一切が循環していることを理解し、ジタバタしてもしょうがないときは、じっくりと待つ。そして行動すべき時は行動する。これを冷静に見極める目と智慧が肝腎である。

こういうことを理解し役立てていくために、占星術や占いが発展したといえる。私はそういった技術を基本的には使わない。瞑想を深めていくと、自然に理解ができるようになっていくようである。そしてそれが一番自然ではないかと思う。

ナーダ・ブラフマー

ナーダとは音のこと、ブラフマーとは宇宙創造神のこと、「音こそ神なり」という教えだ。

私たちが生きているこの世界は、何もない無の虚空から、音によって想像され、形づくられ、今も動かされている。この音は人間の耳には聞こえないのだが、天空から地上まですべての空間に満ち満ちており、その音と響鳴・共振することによって、目に見える世界、耳に聞こえる世界が生まれている、というのだ。

この音を「虚空の音」と呼ぶことにしよう。この地上に存在するあらゆるもの、岩も風も水も、花や樹や動物も、私たち人間の体や心さえもがこの「虚空の音」と響き合いながら自らの姿を形作り、動き、働いている。

すべての存在は、たった一つの源「虚空の音」から生まれ、それぞれに独自の音(波動)を響かせながら互いに響鳴し合い、さらに大きなシンフォニーを奏でている。というのが、この「ナーダ・ブラフマー」の教えなのだ。

映画監督 龍村 仁

そうであれば、我々人間は、人間通しだけでなく、象や鯨とも話ができるし(響鳴できる)、岩の意識を感じ、風邪の伝言を聴き、樹や花と共に歌うことができるはずなのだ。人間は、自分の内なる波動をチューニングさえすれば、この世のすべての存在と時空を越えて響き合える、という訳だ。

(中略)

原子はひとつひとつが固有の音(波動)を発していることがわかっている。その音が組み合わさって、花なら花としての音楽を奏でている、というのがこの世の存在の姿なのだ。人間もまた、超複雑で多数の原子達が集まって奏でる音楽であることに変わりはない。そして、樹が奏でる音楽、岩が奏でる音楽、水が奏でる音楽、動物たちが奏でる音楽がまた互いに響き合ってさらに壮大なシンフォニーを奏でているのが、生きている地球(ガイア)の本来の姿なのだ。

ところが今の地球は、人間が発する不協和音によってハーモニーが大きく乱されている。人間だけが自我(エゴ)を持ち、自分だけが幸せであればよい、という歪んだ心の波動を発して地球全体の波動を乱している。

人間だけが不協和音を発する理由は、自我(エゴ)によって、他の存在が奏でている音楽を聴く耳を閉じてしまっているからだ。合唱や共奏を楽しむ人なら誰にでもわかることだが、他の人が奏でる音を聴かないで、美しい音楽の創造に、加われるはずもない。

自分の発する不協和音によって地球全体のハーモニーを乱し、その乱れた波動によって、自分自身もストレスに陥っているのが今の私たちの状態なのだ。

チベット仏教における「マントラ」の役目は、他の存在が奏でる音楽を聴く耳を開くことにある。耳を開くことによって、自分以外のすべての存在と共に美しい音楽を創造するための修行の方法である。

「マントラ」には、言葉のような意味はない。人間が発する声の様々な組みあわせなのだが、その声の波動が、心の中枢である体の中の7つのチャクラを開き、仏教の最高の境地である「微笑みの波動」を生み出すのだ。

実際に「マントラ」を唱えているとわかることだが、唱え続けていると次第に体全体がほぐされ、自分と外界を隔てている境界が溶解し、まるで自分が宇宙の大海の波となってゆっくりと揺れているような不思議な安心感に満たされてゆく。この宇宙を生み、形作り、今も動かし続けている「虚空の音」と響き合っているような感覚が生まれる。

その時多分、その人の耳は開いている。そして、他のすべての存在と響き合う自分の美しい音楽を創造し、楽しんでいる。微笑みがごく自然に生まれているだろう。

龍村 仁 

ブッディスト・モンクス/サキャ・タリ・シン~癒される場所
ライナーノーツより





最近、密教法具の音を収録したCDを聴いている。そうすると、自然に体がくつろいでいき、心もゆるんでくる。そして自然に瞑想状態に入っていく。音の持つものはすごいものがある。

私たちの周りには、音が満ちあふれている。より正確に言うと波動であろう。これからすべてが生み出され育まれている。ナーダ・ブラフマーというものが、最近よくわかるようになってきた。本来私たちは調和がとれている。しかし自らその状態を崩してしまっている。それはナーダ・ブラフマーということが、わかっていないからそういうことができてしまうのであろう。このことを私たちはよく理解し、また調和をはかっていくことをしていく必要があるだろう。

イベントのお知らせ

以前にも告知しておりましたが、今月16日(土)18時から21時まで教室を開催します。当初の予定では合同でのワークショップの予定でしたが、今回は私単独で開催することになりました。

◆場所

江戸川区行船公園内源心庵 最寄り駅 西葛西駅
http://www.city.edogawa.tokyo.jp/sec_jigyodan/sec_kouen/gyousen.html

◆料金 

3000円

◆内容

気功 ヨーガ 瞑想
他にも色々な技術を組み合わせていきます。


ゆったりとした服装をご用意ください。敷物は必要ありません。

開催まであまり時間はありませんが、参加希望される方はご連絡お願いいたします。
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プロフィール

唯我独存

Author:唯我独存
ヨーガ・瞑想暦20年ほど。レイキマスター。日々この瞬間を大切にすることをモットーとする。気付き、寛ぎ、ハートの三つから、今ここにあることを体得し、それを伝えていこうとしている。

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