母親との話で
昨日は約一カ月ぶりに、母親と会って話をした。特にこれといって用事もなかったのが、定期的に会うのも親孝行のうちだと思うし、母親も喜んでいるので、一〜二カ月に一度くらいは話をするようにしている。それは今の私にとって、とても大事なことだと思う。
ファミレスに入ってすぐにタロットを行うことにした。事前に伝達をしていなかったので母親も何をみてもらうかすぐに思い浮かばないようだったが、一つの題材を決めてもらい診断を始めた。その時出たカードは「わからないことは、わからないままにしておくのがよい」という意味合いのもので、そのことを伝え、それからインスピレーションのおもむくままに話していった。母親はその題材については、その見解がぴったりだと言っていた。やはり出るべくして出るカードが出るものだ。
その後は他愛もない話になるかと思っていたが、タロットを最初にやったせいか、精神的、霊的な話になっていった。母親もある宗教団体に属しており、そういった話には関心がある。何ヶ月か前から私が理解し始めたことを話していたが、その時と比較して今の方が理解が深まっているため、より確信を持って話をすることができた。思考が働く前に勝手に話が自分の口から外に現れ出る感じであった。母親も私の話を以前よりは理解してくれたようだった。
その時にした話は、過去も未来も本質的には存在せず、今ここが全てであるとか、最初のうちは努力や探究も必要だが、やがてそれらも手放して委ねていくことになるとか、閉ざされた状態では目覚めることはなく、開かれていくことで目覚めていくとか、悟るとか覚醒するというのは以前は非常に難しく特別なことだと考えられていたが、本来はシンプルなことで、これからはレベルの違いこそあれ、気づいていく人が増えていくだろう、といったことを話していった。母親は少々ついていきにくいところもあったようだが、大概は私の話に納得していたようだった。これはお互いの気づきが深まっていっているからだと思う。
母親は宗教団体に属しているため、どうしても組織や先達や経典をよりどころとしているところがある。それはそれでいいけれども、私には必要ないと言ったら、「何も必要なく、自分は全てわかっているというのは、ちょっとおこがましいんじゃないの」と言われ、私は全てわかっていると言ったつもりはなかったが、誤解をまねく言い方をしたと思い、「そういったものに依存をする必要がないということだよ」と言い直したら、母親も理解をしてくれた。組織や師匠や経典をよりどころとする人たちも当然存在するが、これからの時代はそれらが少しずつ崩れていくのではないかと感じる。
母親からよく「あんたは何をやりたいの?」と聞かれるのだが、私は自分が気づきつつあることを、様々な手段をつかって伝達してくことができればと答える。気付きを深めるために瞑想はとても良い手段だが、それがなかなかできない人たちもいる。身体技法が必要な人もいれば、エネルギーで理解する人もいれば、言葉を介さないとなかなか伝わらないタイプの人もいる。密教においては方便が重視されるが、これは様々な手段を用いていくことであり、決まり切ったやり方だけでは限界がある。そして一人だけで行うことには限界があるので、多くの人の協力の元に取り組んでいくことになるだろう。
話の最後の方で、人は何かをしていないと退屈するし不安になってしまう、という話になり、私は何もしなくても、ただそこに在るだけで十分に満たされるということを言った。現代人は外的な刺激にさらされ続けており、それが当たり前になっている。そして、外的刺激を受けていないことが不自然となってしまっている。しかしそれは本来逆であり、刺激を受けていることが不自然であり、刺激を受けずにただそこに在ることが自然である。このことを理解するのが容易なことでなくなってしまっているが、本来の在り方を少しでも伝えていくことができればと感じている。
母親と話すことで、自分自身の気づきも深まっていき、とても有意義な話しとなった。親と話すとなると、どうしても色々な概念が入ってきてしまうものだが、それが段々なくなってきているように思う。親子という枠組みも越えて、より深いつながりを持てるといいなと思う。
ファミレスに入ってすぐにタロットを行うことにした。事前に伝達をしていなかったので母親も何をみてもらうかすぐに思い浮かばないようだったが、一つの題材を決めてもらい診断を始めた。その時出たカードは「わからないことは、わからないままにしておくのがよい」という意味合いのもので、そのことを伝え、それからインスピレーションのおもむくままに話していった。母親はその題材については、その見解がぴったりだと言っていた。やはり出るべくして出るカードが出るものだ。
その後は他愛もない話になるかと思っていたが、タロットを最初にやったせいか、精神的、霊的な話になっていった。母親もある宗教団体に属しており、そういった話には関心がある。何ヶ月か前から私が理解し始めたことを話していたが、その時と比較して今の方が理解が深まっているため、より確信を持って話をすることができた。思考が働く前に勝手に話が自分の口から外に現れ出る感じであった。母親も私の話を以前よりは理解してくれたようだった。
その時にした話は、過去も未来も本質的には存在せず、今ここが全てであるとか、最初のうちは努力や探究も必要だが、やがてそれらも手放して委ねていくことになるとか、閉ざされた状態では目覚めることはなく、開かれていくことで目覚めていくとか、悟るとか覚醒するというのは以前は非常に難しく特別なことだと考えられていたが、本来はシンプルなことで、これからはレベルの違いこそあれ、気づいていく人が増えていくだろう、といったことを話していった。母親は少々ついていきにくいところもあったようだが、大概は私の話に納得していたようだった。これはお互いの気づきが深まっていっているからだと思う。
母親は宗教団体に属しているため、どうしても組織や先達や経典をよりどころとしているところがある。それはそれでいいけれども、私には必要ないと言ったら、「何も必要なく、自分は全てわかっているというのは、ちょっとおこがましいんじゃないの」と言われ、私は全てわかっていると言ったつもりはなかったが、誤解をまねく言い方をしたと思い、「そういったものに依存をする必要がないということだよ」と言い直したら、母親も理解をしてくれた。組織や師匠や経典をよりどころとする人たちも当然存在するが、これからの時代はそれらが少しずつ崩れていくのではないかと感じる。
母親からよく「あんたは何をやりたいの?」と聞かれるのだが、私は自分が気づきつつあることを、様々な手段をつかって伝達してくことができればと答える。気付きを深めるために瞑想はとても良い手段だが、それがなかなかできない人たちもいる。身体技法が必要な人もいれば、エネルギーで理解する人もいれば、言葉を介さないとなかなか伝わらないタイプの人もいる。密教においては方便が重視されるが、これは様々な手段を用いていくことであり、決まり切ったやり方だけでは限界がある。そして一人だけで行うことには限界があるので、多くの人の協力の元に取り組んでいくことになるだろう。
話の最後の方で、人は何かをしていないと退屈するし不安になってしまう、という話になり、私は何もしなくても、ただそこに在るだけで十分に満たされるということを言った。現代人は外的な刺激にさらされ続けており、それが当たり前になっている。そして、外的刺激を受けていないことが不自然となってしまっている。しかしそれは本来逆であり、刺激を受けていることが不自然であり、刺激を受けずにただそこに在ることが自然である。このことを理解するのが容易なことでなくなってしまっているが、本来の在り方を少しでも伝えていくことができればと感じている。
母親と話すことで、自分自身の気づきも深まっていき、とても有意義な話しとなった。親と話すとなると、どうしても色々な概念が入ってきてしまうものだが、それが段々なくなってきているように思う。親子という枠組みも越えて、より深いつながりを持てるといいなと思う。




